第三十話 『伊織のルーツ』
試合は9回裏、伊織の連続エラーで逆転を許した紫陽花高校は中学生の池川ボーイズ相手に1対4とリードを許していた。
「6番セカンド、荻野くん」
優太が打席に立つ。その背中を伊織がぼんやりと眺めている。まるで心を失ったかのような無表情だ。相手は2番手ピッチャーに変わっている。優太は投球練習を終えた左投手と対峙した。
「あぁ、まただ。またやってしまった」
伊織は心の中で呟いた。同じベンチに座っているチームメイトのことが、とても遠くに見える気がする。伊織は中学時代を思い浮かべていた。
それは新チームになった中学2年の秋のことだ。伊織は3番ショートのレギュラーで関西選抜にも選ばれた優秀な選手だった。しかしそれとは反対に、所属するチーム自体はとても弱かった。
「おれがこのチームの優勝させる!」
キャプテンに就任した当初に意気込んだ言葉も、チームメイトから浮いてしまう原因となっていた。
「どうせ自分が目立てばいいと思ってるんだろ」
「おれたちのこと見下して、嫌なやつだ」
そんなことを陰で言われていることはわかっていても、伊織はチームのために必死だった。自分が見本になるよう人一倍走り込み、バットを振り、1人の時でも出来ることをやってきた。時に伊織はミーティングを開きチームを鼓舞し、試合では制球の定まらないピッチャーの元へ駆け寄った。最初は伊織のことを疎ましく思っていたチームメイトたちも、いつしか伊織に乗せられてまともに練習に取り組むようになっていた。
いつも1回戦で敗れていたチームが1度勝つことの喜びを実感すると、そこからは一気に伸びていった。3年春の大会で4回戦へ進出、あと2回勝てば決勝戦というところまでやってこれた。伊織は自分が嫌われていることに自覚はあったが、それもチームのためだと思って厳しい練習を行った。そしてあとは最後の夏の大会を残すのみとなっていた。伊織にとってはこの頃が一番野球が楽しかった。
しかし迎えた最後の夏、7月のことだった。伊織は走塁の途中、足首に違和感を覚えた。ストッキングの上から触るだけでも大きく腫れているのがわかった。左足首の疲労骨折だった。医者からは完治するまで2ヶ月はかかるとのことだった。伊織は絶望した。レギュラーはおろか、背番号さえも貰えなかった。
伊織の置かれた厳しい現実とは裏腹に、チームは勝ち進んだ。春の大会でやっとの思いで到達した4回戦を軽々と突破し、チームは全国大会へと駒を進めていった。伊織は全国大会を見に行くことが出来なかった。何より見に行きたくなかった。
そして伊織は、心に誓ったのだ。これからは自分のことを第一に考えてやる、と。
優太や明日香たちが和気藹々と「チーム」を動かしていく様子は、伊織にとっての傷を抉るものだった。そうして周りの人間と不和になってでも考えを貫こうとした最中、今度は自分が思うようなプレーをすることが出来なくなった。ボールが思うように投げられないなんて、もう自分に存在価値がないようにも思えた。
「…伊織?」
「…」
伊織は気づかない。
「い・お・り!!打順!!」
「えっ…?」
伊織ははっとした。そうだ、試合中だった。いつの間にかランナーは全ての塁を埋め、1点差に迫っていた。打順は伊織へと回ってきていた。
「おれはもういいから。代打出して。」
伊織は下を向いた。もうこのチームには居られない。そう思った。
「何言ってんだ?代わりの選手なんていないぞ、ほら、早くしろって」
バットとヘルメットが差し出される。視界の隅に悠大の顔が見える。
「おれがいたら、チームの雰囲気を壊してしまうだろ」
まだ伊織は悠大の顔を見れなかった。なかなかバッターが現れないことを気にした審判がベンチの方へやってくる。
「何アホなこと言ってんだ。お前がいないと人数不足でチームが成り立たないんだよ。だからほら、ランナーみんな還して逆転サヨナラでさっきのことはチャラだ」
伊織がようやく顔を上げる。チームメイトが皆、伊織の方を見ていた。伊織は何かが吹っ切れたような気がした。
「…ったく。おれ頼みのチームなんだから!」
伊織はバットを受け取ると、バッターボックスへと入っていった。
伊織が迷うことなく振り抜いた打球は、バキッという音をたて飛んでいく。詰まりながら二遊間とセンターの真ん中へのフライとなった。
「抜けろ!落ちろ!」
伊織は叫んだ。打球がセンターのほんの少し手前でワンバウンドしたのを見届けると、一塁ベース上でガッツポーズをした。伊織は顔をぐしゃぐしゃにしながら、駆け寄るチームメイトの中心で思い切り笑い、そして泣いていた。
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