分析の記 3

*248項0段落目の2行目 ヰタ・セクスアリス

 ここも高校の授業で提出した『作文』の一節であるという。


「垣内はお前と同じ二年生のくせに(一年落第はしてゐたが)お前を欲しがってゐたやうだったから」


 ひとつ前の説明にあったように同性愛が寄宿舎で行われていたことの傍証になる。後の段で「親に子息を中学の寄宿舎に入れるのは勧めない」と言っているのが面白い。まるで萩尾望都の「11月のギムナジウム」のやうだ。学校の休みにはみな三々五々帰ってゆくが孤児のやうな川端は残った、とか、すでにBL(注)の「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つ」萌芽を嗅ぎ取っている読者も多いだらう。


注:ボーイズ・ラブという創作のカテゴリー。少年達が大人の男女のやうに恋し合い愛し合うストーリーが基調で、読者の感情移入でどちらかが自分だったり、異性に置き換えて楽しむのだと思ふ。



*同3段落目 清野の抽象的描写

「僕はいつともなくお前の腕や唇をゆるされてゐた。ゆるしたお前は純真で、親に抱かれるくらゐに思つてゐたに相違ない」


 ここから川端は清野少年の『無垢』、『神性』について語り始める。そういう少年が目の前に現れる可能性は読者の方はどう思われるか?現代では0%と言っても良い乎。


*249項1段落目 日記より 川端の性的葛藤

「勿論、僕はお前に、腕、唇、愛などといふ言葉をひとことも言った試しはなく、全くいつともなく與えられてゐた。それより先きの交りは空想はしたにしろ、實現しようなぞとは夢にも思はなかった。それはお前がよく知ってゐてくれる」


 先に出てきた文「指を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を」からかなり異なった書きぶりである。細かい羅列がめんどうになったのかと思われるぐらいだ。「愛」は極めてぶっきらぼうにはじめて出て来る。

 『先の交わり』を空想をしたが実現しようとは思わなかった、ということは二人が性的に未熟だったと言っているのであらうか。私が現在の中学生(満14,5歳)のとき友達が「将来の練習」とか言って修学旅行中の布団が並んでいる相部屋で男同士でキスしていたのを見たことがあるが、いやらしいとは思わなかった。当時の数え年16~8歳というのは栄養状態からみてもそのような未熟な心身(性欲と精通などの状態)であったか。四六時中、本を読んでいた川端が心の欲求を肉体が追随していないことも考えられる。肉体的にコンプレックスを持っていた川端は、生前でも決して話してはくれなかったに違いないが。

 つまり、川端は清野少年との関係を「性的な交渉」はなかったと主張しているのである。舌と歯までは許されていたとしている。実際に何をしたのかは永遠に謎であろう。

 ここで前述した川端が冒頭でぽろりと書いた『同性愛』の定義に突き当たる。清野はすべてを川端に許している。川端は自分自身を『わがままに』清野に広げ、その服従を謳歌すると書いている(この文章は私は付箋は付けなかった)。これが川端の「少年」に書かれた同性愛であり、川端の精神の解放であった。



*同2段落目 同上と川端の文章作法

「しかしまた、下級生を漁る上級生の世界のそこまで入りたくなかった、あるひは入り得なかった僕は、僕たちの世界での最大限度までお前の肉体をたのしみたく、無意識のうちにいろいろと新しい方法を発見した。ああ、この僕の新しい方法を、なんど自然に無邪気に受け入れてくれたお前だったらう。」

「そのお前に僕の救済の神を感じる」


 一つ前の*の文章とまた矛盾を感じる文章が続いている。このような川端の『揺さぶり』は西鶴の『ヌケ』(注)と双璧をなしていると思う。

 またここで前述したように旧制中学における上級生からの性的虐待(良く言えば同性愛だが、詭弁であろう)がかなりの頻度で行われて、上級生となった川端もそれに強く惹かれていたが、荒々しい暴漢達の仲間には入れなかったことを吐露している。よって、前に川端が清野との関係が露見することを恐れていたことと大きく矛盾している。清野がまだ庇護者がいないと見られれば、余計、危険ではないのか。


注:西鶴のヌケとは、西鶴は基本的に短編を数多く書きそれを収集して本にしている作家だが、一編一編の構成は簡略と詳細が混じり合って、文章の裏に書かれていない背景、情景、当時の常識、設定がある。


 かうして書いている私の意図は読者には理解されているであらうか?


 つまり川端の寄宿舎生活の描写は曖昧で、かつ清野の描写にも極めて矛盾が多い。清野少年に例えモデルがいたにしても、小説の中ではまるで実在感がないということを。


 ここに転記した文章に戻る。ここにあげた2つの文章を読むと非常に妄想できる余地がある。

 川端が発見した「最大限の方法」とはなんであらう?交わりはしていなかったと書いていたのを覚えているだらうか?3段落目にもダメ押しの文章がある。次に続く文章を見てみよう。


「でも、舌や脚と肉の底との差はどれだけだらう。ただ僕の臆病が辛うじて僕を抱き止めたのではないかと自ら責められる」


 肉の底に至らなかったのに「自ら責められる」というのは全く意味不明である。この意味を推測出来るのはさらに後段の文章を待たねばならない。そして次の4段落目の文章が川端の性癖のすべてを語っている。


「家に女気がなかったため性的に病的なところがあつたかもしれない僕は、幼いときから淫放な妄想に遊んでゐた。そして美しい少年からも人並み以上に奇怪な欲望を感じたのかもしれない。受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあったし、今もさうした情欲を作品に扱はうと考えている僕だ。お前が女だったらと、せつなく思ったのは幾度だったらう」


 ”さうした情欲”を扱ったのは少年ではないけれども、後に書かれる”陰”の傑作「眠れる美女」であろう。


 この他にもこれでもかこれでもかと川端は自分の少年愛的性向を書きなぐっているのだが、軽蔑されるどころかこの文学の巨人は周りを信奉者に変えてしまう『鬼』であった。


 話は変わって恐縮だがちょっとお付き合い願いたい。アメリカの有料放送局で放映された『デクスター』というドラマをご存知だろうか?ジェフ・リンジーの小説が原作だが、ドラマ化に当たって非常に興味深い脚色がされた。フロリダ警察の殺人課に属する血液飛翔の分析官の話である。この男は昼は警察官だが、夜は法を掻い潜り続ける凶悪犯を殺すシリアル・キラーなのだ。川端先生の名誉に誓って言うが、川端先生がそうであると言っているのではない。このドラマにおける次の秀逸な人間観察の脚本が私には興味深いのである。

 主人公は極度のサイコパスで、常に自分や周りの人間を客観的にしか見ることが出来ない。つまり、愛情も兄弟愛も親切も正義感も『見せかけ』なのである。だが、人間の感情を持ちたいという欲求を持ち続け、努力もする、悪人を殺したいという衝動を抱えながらも大切な人を守ろうとする本能は残されている。そうした葛藤と努力から、彼の本性を知らない周囲の人間からは信頼され愛される。誰かに似てないだらうか?恐らくこんな無礼な例を引き出すということは、私もさうであるのかも知れない。


 続きの250項の1段落目に、

「あんなにまでまつはりついてゐたお前のからだを、そのまま残して別れた僕は(中略)さびしい物足りなさの方が、しばらくの間は強かったのでなからうか」


 と「底」まで行けなかった後悔を述べている。前に予告したように「自ら責められる」ということはこのことか。



*同3段落目 川端の告白

 「垣内」という少年が登場する。ここで川端の美少年ハーレム願望妄想が展開する。


「新学年に僕の室員が決まった時、お前も可憐と思ったけれど、女性的に艶冶(えんや)な、常に浴場で憧れてゐた、垣内を僕の室に迎え入れた喜びは淡いながらはっきりしたものだった」


 ここで明確になったのは、清野は可憐で女性的なしぐさをする男の子だったが美形ではなかった、ということである。想像だが、もし清野が美形だったら警戒心と自尊心がが強い川端の心にすんなりと入って来れなかったかも知れない。自己を客観的にしか見ることが出来ない川端ははっきりとそれを自覚して書いたに違いない。清野の容姿に対する『憧れ』を表す言葉は「少年」には全くないのだ。私の分析を予期していたのか、ご丁寧にも川端は「可憐」の描写を251項2段落目に付け加えている。


「隣室の大口がはいって来てこはい(怖い)と、泣かんばかりに告げて、(中略)そのくせ僕とは床を重ねるやうに取ることをゆるし、僕とくちづけながら大口のことを訴へて・・・」


 文章では美しいが、絵になる二人の姿かは分からない。私のやうな懐疑的でいやみな読者ではない、通常の読者は美しい二人の若者の絡み合いを想像すれば耽美的である。



*253項七章の冒頭 川端の言い訳

 日記調作品「湯ケ島での思ひ出」(二十四歳時、大正十一年)の半分が「伊豆の踊り子」(二十八歳時)の原作になったと書いてある。あとの半分は清野少年の思ひ出とある。


「「湯ケ島での思ひ出」の一枚目は下半分が敗れてゐて読めないが、上半分から大体の見当をつけてみると、こんな書き出しのやうである」


 川端研究の先達諸氏たちはここでこの作品は、川端一流の諧謔的精神で書かれたのではとすでに看破されているだろう。

 私が川端だったらと想像してみると、しばし原稿用紙にペンを走らすのに疲れ休み、コーヒーを飲みながら、考えてゐて、ふふんとちょっと微笑みながら書くような文章なのである。小説家が事実を真面目にかういふ風に文章に書くものではないだらう。それは小説家であれば分かる。私にはそもそも「湯ケ島の思ひ出」なる作品自体の実態が疑わしい。「焼き捨てられて」もうこの世には存在しないのであるから、私は安心してかう言へる。


*255項空白行から数えて3段落目 川端の初恋

「そのある冬は、人の不可解な裏切りに遭って潰えようとする心を辛うじて支へてだった」


 これは研究で明らかになっている伊藤初代との婚約と1年後の不思議な破談のことであろう。川端は初代のことを名前ではなく、四緑丙午(しろくひのえうま)と呼んでいる。干支で1906年生まれの女性で、性格強く男を食い殺すという迷信がある。

 ひどい言いようである。

 「潰えようと」する心は川端の自尊心と家族を持つ計画を台無しにされたサイコパスとしての挫折であらうか。本当に愛していたのかは知る由もないが、恨みは相当深かったやうで、初代は他の作品にも登場する。「眠れる美女」においては憐れむべき女として回想に出てくる。しかも初代が自分の子供を妊娠していたのではという夢を見るのだ。これは男になりきれなかった男の未練を描いた稀有な告白であろう。



*256項空白行から1段目 清野からの手紙

 川端が一高三年の時に旧制中学の寄宿舎に残る清野からもらった手紙を「湯ケ島での思ひ出」にこう書いてあると記している。


「中学の寄宿舎から元の室員が手紙をよこした。--長い廊下の橋に麻裏草履の音が聞こえると、いつも、あなたではないかと思ふ。しかし直ぐさうではないと分かる。あなたの右足と左足とで音がちがつてゐた。また私はよく、階段を一度に二足づつ降りるあなたの足癖を真似てみる。といふのである」


 一体、「湯ケ島での思ひ出」という作品は何を書きたかったのであらうか?半分は伊豆で踊り子に出会ったこと、半分は湯ヶ島とは関係のない清野少年についてのことであるという。川端が焼き捨てるべきものと考えたのは、やはり日記調の人には見せられない小説メモであったからかも知れない。

 しかしこの手紙の文面が正確に”寫されて”いるならば、まるで女性の恋人しかも押しかけ愛人のラブレターのようだ。それに対する川端の返信の”寫し”の記述は限りなくゼロに近い。送ってしまったのでないものはない、といふ論理上のことだらう。だが、つらつら読んでゆくと、年賀状は送っているし、クリスマスカードも送っていると書いてある。これは表現上の”不平等”であると読者ストライキを起こしても良いのではないだろうか?

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