車輪の支配者

遠野リツカ

車輪の支配者

思えば、私はアイツの後ろ姿しか見てこなかった気がする。

いつも私の先を歩き、私の手を引いていたアイツ、

私を自身の背に隠し、盾となっていたアイツ、

不要なものや障害物を極力排除し、私に危ない橋を渡らせようとしなかったアイツ。

そして、今も。

私を荷台に乗せた自転車を漕いで急坂を登る。


「——今日、クラスの女子に告られた」


突然の自慢。

私は地につかない自分の足をただぼんやりと眺めていた。高校に入学して3ヶ月経ったというのに新品と大差ないほど綺麗なローファー。


……つまんねぇの。


上から降ってきた戯言は私の耳には入らず、うつむいていた私の頭から背中をつるりと滑ってお腹側にまわってふくらはぎを伝い、つるつるしたローファーに弾き飛ばされてそこら辺の石と同化した。


「ふーん。そうなんだ」


アイツはちらっとこっちを見た。その涼しげな切れ長の目をシカトした。

まあ確かに、かっこいいとは思う。中学のときからバスケをやっていたお陰か背が高く筋肉もついているし、顔もこの辺の男子の中ではずいぶんと垢抜けた見た目をしているとは、思う。でもそれだけだ。私がアイツに言う「かっこいい」は小さな弟を褒めるときのような感覚と似ている。つまり、私にとってアイツはただの“親戚”、“弟”的存在に過ぎないのだ。

そもそも、人生の9割以上を共に過ごしてきたアイツをどうして「かっこいい」と本気で言えるだろうか。


っていうか、おい、いつまでこっち見てる。もうすぐ信号だぞ。


「俺、断ったよ」


断った『よ』。一体何の報告なのだろう。まるで私が「オマエは今日告白されるから、ちゃんと断るんだよ」と指示したみたいじゃないか。


「なあ」


呼ばれる。

顔を上げる。

目が合う。

アイツの奥に見える信号はもう青なのに、私たちは動かない。え、オマエの顔が赤いからストップってこと? いつから人間信号機になったの?


「俺さ、お前のことが好きなんだ」

「…………、…………あぁ?」


あまりに突然過ぎて、とんでもなくアホみたいな声が出てしまった。

アイツは私の顔を一度見て、ふいっと顔を前に戻した。


「え、ちょっと待って、どういうこと? これ言うためにさっき女の子に告られたとか言って……うわっ」


アイツはいきなり自転車を発車させた。体がぐんと後ろに引っ張られる。


「うん、そうだ。ずっと前から好きだったんだ」


今度はこっちを見ない。表情は見えないが、揺れる髪の隙間から見えた耳は真っ赤だった。

風が私の耳元まで声を運んでくる。今度は避けられない。

でも、


……おかしいな。全くどきどきしないし、むしろ——、


「こういうときにまで、オマエは背中しか見せないのか」


——腹が立っていた。

こういうのはちゃんと、相手の顔を真正面から見るべきだろ。恥ずかしいのか知らないけど、その方が誠意が伝わると私は思うけど。少女漫画にでも憧れたんだろうか、「届け俺の声、風に乗って」ってか? 調子に乗るのも、かっこつけるのも大概にしろ。


さっき呟いた私の言葉は後ろに流されて、アイツには届かなかった。


「返事はまた今度で良いから」


その後はお互い無言になって、自転車は長い坂道を下り始める。

斜め下から吹き上げてくる風。落ちないようにとアイツの腰に回した腕に力を込めた。こうするときはいつも、幼い頃を思い出す。私とアイツの、2つの家族でキャンプに行ったときの記憶。湖でボートに乗ったときも、私はアイツにしがみついていたっけ。


『だいじょうぶだよ、ぼくが守るからね!』


アイツは、昔っからかっこつけだった。

ずっと私の前を歩いていた。

私はずっと、アイツの背中を見ていた。


アイツは、私の顔を見て、に扱ってくれたことなんてなかったのではないか。


アイツが用意した道——いつも隣にいること、アイツとしか喋らないこと、同じ委員会、同じ進路等々——を、アイツに手を引かれ歩いてきた私。

「仲良くなりたい」、「同じ班にならない?」、「一緒に帰ろう」、「遊びに行こう」。優しい言葉の数々に気付けずにアイツに隠されてきた私。

アイツ以外の友人関係を築こうとしても「必要ない」、新しいことに挑戦しようとしても「やめておいた方が良い」とアイツに言われ続けてきた私。

今も昔も、私は“運命”という名の自転車において、荷台に乗せられているだけなのだ。車輪を止めることも、ペダルを自分で漕ぐことも出来ずに。


自転車は未だ坂を下っている。漕がなくても車輪は慣性でからからと回っていた。

もうすぐ坂が終わる。その先をちょっと真っ直ぐ行って、左に曲がってしばらく漕げば私の家に着く。

この車輪を“私の人生”としようか。坂が終わればアイツはペダルに足を置くだろう。そしたらまた、いつも通り“私の人生”はアイツに——“私の人生”の勝手なる支配者によって廻される。

その座を奪うには、今しかない。


痛みを覚悟して、それからほんの少しの罪悪感を持って、

……そうすると、どうなるか。まず回転が止まって強制的にブレーキ状態になる。そういうことを予期していないアイツは足を地面につけることなど出来ずに自転車ごと倒れる。ついでに私も思いっきり地面に転がった。


「……ッてえ‼︎ 何すんだよ‼︎」


怒るのも当然だ。だけど、本当に理不尽かもしれないけれど、学校の授業で柔道をやっているお陰か私よりちゃんと受け身が取れていて痛みも軽いはずだから、少し静かにしてほしい。


「う、動くな!」


自転車1台分の距離でストップをかける。私はアイツと目を合わせた。真正面からの目を見るのは、初めての気がした。


「いいかよく聞け、私は、」


擦りむいた膝の痛みに耐えて、息を吸う。

今から言うのは、支配者を倒すための呪文だ。


「まず、オマエのことは好きになれない! オマエは私を対等になんて見てくれないから! オマエがいつまでも私の人生を支配して縛りつけてくるから‼︎

本当は新しい友だちだって欲しかったし、入りたい部活もあった!

友だちと歩いて帰って寄り道とかしてみたかった!

でもいつもいつも、私の人生のはずなのにオマエ中心で私の運命が廻っていて……」


アイツの顔が、どんどん苦しそうに歪んでいくのを見た。


「ッ私、私は……」


1回、ぎゅっときつく目を瞑る。目の端から熱い涙が零れるのを感じた。

目を開けて、未だへたり込んでいるアイツの腕を引っ張って立たせ、肩をぐっと掴んで目を覗き込んだ。


「私はもう、誰かに守られるような人生は嫌なんだ。

——自分の人生は、自分で動かしてみたいんだよ」



その後のことは、よく覚えていなくて。

何故か2人して大泣きして、泣き止んだらアイツを先に帰らせた。

私は、ずいぶん久しぶりに自分の足で帰路を歩いた。新しく建った家とか、成長した畑の野菜とかに気付く。近くにあるように見えて、実はあんまり見えていないものだった。


「色々怒られそうだな……」


そこら中に出来た擦り傷、異様に汚れた制服。

まあ良いか、と伸びをして家に入る。

つい数分前までやたら綺麗だったローファーは、今ではへにょへにょになってしまっている。そんなことはないのかもしれないけど、止まっていた私の時間がやっと周りの人に追いついたような気がして、笑った。


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