第10話


 電車なんざ待ってる暇はない。一時間に一本だもん。


 だから走る。既にくたびれてきた学校指定のジャージをなびかせて(制服? 知らん)、とにかく全力で身体を動かす。二徹だろうがおかまいなしに、腕も足もぐりんぐりん振って、跳ねるみたいに走り続ける。あたしの持久力なめんなよ、なんて、誰に言うでもなく息にのせる。雲の多い空には、薄い月が登ってる。



 青駅の手前に辿り着くと、道を外れて森に突っ込む。源ばあの森方面へ。霞美が消えた方角へ。五月の緑がお祭り騒ぎで出迎えてくれる。



 キャンプから帰ってないって。あたしのせいだ。この村にあたしがいたせいだ。

 下草を踏んで、干からびたツタを飛び越えて、奥へ奥へ。最近何かが通った道がないか探しながら、山の深くへ潜って進む。烏の群れががあがあ喚いて、辺りが徐々に暗くなる。



 時間が経つと、どうしたって冷静になってくる。考えなくていいことを考える。やっぱり、合わせる顔はないよな。むしろこのまま、熊にでも襲われて食べられたいくらい。そしたらスッキリするのにな。でも、今日はいないっぽい。森が静かだ。


 野生動物は敏感だから、もう逃げてるんだ。


 日没後、源ばあの森からかなり進んだ山の中で、ちかちか点滅してる灯りを見つけた。スマホだった。きっと霞美の。画面もカバーもばきばきにへし折られてる。ギリ壊れてはなさそうだけど、使い方はさっぱり分からない。いちおうポッケに突っ込んで、また進む。



 藪を抜ける。木々を登る。すり傷を増やしながら、深く、静かな方へ進んでいく。動物の気配が少ない方に、きっと彼女はいる。



 あたしなんかに、霞美は会いたくないかもしれないけど。そう考えると、こちとら泣けてくるけれど。それでも行くよ。あんたがひとりで泣いてるなら、あたしはそこに行くよ。



 獣道を抜けると、少しだけ視界が開いた。月の梯子が降りていた。そこから空へ昇っていこうという風に、立っていた。あちこちに跳ねた髪を銀色に染めて、空っぽな瞳で満月を見つめていた。


 ああ。獣だ。なんて綺麗な獣だ。


 誰よりつやつやしてるはずの頭髪はぼさぼさで、木の枝なんか絡まってる。霞美、意外と癖っ毛だったんだね。こういう秘密をさ、あんたの大切な人も知ってたんだろうな。いろんな楽しい思い出を、私なんかよりいっぱい共有してたんだろうな。

 合わせる顔がない、なんて心配だったけど。


「霞美」


 自分じゃないみたいに、落ち着いた声が出てきた。


「来たよ」


 同時に雲でもかかったのか、月光の柱が細くなって、ふつりと消え去った。

 月の獣は、ゆっくり振り向くと、



 ぎりぎりぎりぎり。



 歯ぎしりだ、と気づいた時にはもう、お馴染みの殺気と絡まりながら襲いかかってきた。視界に広がる霞美の髪と、赤く光る瞳と、散っていく涙を、そんな瞬間でもきれいだと思った。


 応、来なよ。

 鋼音ちゃんが相手になるよ。



 僅かな明りを受けて、細やかに煌めく黒を残像に、小柄な影が飛んできて、


「っ⁉」


 避けた。なんとか避けた。

 で、拳を受けた樹が、その幹が、えぐられて弾け飛んだ。

 こんにゃろ。

 手加減してたな、今まで。優しいやつめ。


 霞美は勢いをそのままに、ぼさぼさ頭を振り乱したと思うと、黒の中から脚が出てきた。かわいい裸足の小さな足が、あたしの頬すれすれを猛烈に通り過ぎていやこれちょっと洒落になんないよ。


 これ、頭に喰らったら死ぬ。


 今までの攻撃の比じゃない、殺しにかかってる。拳でもたぶん、三発くらい喰らえば死ねる。土が弾ける。木々の破片が舞う。人間かよ。避ける。逃げる。怖すぎる。


 でもさ、水野鋼音ちゃん。

 お前は、こんな事しに来たんじゃないんだわ。


 どうにか足をふんばって、下っ腹に気合を込めて、殺気の行方を感じ取る。覚悟を決める。向かってくる威力を想像して、身体の芯ががくがく震える。おかしいな、おかしいよな。あたしはこんなに弱い女だっけかな。


 それでも強くなれるんだ。大好きな人のためなら、霞美、あんたのためなら。こんだけの勇気が湧いてくるんだ。恋って、すごいんだ。


 影から影へ、走る獣を必死に凝視して、



 ……どすっ。



 お腹にめり込んだ拳と一緒に、霞美をまるごと抱き止めた。

 身体が悲鳴を上げる。骨がきしむ。肉がつぶれて内臓がよじれる。でもだいじょうぶ。三発喰らえばヤバいなら、一発だったら耐えられる。いや、耐える。

 我慢するよ、めちゃくちゃ痛いけど。


「ごめんね、霞美」


 悪いのはあたしなんだから。

 だから、伝えさせて。


「波音に聞いたんだ。ぜんぶ。ごめん。今まで本当にごめんなさい。あたし、霞美のことなにも知らなかった。何も考えてなかった。自分のことばっかりだった。バカだからって逃げて、傷つけてることに気づけなかった」


 ありったけの力で。ありったけの気持ちで。暴れる霞美を抱きしめる。小さい小さいとは思ってたけど、こんなに小柄だったんだね。こんなに小さな身体で、あんたは戦ってたんだね。


「ごめんね」


 ぎゅう。だいじょうぶ。


「あたしはもう、霞美を傷つけない」


 だいじょうぶだよ。


「話しかけるなっていうなら、黙ってる。どっか行けっていうなら、そうする。いう通りにするよ。だから、だいじょうぶ」


 殺気が消えて、殺意が薄れて、彼女の身体はもっと小さくなる。ただの女の子に戻る。あたしの胸のあたりまでしかない、小柄な女子高生に。


「……う、う」


 呻いて、頭を胸に押し付けると、



「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」



 霞美。


 あんたの人生に何があったのか、全部は知らない。知れるはずがない。でもね、あたしはその過去も、そうやって叫ぶしかない気持ち、想像できないような想いも、まるごとひっくるめて、愛みたいなもんをさ、感じられる自信があるんだよ。


 愛してるよ、霞美。


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