魔幻の紙縒り 3

半年が過ぎた。


「ミホリ菌、ミホリ菌、タッチ!」


ある男の子がミホリの体に触ったあと、他の男の子にタッチしていく。そして、タッチされた男の子は、今度は自分が鬼とばかりに他の人にタッチしていく。 

ミホリは思った。


私は病気?違う!でも、おしっこを漏らしてしまったあの日以来、普通じゃなくなった……。もう誰も認めてくれない。


昼休みになった。

全員が運動場で遊んでいた。運動場と言っても、面積は狭かった。それでも、ジャングルジム、雲梯、ブランコ、横にグルグル回る全体がドーナツ型の椅子、滑り台、砂場と、いろいろな遊具が揃えてあった。

入園した日、全くの他人同士だった園児たちも、もうこの時期になると仲の良いもの同士が集まって友人関係を形成していた。あっちのグループ、こっちのグループ、至る所に友達のグループが存在していた。

ミホリは、どのグループにも属せずにいた。今日も一人、砂場で山を作っていた。作業の手順は簡単だ。まず、しゃがみ込んだ状態で、砂を掻き集める。次に、掻き集めた砂で山を作る。そのあと、麓にトンネルを掘って中で貫通させる。それで完成だ。

ミホリは一生懸命、トンネルを掘っていた。これの最大の楽しみは貫通の瞬間である。その喜びはミホリにしかわからない。一緒に喜びを分かち合ってくれる人間は誰もいない。でも、寂しいなんて思ったことは一度もなかった。

みんなと一緒にいると極度の劣等感を感じてしまい、陰湿ないじめを受けてしまう。こんなことなら一人で砂場にいる方が楽なのだ。

ミホリは自分の逃避的な行動を正当化して、何とか幼稚園の中で自分の居場所を見つけようとしていた。

しかし、その居場所すら、徐々に狭くなっていった。

毎朝、教室に入るとすぐにいじめられる。ミホリ菌などと言われて口頭でいじめられるのは、まだマシな方だ。酷いときには教室の隅に追いやられて激しく蹴飛ばされる。授業中も、お弁当の時間も一緒だ。安心できる時間なんてなかった。教室の隅で泣いた日は、もう数えきれない。追いやられていくうちに、いつしか砂場だけが唯一の居場所になっていた。

ミホリは思った。


もう、ここに居るしかない。他の場所にはいけない。


時が経つと、彼女の一日の行動パターンは、いじめっ子たちに把握されるようになった。

唯一の楽しみである砂場での山作りも、妨害を受けるようになった。山ができて、さあ、これからが最大の楽しみであるトンネル掘りだというときに、上から踏んづけられてしまうのだ。

残酷に壊される砂山を見るたびに心が折れていった。

いじめっ子たちは快感を覚えたのか、この妨害は連日続いた。次の日も、次の日も、またその次の日も……。

ミホリは、いつしか砂場から姿を消すようになっていた。




「今日は合格!」


母は満足気な表情でミホリを褒めた。いつもと同じ、家でのお勉強タイムだ。小学4年生レベルの漢字テストを母が実施し、それに対してミホリは100点満点を取ったのだ。

ミホリは思った。


家にいる方が楽しい。ずっと家にいたいよ。家で算数や漢字のお勉強をしている方がいい。


だが、それは本音ではなかった。4歳の女の子がそんなもので楽しいと思うはずがない。どちらかと言えば……という前提が付く。すでに育児放棄の現実を集団生活で食らっている。幼稚園で、こんなことがあった……あんなことがあった……なんて、家では話せない。

このときはまだ、壮絶ないじめや虐待を食らう数年前なので、社会全体から見た自分の立ち位置、現状から見えてくる将来図などは、まだ幼すぎて、いろいろなものが漠然としすぎていた。心に引っかかるものはあったものの、具体的な絵図は、まだ構築されていなかった。

家にいると何となく楽しいなぁと思えたのは、祖母の存在が大きかった。


「おばあちゃん。」


ミホリは勉強タイムが終わると、真っ先に祖母の部屋に行く。

祖母は、こたつに入って、一人でブラウン管のテレビを見ていた。

ミホリはこの部屋の中をチョロチョロと走り回ったあと、テレビの前に座り、チャンネルのつまみを回して番組を変えてしまう。

もちろん、アニメ番組だ。

この瞬間からテレビはミホリのものとなる。そして、祖母の傍に寝そべって一緒にその番組を見る。ミホリはアニメに出てくるいろいろなキャラクターの説明をする。おそらく、祖母を自分の世界に連れて行きたいのだろう。そんなミホリに、祖母もその世界にできるだけ入り込もうと努力している。


「うん。うん。魔法使いねぇ。魔法のステッキねぇ。」


母ではダメ、自分の世界に入ってきてくれるのは祖母だけ……。この1年間で、ミホリの心にはそういう構造が出来上がっていた。


「ミホリちゃん。みかん食べる?」


「うん。」


ミホリは、みかんを受け取って外の厚い皮を剥いだ。中の実は綺麗に10等分されていた。

実も薄い皮で覆われている。

その中の一つを口の中に放り込む。祖母も同様に口に入れた。ムニャムニャと噛んだあと、ミホリは薄い皮ごと飲み込んでしまうが、祖母は中の実だけを一片残らず食べて、薄い皮は吐き出している。この作業を、手を使わずに口の中だけでやる。ミホリには、これがどうしてもできなかった。




「はい。一、二、三、四……。」

ここは幼稚園の園庭である。先生が手を叩きながら園児たちの指導をしていた。近日開催予定の運動会の出し物である、お遊戯の稽古をしているのだ。本番は小学校の広い運動場を使って行われるため、それを見越しての入念な稽古が行われていた。

音楽が流れて、それに合わせて園児たちが踊っていた。もうこんな練習を1ヶ月以上は続けている。全員で合わせるということがなかなかできないため、何度も何度も同じことを繰り返している。

ようやく最後の振り付けまでたどり着いた。しかし、簡単にはいかない。


「はい。やめ!」


先生が笛を吹きながら言った。


「はい。次の振り付けで最後だよ。最後は男の子と女の子が一組になります。いいですね。まず相手の子と腕を組んで一回転します。そのあと両手を空に向けてバンザーイをします。これで終わりだよ。さあ、最後の振り付けだからみんな頑張ろうね。」


狭い幼稚園の園庭で、園児たちは、めいっぱいに広がっている。男の子と女の子が体を触れ合わせる振り付けは、これが最初で最後だった。


「はい。腕を組んで。」


先生の一声で向かい合っている男女が腕を組み始めた。

ミホリは思った。


私……、男の子と腕を組むのは初めて。私、みんなに嫌われている。相手は嫌な思いをしているに決まっている!でも、嬉しい。

         

ミホリの相手は積極的に腕を組んできた。異性と腕を組むという意識よりも、このお遊戯を完成させたいという意識の方がこの男の子には強いようだ。

名前は、ケントという。

みんなが「ケント、ケント……」と気軽に呼んでいる。クラスでは一番の人気者だ。

園児たちは、先生の手拍子に合わせて最後の振り付けに挑んだ。


「おい、ケントの奴、ミホリと腕を組んでる。おい見ろよ、あっちあっち。」


早速、冷やかしの声が聞こえてきた。

ミホリはすごく気になった。しかし、ケントは全然気にしていない。彼にとっては、周囲の視線や聞こえてくる声などはどうでもいいようだ。

何度も何度も腕を組んで練習に取り組む。

ミホリは奇妙な気持ちだった。


私がみんなと一緒にお遊戯をしている。これならお母さんをごまかせる。お遊戯は笑顔でやるんだ。最後のケント君との腕組みは最高の笑顔でやるんだ。それでお母さんをごまかせる。私は幼稚園で楽しくやっているよって見せることができる。


運動会当日は、当然、母が見に来る。家では良い子、幼稚園では友達が一人もいない孤独な女の子……、当日、この異なる二つの顔をどうやって使い分けるか……。お遊戯の最中だけならごまかしが効くが、運動会全体を通してそれができるかどうか、ミホリには気がかりだった。

みんなの前では一度も見せたことのない笑顔を、果たして見せられるかどうか……。笑うこと自体は大したことではない。ただ、笑った顔をみんなの前で披露しようものなら、当然の如く、罵声が浴びせられる。「おいおい見てみろよ。ミホリが笑ってる、気持ちワル……」っていう風に……。そんなことくらい、今からわかる。でも、笑わないと母から「あの子、幼稚園で上手くやっているのかしら?」って思われてしまう。

みんなの視線を気にすればいいのか、それとも、母の視線を気にすればいいのか、当日はとても難しい選択を迫られる。

 



運動会前日、本番まであとわずかとなった。

2ヶ月前から練習を始めて、ここ数日は本番さながらのリハーサルを行なっている。普通は省略するはずの綱引きと玉入れを本当にやってしまうところは、さすがに幼稚園だなぁと思ってしまう。

ミホリは練習の合間にある休憩時間に、必ず、砂場で一人になる。なんだかんだで、ここしか居場所がなかった。

そこに、いつものいじめっ子集団が近寄ってきた。軍団のリーダーは、お絵かきやお弁当の時間に隣に座る例の男の子だ。

この子がミホリの体に触る、そして、すぐに他の男の子にタッチする。


「ミホリ菌!」


こういう風に言いながら、この子たちの楽しい鬼ごっこの時間が始まる。

ミホリは悔しさをこらえながら、男の子を見ていた。

顔は、特段、可愛くもなければ、不細工でもない。外見でいじめられているという感覚はなかった。箸を使えない、一人でトイレに行くこともできないという、集団生活に適応できなかったことが原因と言わざるを得ない。

ミホリは不安だった。


どうしよう。明日、演技や競技の合間に今みたいにいじめられたら……。お母さんに見られちゃう。それだけは阻止しないと。勇気があればこの子たちに言ってやれる、「いい加減にしなさい」って……。でも、無理。そんなことを言う勇気はない。言ったら言ったで、おしっこのこと、言われちゃう。


先生の笛が鳴り響いた。


「はい。ではお遊戯の練習をもう一回やって終わりたいと思います。」


並ばされて、お遊戯の練習が再開された。曲が流れ、一斉に踊り始める。

目の前にはケントがいる。

何度も何度も繰り返されたお遊戯の稽古の中で、ミホリは最後のシーンを強く意識するようになっていた。

曲が終わりに近づき、ケントと腕を組む。

ミホリはケントに触れながら思った。


私の体に触れて嫌がらない人、ケント君が初めて。


ミホリはケントが女の子だったらお友達になれたかもしれない……、そう思った。

自然体で、ごく普通に接してくれていたからだ。当たり前の行為だが、ミホリにとっては入園以来、これが初めてのことだった。




「ミホリ、明日が運動会だからって、さぼったらダメよ。」


どんな時でも、家ではお勉強タイムが存在する。

母は運動会のことで頭がいっぱいになっているミホリに釘を刺した。

幼稚園登園日は夕食の前後にそれぞれ勉強タイムが設けてあり、母が目印を付けたところまで各教科をこなさなければならない。それが家でやる日課だ。ミホリは黙々と、国語、算数、理科、社会といった小学校中学年の問題集をこなし、その知識を深めていった。全部終わると母が採点し、間違ったところは徹底的にわかるまでやらされる。

ミホリは言われた通りに、この日課をこなしていった。


「最近、間違いが目立つようになったわね。ちゃんと集中してやらないとダメよ。」


最近、母は合っているところを褒めるよりも間違っているところを注意することが多くなった。

ミホリは、そういうちょっとした母の変化に引っ掛かりを覚えた。

勉強タイムが終わると迷わず祖母の部屋に行く。


「おばあちゃん。」


祖母は黒タンスに背中をもたれ掛けて、こたつに入って座っていた。

ミホリは祖母にジャレ付く。


「明日、運動会だね。何やるの?かけっことかやるの?」


「うん。やるよ。あとお遊戯もやる!」


「おばあちゃんも見に行くから頑張ってねえ。」


「えっ!」


ミホリに重度の不安が襲った。


おばあちゃんも来るの?どうしよう。私、いじめられているの。どうしよう……。いじめられているところをおばあちゃんに見られるわけにはいかない。


「あっそうそう、ミホリちゃん。」


祖母が何かを思い出したかのように言った。

ゆっくりとした動作で振り返り、黒タンスの引き出しを開けた。何かを手に取った。


「なあに、それ。」


ミホリが言った。

縦30センチ、横20センチ、高さ10センチの木箱がこたつの上に置かれた。

祖母は何かを懐かしむような視線で木箱を見ている。

かなり古い外観である。大正時代、いや、明治時代、いやもっと前か……、江戸時代の千両箱のような感じがする。

祖母はゆっくりとした動作で金具を外して箱を開けた。

中には、紙が二枚入っていた。紙縒りが結び付けられた白い無地紙である。サイズはA4だ。もう一枚は、この白い紙についての取扱説明書である。

いったい何なのだろうか?


「この箱はねえ、おばあちゃんの大切な宝物なんだけどね、ミホリちゃんにプレゼントしようと思うの。」


「これ?」


ミホリは困惑した様子だ。


「そうよ。お母さんには内緒だからね。勝手にプレゼントすると、うるさいからねえ。」


祖母は優しい表情で微笑んでいる。

しかし、ミホリにはよくわからない。小さな手を伸ばして興味本位で紙を触ってみる。やはり、ただの紙だ。


「ただの紙だよ。何?」


「ここに説明書が付いているからねぇ、読んでごらん。」


ミホリは説明書を手に取ると、それを見た。だが、1秒もたたないうちにポイッと離した。


「読めないよ、こんなの。」


「あらあ、そうだったね。ミホリちゃんは、まだ、ひらがなしか読めなかったね。ごめんねぇ。ミホリちゃんには早かったね。でもね、これで終わりじゃないんだよ。もう一つ、プレゼントがあるの。何かなぁ?」


「なあに?」 


祖母は、再び、黒タンスの引き出しに手を伸ばし、中から何かを取り出した。


「はい、ミホリちゃん。」


「うわあ、マジカルステッキだぁ。」


ミホリは満面の笑みを浮かべた。

祖母が取り出したのは、魔法の杖のおもちゃだった。これはミホリが話していたアニメ番組に登場するもので、主人公の魔法使いが、いつも悪者をやっつけるときに使われるものだ。

ミホリは、早速、杖を手にすると、部屋の中を走り回った。何やら魔法を唱える言葉を発しているようだ。最初に出したプレゼントのことなど、まるで記憶から無くなったかのように、ミホリは魔女ごっこを続けた。

しばらくして疲れたのか、または、甘えたくなったのか……、再び、祖母の胸に寝そべってきた。

手には杖のおもちゃを持っている。


「良かったねえ。」


「うん。おばあちゃん、ありがとう。」


ミホリは寝そべりながら杖をいじくっている。

祖母はどこか懐かしそうな視線を注ぎながら、先程、ミホリが手放した取扱説明書を、再度、箱に入れた。

そこには、こう書かれてあった。


これは、ある偉大な魔導士様からのメッセージです。魔幻の紙縒り。そう、それがこの紙の正式名称です。あなたの弾けた魂に連動いたします。人生というものは儚い。全てを手に入れて、幸福という名のぬくもりに抱かれながら生涯を閉じる人は少ない。また、何一つ手に入れることができずに喪失と絶望と孤独な中で生涯を閉じる人も少ない。人間たちは空に向かって旅をしています。最下層から空を見上げたとき、何が見えますか?先頭をゆく者たちから続く人々の後ろ姿が、たくさん見えるはずです。そこには様々な序列が存在します。魔導士様はそんな世の中の格差を少しでも縮めることができれば……と、このアイテムを作ったのです。魔導士様は特に人類に興味があったわけではありません。魔幻の紙縒りを作ったのは、ただ暇を持て余しておられたときに考えついたささやかな遊びに過ぎないのです。人間世界で例えると、思いつきというものです。私は人間世界と、ささやかな関わりがあります。ですから魔導士様に代わって、私の口から魔幻の紙縒りの使用方法と効力についてご説明いたしましょう。使い方は簡単です。紙縒りの付いた紙に願い事を書くだけです。ただそれだけで、あなたの願い事は、たとえどんな願い事であっても叶えることができるでしょう。ただし、一つだけ発動条件があります。それはあなたの魂が臨界に達していることです。基本的に人間の魂はとても穏やかに推移します。魂が臨界に達したり、弾けたりすることはまずありません。魂の臨界というものは、幸せな人生や平凡とは無縁なのです。病死や事故死や獄死のようなものでも魂は穏やかなまま消えていきます。魂が臨界に達するには長い年月による蓄積が必要です。何の蓄積かわかりますか?魔導士様が興味をもたれた喪失と絶望と孤独、この三つが魂を増幅させていきます。その蓄積こそが臨界へとたどる道と言えるでしょう。魔導士様の概念はとても抽象的でわかりにくいので、私が例を挙げて説明しましょう。現在の人間世界には、エスカレーターという乗り物がありますよね。あれを人生に例えてください。上りエスカレーターの乗り口から上を見たとき、各段の手すりの横には宝箱が固定してあります。宝箱の名前は下から順番に、「家族愛」、「幼なじみと過ごした日々」、「幼稚園・保育園・こども園での幸せな日々」、「小学生時代の幸せな日々」、「友達との出会い・友達と遊んだ日々」、「中学生時代の幸せな日々」、「部活動・課外活動・学習塾の日々」、「高校生時代・専門学校時代の幸せな日々」、「初恋と片想い……」、「受験・就職を取り巻く環境」、「バイト仲間との日々」、「愛の告白の結果による失恋と恋愛」、「デートをした日々・二人で過ごした時間」、「セックス」、「成人式での再会」、「恋人との旅行」、「同棲の日々」、「婚約・結婚」、「妊娠・子供が生まれる」、「家族でお出かけ……」など、ここから先も、数えきれないほどの宝箱が置いてあります。また、今紹介したもの以外にも、たくさんの宝箱があります。あくまで私の話は例えですから……。要するに、私が言いたいのは、一度動き出したエスカレーターは後ろには動かないということです。今という時には、その、今という時にしかできないことが山ほどあるのです。ほとんどの人は、それらの宝箱を知らず知らずのうちに開けて自分の血肉にしています。しかし、残念ながらその宝箱を開けたくても開けられない人がいます。それは努力不足・我慢不足・行動不足……という言葉では補いきれない運命的なものでもあります。80歳を過ぎてから「生まれて初めてデートがしたい」と思ってその宝箱を開けようとしても、もう手が届くことはないのです。宝箱を一つも開けることができずに時が流れると、ある一定の時に、言いようのない喪失感と、その先の人生に対する絶望感が襲ってきます。そのとき、人は……。何のために生まれてきたのか?何のために存在したのか?私の一回きりの人生は何だったのか?そんな疑問に直面します。その疑問が思考回路を遮断し、頭の中で輪廻転生を繰り返します。やがて、何のために働くのか?何のために残りの人生があるのか?といった身近な疑問に変わり、同年代の人たちが送る幸せな人生を尻目に、老いと孤独と絶望の中で、生きる意味・気力・目的・希望が奪われていきます。その先には、無職という肩書きのもと、繋がっている人がこの世に一人もいないという、隔離された残酷が待っているのです。そこでは、過去を振り返りながら途方に暮れる日々と、一度きりの人生をこのまま何もできずに終わりたくないという強い気持ちを懐きながらも、もがき苦しむだけで自殺や殺人という選択肢さえ選べない醜い自分が存在するだけなのです。喪失と絶望に包まれた孤独の世界で、精神は枯渇していきます。宇宙、存在、幻想、神秘、時間、数学、宗教、瞑想、自然、心理……といった哲学的妄想に引き込まれ、心の平穏を求めて彷徨いますが、それも長くは続きません。やがて、魂は臨界に達してしまいます。そして、弾けてしまうのです。弾けた魂は紙縒りに聖なる力を吹き込みます。世界は無限の可能性に満ち溢れ、パラレルの扉があなたを誘います。世界はあなたの手中に落ちるのです。繰り返しになりますが、どんな願い事でも叶います。ただし、一回しか使用できません。力は絶大です。ご使用になる前に、よく考えてみて下さい。かつて、私も魔導士様のお怒りに触れ、愛する人と引き離されてしまいました。私も人間世界も、所詮、魔導士様の手のひらの上で踊らされている存在でしかありません。最後になりますが、魔幻の紙縒りが発動したとき、あなたには全世界を支配する強大な力が降り注ぐでしょう。私は天の川のほとりから、いつでもあなたを見守っています。


祖母は何も言わず、黙々と手を動かして、箱に蓋をした。

ミホリは、いつしか眠りについていた。


「あら、ミホリちゃん、寝ちゃったのかな?」


祖母はミホリの可愛らしい寝顔を見て穏やかな表情を浮かべた。

木箱は、再び、黒タンスの引き出しの中に収納された。以後、この木箱は、ここで長い年月を過ごすことになる。




運動会当日、赤と白の2チームに分かれた。ミホリは赤チームだ。

ここは小学校の運動場ということもあり、幼稚園の10倍の広さがある。いつもと勝手が違うので園児たちは緊張していた。

保護者席には母と祖母がいる。

今日のプログラムを見ると、いきなりミホリの出演するお遊戯から始まる。最初は注目度が高いので失敗すれば目立つだろう。園児たちもそうだが、一番緊張しているのは先生だろう。        


「園児たちが入場します。それでは園児たちの力強いお遊戯をご覧ください。どうぞ。」


アナウンスがかかった。入場門から園児たちが入場してきた。ついに本番がスタートした。

運動場全体にかけ足で散らばっていき、それぞれの配置についた。

ミホリの立ち位置から、すぐ近くに母と祖母がいた。

ミホリは二人の視線を気にしながら、後ろや横から石が飛んでこないかを警戒した。いじめっ子の男の子たちに石をぶつけられるのは練習ではよくあったことだ。

沈黙の時はあっけなく終わり、お遊戯の音楽が流れ始めた。

結局、石は飛んでこなかった。さすがのいじめっ子たちも、自分の親の前ではそういう場面を見せない。したたかだ。練習のときは安物のテープレコーダーから音が流れていたが、今回は違う。小学校の校舎に取り付けられているスピーカーから大音量が流れている。少し離れた住宅にも響きわたるくらいだ。やはり、本番はスケールが違う。雰囲気に呑まれず、いつもと同じように踊りだす園児たちは大したものだ。

ミホリとケントは向かい合って踊る。出だしは順調だ。

ミホリは精一杯の演技を見せている。その中で、どこか余裕も感じられる。


「ミホリちゃん、右!」


ケントの声が飛ぶ。


「ミホリちゃん、足!」


再び、ケントの声が飛ぶ。

ミホリは踊りながら思った。


私、いつも体がガチガチになって失敗して責められて泣いちゃうのに、今日は違う。みんなと一緒に踊れている。リズムに合わせて踊れている。信じられない。おばあちゃんが見に来ているから?お母さんが見に来てくれているから?違う。今日はいつもよりガチガチに固まっているんだ。ならどうして?ケント君だわ。ケント君が私をリードしてくれている。


大勢の人が運動場を取り囲んでいる。保護者以外にも近所のおじさんやおばさん、町内のいろいろな人たちが、可愛い園児たちの演技を見ようと集まってきている。

園児たちは彼らの視線など気にも止めず、踊り続けている。曲が終盤に近づき、園児たちの演技にも、よりいっそうの熱が入る。先生は、本番だというのに思わず手をたたいてリズムを取ってしまっている。

そして、あの瞬間がやってきた。

ミホリとケント、腕をガッチリと組んで弾むようなステップを見せた。


私が輝いている。信じられない。でもお母さんは嬉しそうじゃない。全然、嬉しそうじゃない。どうして? おばあちゃんは満面の笑みで私を見てくれているのに……。



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