エピローグ

「――ねえ、文也君」

 水族館。海の見えるテラスで、彼女のその言葉を聞いたとき、僕は何か今までとは違う強い思いを感じた。

「………」

 だけど、すみれの口からその先の言葉が出てこない。潮の匂いを運ぶ風に吹かれながら、僕は彼女の言葉を待つ。

 すみれはじっと海の方を見つめた後、意を決したようにこちらを見つめて、

「私のことは、忘れてほしいの」

 静かに強く、そう言った。

 ……正直に言って、いつかこんな日が来ることは分かっていた。いつまでもすみれのことを思い出すのはやめて、前を向くべきだと。僕の隣で笑ってくれる彩芽を見る度にその思いは強くなっていった。まさか、彩芽の姿で、すみれに言われるとは思っていなかったけれど。

 だけど、これは僕の心の弱さが招いたことだ。

 どっちにも振り切れない僕を見て、すみれを不安にさせてしまった。だから、僕は決めなくてはいけない。きちんと別れを告げる覚悟を。それが彼女の望んだことだとわかっている。それでも、僕は――。

「――嫌だ」

 口から出た言葉は自分が思っていたよりも素直に声になってくれた。

「……どうして? 私はもう――」

 その先の言葉を言わせてはいけない。そう思って僕は彼女の言葉に割り込む。

「そんなの関係ない。僕は君を忘れる事なんてできないよ」

「でも、でも……」

 すみれは何か言おうとして、言葉にならないみたいだった。きっとこの願いを口にするために相当の覚悟をしてきたのだと思う。

「だけど、僕もいつまでも後ろばかりみてるわけじゃない」

「――え?」

「すみれのことは絶対に忘れない。二年前までずっと一緒にいて、何度も一緒に歩いた人のことを忘れられるわけないよ。だけど、それは過去に縛られてるってことでもない。僕はきちんと前を向く。その上で君のことを時々思い出す」

「……できるの? そんなこと」

「二年間もすみれのことを引きずってきた僕が言っても説得力がないかもしれないけど、大丈夫だよ。――僕だけじゃ無理かもしれないけど、きっと彩芽が手伝ってくれる」

「……そっか」

 どこかほっとしたような顔ですみれは微笑む。それを見て肩の力が少しだけ抜ける。

「安心、してくれた?」

「うん、もう大丈夫。これで、ちゃんとお別れできる」

「……そうだね。お別れだ」

 日はかなり傾いて、夕日がやさしく僕らを照らす。海は赤く輝いていた。二人でその景色を見つめながら言葉を交わす。

「それじゃあ、お別れだね。……こんなとき何て言ったらいいかわかんないや」

「そうだね、僕も知らないな……」

 海風が吹き抜けるだけのわずかな時間の後、すみれは告げる。

「文也君、今までありがとう」

「――こちらこそ。ありがとう」

 そう言い切った直後、彼女の身体が僕にもたれかかる。その身体から力が完全に抜けていて、僕はすみれがこの世から去ったことを知った。


 ◆◇◆◇


「……ん。――あれ?」

「気がついた?」

 彩芽が目を覚ましたのは、それから数十分後のことだった。

「私、いつの間に……」

「大丈夫だよ。僕がずっといたから」

「……そうなんだ。ありがとう。でも、ここは?」

 彩芽は身体を起こして、不思議そうに辺りを見回す。日が完全に沈んでいてかなり暗くなってしまったけれど、ここはあの公園だった。

 彩芽はしばらく状況を掴めないまま視線をさまよわせて、何かに気づいたように声を上げた。

「あ、今、何時?」

「え、ちょうど八時だけど……」

 そう答えた直後だった。ドンッ、というお腹に響く音と共に空が明るく照らされる。

「ああ、始まっちゃった」

「……花火?」

「うん、花火。私、文也とこれを見たかったの」

「……そうなんだ」

 今日が花火大会だったなんて全く知らなかった。花火は二人の声をかき消してしまいそうなほど大きな音で上がり続ける。

「綺麗だね」

「……そうだね」

 彩芽は立ち上がって、空を見上げる。僕はその隣に立って同じように空を見上げた。

「ねえ、文也。私、伝えたいことがあるの」

「……うん、聞かせて」

「あのね、私――」

 彼女のその言葉は、花火の音とともに僕の耳に確かに届いた。

 

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夏の隣 火球アタレ @atare16

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