番外編「やさしい千束さん」
千束さんは誰にでも優しい。
いつでも優しくて、必ず「No」とは言わない。
慈悲深い女神さまのように、懐の広い女の子だ。
私、川上小夜子も、千束さんにはいろいろと助けてもらっている身だ。
主に、ノートを借りたり、代返を頼んだり。
私に対しても彼女は、にっこり笑って「はい、どうぞ」って、嫌な顔一つしないで可愛いシールが貼ってあるノートを手渡してくれる。
彼女にそういったことを頼むのは私だけではない。同じ学科で、クラスが一緒の子たちは、困ったことがあればいつも千束さんに泣きついている。
本当は嫌なんじゃないかしら?
真面目に出席して、先生の話を聞いて、自分のために取ったノートを、いくら友達といえど、こうも毎日群がってこられたら、さすがにうんざりしてしまうのではないかしら?
私だったらうんざりしてしまう。
私のノートだけが目当てなんだわ、なんて、捻くれたことを思ってしまうに違いない。
彼女はそのように思わないのかしら?
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居酒屋のバイトを終え、深夜十一時に帰宅した私は、独り暮らしのアパートの部屋に入るなり、化粧も落とさずベッドに寝転がった。
「疲れた……」
ぽつりと呟いた声はそのまま誰に聞かれることもなく立ち消える。
独り暮らしの静寂の中、私はうとうとと現実と夢の狭間を行ったり来たりしていた。
ああ、寝ちゃだめよ……千束さんに借りたノートを写してからじゃなくちゃ……。明日返す約束をしてしまったのだから……。
そう思う理性とは裏腹に、身体はピクリとも動かず、指一本動かせない状態のまま、いつしか深い眠りについてしまっていた。
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次にはっと目が覚めた時、カーテン越しの窓の外はすっかり明るくなり、ベッドの枕元に置いた置時計はまもなく午後一時を差そうというところだった。
「え!?」
慌てて飛び起きた私は、どたばたと洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔は、昨日の化粧がそのままになっていた。いや、見るのも嫌になるほど酷い崩れ方をしていて、思わず目を逸らさないではいられなかった。
今日は二限からだったのに! しかも私の好きな民俗学入門!
「もお、最悪だよ……」
手のひらに出しすぎたクレンジングオイルを急いで顔面に擦り付けていると、バイト用のバッグの中から着信音が聞こえた。
まったく、この忙しい時に誰よ?
一通りメイクがとれたなと思ったところで、急いでぬるま湯を出して洗い流す。
タオルで顔を拭って鏡を見ると、まだ瞼にアイシャドウのラメが残っていたが、どうでもいい。またどうせメイクをするのだから。
部屋に戻ってみると、電話はもう切れていた。
誰からの着信かしら、とスマートフォンを確認すると、相手は千束さんだった。そこでようやく思い出す。
この間借りたノート、今日の講義で必要なんだわ! ちょうど一週間前に借りたのだ。確か講義は三限目だったから……。
私はもう一度時計を見た。
ああ……もう一時を過ぎている。とっくに三限目の授業が始まっているわ。
「ごめん……千束さん……」
彼女のいないところで謝っても仕方ないとは思いつつ、今ここで口に出さずにはいられなかった。
ともかく私は急いで身支度を整え、四限目の講義を受けるためだけに家を出る。
本来は二限、三限、四限と連続で授業をとっていたのだが、結局二コマも無駄にしてしまった。
今のバイト辞めようかな……体力的にきついし、帰るのも遅くなるし。
バイト終わりに友達と遊びに行かなくちゃいけない流れも、正直うんざりしていた。
私は私の生活だけで手いっぱいなのに、バイト仲間といったら、やれ焼肉だ、やれビュッフェだ、と高いお店ばかりを選んで、散財を生きがいのように楽しむもんだからたまったもんじゃないのよね。
稼いだバイト代は家賃、光熱費、ささやかな食費を押さえて、友達の付き合いに消えてゆく。
まことに勿体ないことだわ。
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私は千束さんと連絡を取って、三限終わりの彼女を捕まえて、土下座もいとわない覚悟で謝罪した。
やさしい千束さんは「いいのよ、いいのよ、謝らないで。今日の分はルーズリーフにとってあるのよ」と、講義に出られなかった私のために今日の分のノートまで貸してくれた。
感謝してもしきれないとはまさにこのことである。
結局、先週分のノートはまだ写せていないので、もうしばらく借りることになるのが誠に申し訳なかった。
私が昨日も遅くまでバイトだったと知ると、千束さんは慈悲深い天使のような微笑みを浮かべて、「そうだったのね。遅くまでお疲れ様」と労ってくれる。
一体どんな親御さんに育てられたら、ここまでやさしい女の子になれるのだろう。きっと千束さんの家族は、みんな仲がいいのだろうな。
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今日のバイトは、同じ学科のエリカと一緒だった。
事務所で制服に着替えていると、たった今休憩に入ったエリカが、伸びをしながらやってきた。
「あ、小夜、おつかれ~」
エリカは気だるげに言うと、パイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。
「ああ。……うん」
私は千束さんのことを考えながら、ぼんやりと言った。
「なに、どうしたの? 元気ないじゃん」
「いや……千束さんってさ――」
「ああ。便利屋さん?」
……便利屋さん?
「なにそれ? 便利屋さんって」
「千束さんのこと。みんな影でそう呼んでるよ」
エリカは馬鹿にするように笑って言った。
「……どうして?」
「どうしてって……そのまんまじゃん。ノート貸してくれるし、頼めば代返だってしてくれるし」
そのあだ名は、明らかに蔑称であった。
みんな、千束さんの優しさに付け込んで彼女を利用しているんだ。……なんとなくは知っていたけど、いざそれを目の当たりにすると、物凄く腹が立ってきた。
「そんな言い方――」
私はそこまで言いかけて、結局その先を言うことができなかった。
私も同じだからだ。
優しい千束さんに甘えて、どんなに無茶を言ったって快く引き受けてくれる彼女を利用している。
ひどいのは私だ……。
エリカのことを責める資格なんて、私にはない……。
「……小夜? どうしたの?」
エリカに名前を呼ばれて、はっと我に返る。
「ううん、何でもない」
私はエリカの顔を一切見ずに、事務所を後にした。
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それから幾日か過ぎた。
私は居酒屋のバイトをやめ、今度は近所の雑貨屋さんで働き始めた。
居酒屋時代の友人とはもうほとんど連絡を取っていない。おかげで、バイト三昧の日々から脱出。
今は週に四日、遅くても夜九時には家に帰ってこれる規則正しい生活を送っている。
今日は朝から講義が入っていて、学食でお昼ご飯を食べた後は一コマ空いて四限目の講義が入っている。
私は学食の片隅でウォーターサーバーから注いだ水を飲みながら、ある人物を待っている。
学食の入り口に向けた目が、目当ての人物を発見すると、向こうの方もすぐに私に気が付いて手を振ってきた。
「あ、小夜子ちゃん」
その人物――千束さん……否、燈瑚ちゃんだ。
「あー、疲れた。講義中、すごくお腹が鳴ってしまったわ。もう少し朝ごはん食べてくればよかった」
燈瑚ちゃんはほんのりと顔を赤くしながら、私の向かいの席に腰を下ろした。
「学食ならいっぱい食べられるわよ」
私たちは席に荷物を置いて、財布だけをもって食券機の前で立ち止まった。
「私はラーメンにするわ」
燈瑚ちゃんはいつも即決だ。それに比べて、私はいつもここで悩んでしまう。
ラーメン、カレー、オムライス、おにぎり、煮干し定食……他にもいろいろ。
お金を入れて、ボタンの上を指先がうろうろしていると、燈瑚ちゃんがくすくすと笑いだした。
「ご、ごめん、すぐ決めるから」
「いいのよ、ゆっくり決めて。お昼休みはまだあるわ」
燈瑚ちゃんは今でも優しい。ここ数日の間に、いろいろなことがあったらしいけれど、決して多くを語ろうとはしなかった。
そのいろいろなことが原因なのだろうか、以前と比べて、いくらか自分の意見を言うようになってからも、彼女は変わらず穏やかで真面目な子だった。
ノートを借りに来る子たちを軽く説教しつつも、結局彼女は自分のノートを他人に貸す。そのスタンスは今も変わらないけど、他の子たちも、以前のように燈瑚ちゃんを利用することは少なくなった。
やさしいままの燈瑚ちゃんは、やさしいまま性格が変わったように思う。
どこか、頼もしくなった、とでも言おうか。
「うーん、私もラーメンにする!」
一杯三百円の激安ラーメンのボタンを押すと、じー、と妙な音を立てて食券が吐き出された。
間もなく昼食にありつけた私たちは、向かい合って座りながら、ずるずると麺をすすった。
「ねえ、小夜子ちゃん」
先に食べ終わった燈瑚ちゃんが、変に改まった様子で言った。
「何?」
「私、以前ね、あなたは遊ぶお金欲しさのために夜遅くまでバイトに明け暮れてると思っていたの」
あながち間違ってはいない。居酒屋時代のバイト代は、仲間との付き合いに消えていたのだから。
「でも、違ったわよね。あなたは大学に通うために独り暮らしをしていて、仕送りだけじゃ足りないから、一生懸命にバイトをしていたのよね」
それもまた、間違いではない。
「うん、まあ、ね」
「ごめんね。あなたを誤解して」
燈瑚ちゃんは悲しそうな顔で言う。
やめてよ、そんな顔。私はそんなこと気にしないよ。
「いいよ、別に。気にしてないわ。燈瑚ちゃんのおかげで、今こうしてまともな大学生をやっていられるんだから」
ラーメンを食べながら言った私の顔をじっと見つめて、燈瑚ちゃんは安心したように笑った。
やさしい燈瑚ちゃんは、もう一度だけ、
「ごめんね」と言って、最後に、
「ありがとう」と言って微笑んだ。
番外編 おわり
すみません、替え玉。 駿河 明喜吉 @kk-akisame
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