第三十一話 『他人事だと思って』

「ね、ちょっと投げてみてよ」


明日香がボールを手渡す。波乱の練習試合が終わった月曜日、普段より終礼の早く終わった優太と明日香が、グラウンドを独占している。ボールを受け取った優太は、うーんと顔をしかめた。明日香は部室からキャッチャーミットを取り出すと、やや塁間より近いところに立った。しばらくボールと睨めっこをしていた優太であったが、諦めもついたのか、投球動作に入った。


「大丈夫、暴投になったって他に誰もいないから」


明日香はそう言ったが、優太の投球はあさっての方向へ飛んでいく。優太は申し訳なさそうに帽子のつばを触る。


「セカンドの時は普通なのにねー。ちょっと不思議かも」


「他人事だと思って…」

優太がむくれる。しかしそれとは対照的に、明日香の表情が明るくなった。


「それだよ!他人事だと思えばいいんだよ!」


優太はぽかんとした。明日香からの返球を受けながら、どういうことだと言わんばかりの顔をした。


「だからさ、遊び程度のものだと思ってさ!もっと無責任でいいんじゃないかな?」


優太はまたも首を傾げる。そんなピッチャーがいてたまるものか。そう言いたげだ。


「具体的にはどうしろって言うんだよ」


ますます優太の機嫌が曇り始めた。明日香の発言こそ、他人事ではないか。いや他人事なのだけれど。


「てきとーに投げてみてよ。例えばー、うーん、そうだなぁ。アンダースローのナックルボーラー目指すとか」


「さすがにそんなの上手くいくわけないでしょ…」


優太が呆れたように即答する。まあまあ、と明日香が諭す。


「優太は頭が良すぎるんだよ。考えすぎ。優太くんの良くないとこだよ。とりあえずやってみ?」


優太は少し周囲をきょろきょろと見渡して人がいないことを確認した。慣れない動作をすることは、ほんの少しばかり恥ずかしい。


「ダメだったら、もう絶対やんないからな!」


「おっけおっけ」


明日香が大きくミットを開く。優太は軽く深呼吸をすると、ボールを握った。


「人差し指と中指を折り曲げて…。こうかな…?」


ブツブツと呟くと、優太は遂に振りかぶり始めた。いつもより少し小さめに左足を上げ、一気に上半身を沈みこませる。見えるのは土だけだ。身体がどこへ向いているのかもよくわからない。そしてよくわからないまま、自然と右腕がしなる。優太は腕を振り抜くと、バランスを崩して転んだ。


パシッ。


「痛えー」


ほら見たことか、と言いかけた優太の目に映ったのは、尻もちをついた明日香の姿だった。明日香はむくっと立ち上がったかと思えば、勢いよく優太の元へ駆け寄った。


「凄いよ!なに今のボール!」


明日香がキラキラと目を輝かせている。


「おい馬鹿にして…」

と言いかけたところで口が止まる。どうやら本心らしい。


「優太くん、今のナックルだったよ!しかもアンダースローから浮き上がってきてから、揺れて沈んだ!初めて見たよこんなの!」


とても早口で褒めちぎられている。優太はそれこそ他人事のように感じていた。悪ふざけかと思われた明日香の気まぐれが、奇跡的なボールを生んだのだ。


「もっかい!」


明日香が颯爽と駆けていき、距離をとる。優太は言われるがまま、もう一度投げてみた。今度は優太が転ぶことはなかった。


「うわっ」


明日香はボールを避けた。まるでドッジボールでもしているかのような華麗な避けっぷりだ。しかし優太はあまり実感がないようだった。


「えーわたくし、捕るのが怖いです」


「そう言われましても、自分にはよく分かりませぬ」


ふふっと、2人の笑い声が重なる。優太はまだ不思議そうだが、それでも満面の笑みを浮かべた。優太は尻もちをついたままの明日香の手を取った。


「ありがとう」


「たまたまだよ」


明日香は起き上がると、ほんの一瞬優太に顔を近づけた。少しずつ、明日香は距離を詰めていく。優太もそれに気づいた。少しの時間が、長く長く感じる。広いグラウンドに2人きりというシチュエーションが、その雰囲気に拍車をかける。優太も顔を近づけた。目線は逸らしている。


「なーんて!」


明日香がひょいっとかわすと、優太の肩をぽんと軽く叩いた。


「優太くん私にキスしようとしたなー?」


ニヤニヤとしながら、優太を冷やかした。優太は顔が真っ赤になりながら、違う違う、とジェスチャーする。


「とっ、ところでさ!」


優太が話題を切り替えにかかった。無理があるかに思われたが、明日香もそれに乗っかる。


「なんでアンダースローなら投げられたんだろ?」


優太が思い出したように不思議がる。


「あーそれはきっと…」


そう言いかけた明日香だったが、それ以上は言わなかった。


「考えなくていいんじゃない?」


「おい、なんだよそれー!気になるじゃん」


「ダメでーす!教えませーん」


明日香は意地悪そうにそう言うと、優太に背を向けて部室の方向へと歩き出した。明日香は優太からは見えないように笑った。その屈託のない笑顔は、どこか他人事ではないような、そんな顔だった。

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あじさい打線は夏に咲く 西野 ひかる @terapyiiiii

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