ヘリオトロープ

或海穂入

ヘリオトロープ

 太陽に向かう陽向ひなたが好き。その事に気付いたのはいつだっただろうか。


 陸上部の陽向は毎日始業前から朝練をしている。陽向は気づいていないだろうが、私はそれを他の生徒より早く登校し、本を読みながら教室の窓から見るのが好きだ。

 私達の通う高校のグラウンドの直走路は西から東に向かって引かれており、短距離走の選手である陽向はそれを朝から何回も走りこむ。朝日に向かって何度も走る陽向は文字通り眩しくて、輝いていた。

 陽向は8時30分の本鈴のチャイムギリギリに走って教室へ来る。そして真っ先に私の席に向かってきて「おはよ、ほのか」という。陽向はいつも私との距離が近い。挨拶をされた時にショートカットの髪から覗く、黒く焼けた首筋からふわりと鼻に届く柑橘系の制汗剤の爽やかな香りが私は好きだ。


「おい、千浦。高橋を起こしてやれ」

そう、陽向の所属する陸上部の顧問であり、現代文の先生でもあり、私達の担任でもある羽田先生がそう私に声をかける。日々の練習や朝練で疲れているのだろう、陽向は居眠りの常習犯だ。手を伸ばし、前の席の陽向の肩を叩く。するとビクリと体を震わせ目を開け周りを見渡している。黒板に教科書の内容を書いていた羽田先生と目が合い、

「おい、高橋。俺の授業で寝るなと言っているだろう」

「も~しわけございませんでした」

と猛烈に頭を下げている。そして先生が笑い、周りの生徒達もつられて笑う、これはいつもの風景だ。引っ込み思案な私と違って、普段から快活で友達も多く先生やクラスメイトから愛されている。陽向は私の一番近くにいながら絶対に届かない場所を飛んでいる。


「ごめん、ほのか。後でノート見せてくれる?」

「じゃあお昼、飲み物奢ってね」

「わかったよ。ほのかはいつものカフェオレでしょ」

「その通り」

このやり取りもいつも通りだ。陽向はどれだけ私にカフェオレを奢ってきただろう。そして私はどれだけノートを陽向に見せてきただろう。


 私と陽向の出会いは小学生の頃だ。たまたま同じクラスになり、高橋と千浦という近い苗字という事もあって、出席番号が並ぶことが多かった。そうすると関わる事も増える訳で、そうしていつの間にかいつも学校帰りに遊んだり、お互いの家に行ったりという仲になった。陽向が中学校から陸上を始めたこともあって、それからは遊ぶ時間は減り、私は寂しさは覚えるもののそれでも親友同士ということは変わらなかった。

「はいこれ」

と陽向がカフェオレを投げてくる。代わりにノートを渡すとお弁当をくっつけた机の上に広げた。

「今6月じゃん。やっぱ暑くなってくると眠たくなるよね」

「陽向は冬でも寝てるじゃん」

「私は1年中燃えてるからね」

「そればっか。1年中ノートを貸す身にもなってよね」

と軽口を言い合う。私は陽向にならいくらでもノートを貸していい。私に出来るのはそれくらいしか無いから。


「それとさ~私焦っているのかな。この前の地区大会でもいい成績残せなくてね。4月から後輩が出来たじゃん。その中で凄いのもいるのよ」

「でも陽向いつも頑張ってるじゃん。頑張ってる陽向の姿好きだよ」

「照れるじゃん。じゃあ昼練行ってくるね。ノートいつもありがと」

と言い残し、去っていった。走るのも速ければ食べるのも早い。

私はまだ半分しか食べていない弁当を片付け、代わりに読みかけの本を取り出し読み始めた。



 陽向が故障をしたと聞いたのはそれからすぐ、もう少しで夏休みに差し掛かる7月に入ってからだった。夏に向けてかなり練習量も増えており、その中でも特に熱心に練習に取り組んでいた陽向は膝のオーバーユースが過ぎたらしい。

 しばらく安静にしていなさいとの整形外科医からの診断もつき、部活は休まざるを得なかった。それからの陽向は普段通りの笑顔は見せるものの、ふとした時に暗い顔を覗かせるようになっていった。焦りと悔しさとどうしようもなさ。今まで陸上一筋で生活してきた陽向は、そういった時の有り余った感情の持って行く先を陸上しか知らなかったため、いざ陸上が出来なくなると、どうしたら良いか分からないという状態だった。

 そうなると心配で声を掛けてくる他の部員との折り合いも、目に見えないところで徐々すれ違うようになっていき、私も陽向にどう触れて良いのか分からず、早く登校することも無くなった。


 夏休みに入ると陽向は家に籠りがちになっていった。私は一念発起し、花屋に寄ってから陽向の家へ向かった。部活がどうだとか、怪我がどうだとかではなくただ私が陽向の顔を見たかっただけだった。今まで陽向に私がお見舞いされることはあったが、私が陽向をお見舞いするのは初めてだった。


呼び鈴を押す。

「あら、ほのかちゃんありがとうね。家に来るのは春以来かしら」

ドアを開けた陽向のお母さんはそれだけを言い、そしてリビングに戻っていった。

勝手知ったるように階段を上がり、陽向の部屋の前に立ち、

「陽向、来たよ」と伝える。


反応は無かったが、その後こちらに向かう足音が聞こえドアが開かれた。

「ありがとう、ほのか」

そう言った陽向は少しやつれた顔を見せ、私を部屋に招いた。

「もうだいぶ良いみたいなんだけど、まだ部活には復帰出来てないんだ」

そう無理して笑っていた。


部屋の中は思っていたよりも綺麗で、以前来た時と変わっていないように見えた。

「あっ‥‥これ‥‥」

陽向相手に今まで感じたことの無い気まずさを感じ、手持ちぶさたになった私はそう言い、もう少し後で渡す予定だった花を陽向に渡す。

「これは‥‥?」

「ヘリオトロープって言うんだ。ギリシャ語が語源で太陽に向かうって意味があるんだって。陽向にピッタリだと思って」

ヘリオトロープを受け取った陽向は、それからしばらくの間沈黙し、

「‥‥どうしても太陽に向かわなきゃいけないかな」

と震える声で答えた。


 うなだれる陽向の姿は、ギリシャ神話の太陽に向かいすぎて蝋の翼が溶けたイカロスを幻視させた。知っていた。こんな状態の陽向にこんな意味の花を渡せば傷つけることくらい。でも、私は陽向を傷つけたかった。翼をもぎたかった。チャンスだと思った。今まで届かない存在だと思っていた陽向を地べたの私のところまで墜落させたかった。これを機に部活なんて辞めてしまえばいい。

 そして毎日私と一緒に学校に向かって、お昼は最後まで一緒に食べて、帰りも一緒に帰りたい。休みの日は一緒に出掛けたい。そんな欲望がチロリと顔を出した。


「そんな事ないよ。皆さドラマみたいに故障から立ち直ることを良しとするけどさ」

「でもそれじゃあ今までやってきたことは‥‥」

「このまま良くなってさ、部活に戻っても一度折れかけた心は戻らないよ」

「‥‥」

そんな事をまくしたて、

「まぁどうするにしても一度出掛けようよ。そんなに閉じこもってると体に悪いよ」

と手を引いて部屋を出ようとしたその時、陽向が立ち止まった。

「どうしたの?行こうよ」

「‥‥やっぱりさ、私さ陸上がしたい。陸上をしていない私は、その私を許せないと思う。ほのかの言葉を聞いてそう思ったんだ」

「‥‥そっか。私もそう思うよ‥‥」



そして夏休みが明けると、陽向は陸上部に復帰していた。

「今まで休んで鈍っていた分を取り返さなきゃ」

と言い毎日の朝練にも復帰していた。輝く朝日に向かって走る陽向を見て、やっぱり私は陽向は太陽に向かっていて欲しい。

陽向がこっちを見てなくても良い。私の気持ちだけが陽向に向いていれば良い。

この手の平が太陽には決して届かないように。

届かなくても、いや、届かないからこそ私は陽向の事が好きなんだと思った。

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