すみれside

 奇跡、だと思った。

 だって、私は死んでいて。二度と彼に会えるはずがない。

 でも、私は今、こうして彼と話して、一緒に歩くことができる。そして、私の思いを彼に伝えることができる。

 一年前のあの日。気づけば私は歩道の真ん中に立っていた。

 死んだあとの記憶なんて欠片もない。分かるのは、私は確かに死んだことと、この身体が私のものではないということだけ。

 どうやら私は誰かの身体に憑依してしまったらしい。唐突で訳も分からない状況を理解するにはそう思い込むしかなかった。

 死んだ私がこうして現世に戻ってきたのはどうしてだろう。そう思った時、私の瞳は見慣れた後ろ姿を捉えた。


 ◆◇◆◇


「へえ、ここが水族館かー」

「初めて来たのか?」

「うん、ここに来たのは初めて」

 私は彩芽ちゃんの身体を借りて、文也君とこの水族館に来た。

 あの公園で私たちは互いにかける言葉を探して、沈黙の時間が流れてしまってた。何か言わなきゃ、っていう衝動に駆られて思わず口をついて出た言葉が「水族館に行かない?」だった。

 ここに向かうまでの間ずっと、私はどうしてそんなことを言ったのか考えていた。初めからここに来たかったわけじゃない。むしろ、私は行かないようにしようと思っていたはずだ。だって、ここは二人の思い出の場所になるはずだから。文也君と彩芽ちゃん、二人の思い出に。

「どうした? 体調悪い?」

「……え? そんなことないよ」

「そっか、それならいいんだ。彩芽もここに来るまでボーっとしてたからさ、心配で」

「全然、なんともないから」

 文也君はそれを聞いて安心したように笑って、入場口に歩いていく。いつの間にか私よりも前を歩いていた文也君に置いて行かれないよう、私は少しだけ速足で歩く。だけど、隣には並ばない。彼の隣を歩くべきなのはたぶん、私ではないから。

 文也君の半歩後ろを歩きながら、チケット売り場に近づいていく。

「あれ? 戻ってこられたんですか?」

 もう一度入場券を買おうとして、男性の係員さんに声をかけられた。文也君がその声に応じてくれる。

「はい。やっぱりもう少し見たいな、って思ったので」

「そうですか。それでしたら、チケットは買わなくて結構ですよ。再入場できますから」

 優しそうな係員さんだな、なんて思いながら私は二人のやり取りを半歩後ろで眺めていた。

「教えてくださってありがとうございます。それじゃあ、再入場させてもらっていいですか」

「ええ、それはもちろん」

「……でも、どうして気づかれたんですか? 僕らがさっきここに来た人だって」

「それはもう、お似合いの二人でしたから。場所柄、カップルで訪れられる方も多いですけど、あなた方は特に波長があっているように見えますよ」

「僕らは……そういうのではないですけど。でも、ありがとうございます」

 そう言って、文也君は入場口に向かって歩いて行った。私も係員さんに会釈して、文也君の背中を追う。半歩後ろにいるせいで、彼の表情は見えなかった。

 文也君は一体、係員さんの言葉の何を否定したのだろう。

 彼と彩芽ちゃんの関係だろうか、それとも、今の彼と私の関係なのか。

 それを確かめたくて、そんなことをする資格が自分にはないことに気づく。だって、私はもう――。

「……すみれ?」

 ふと、意識が現実に引き戻される。考え過ぎちゃうのは私の悪い癖だ。

「え? ごめん、ボーっとしてた。何かな、文也君」

「チケット、持ってる?」

「あ、うん。あると思う」

 少しだけ罪悪感も感じながら、私は彩芽ちゃんの鞄の中を漁る。彩芽ちゃんの鞄は女の子らしいポーチに小物が整理されてあった。その中から、それらしき紙片を見つける。取り出したチケットは折り目一つついてなかった。

「よかった、これがないと再入場できないからね」

 そういう文也君の手元には半分に折ったチケットが握られていた。

 それを入口に立った係員さんに見せて、館内に入る。入ってすぐにある角を曲がると、目の前には大水槽が広がっていた。

「わあっ……」

 思わず感嘆の声を上げてしまう。その声は文也君にも聞こえてしまったらしい。

「すごいよね、これ」

「うん、大迫力だね」

 そんな言葉を交わして、しばらく私たちは大水槽の中を泳ぐ数えきれないほどたくさんの魚を見つめていた。

 だけど、私は考えてしまう。ここにいるのは生きている魚ばっかりで、この中を泳いでいた魚は最後にはどこに行ってしまうのだろう。

 そんな私の思いが勝手に言葉として出てきてしまう。

「こんなにたくさんの魚もいつかはこの中からいなくなるのかな?」

 ハッとして文也君の顔を見ると、私を見て困ったような顔をしていた。一年前、海を見に行った時と同じだった。あの時も私の言葉で、彼をこんな顔にさせてしまった。

「ねえ、文也君。先、行かない?」

 私は失敗を誤魔化すように彼にそう提案する。文也君は「そうだね」とだけ言って歩き始める。そんな彼の後ろ姿を見て、私は一つ決心した。

 ――文也君に私を忘れさせる。きっと私はそのために今ここにいるのだと、自分でも怖いくらい腑に落ちてしまった。


 ◆◇◆◇


「ねえ、文也君」

 反射的に私はあの懐かしい後ろ姿に声をかけていた。その声に振り返った彼は、やっぱり彼で。文也君の顔を見た瞬間、私は神様に感謝した。……死んだからって、神様に会えたわけじゃないけど。

 私を見つめる文也君はまだ状況が分かっていないみたいだった。

「久しぶり。会えて嬉しいな」

 そう言うと、文也君はすごく驚いた顔をした。

 目の前に文也君がいる。その事実に私はどうしようもなく緊張してしまう。だけど、声をかけたのは私だから話を続けなきゃいけない。そんな義務感に似た何かを感じて会話を続けた。

 互いに言葉を交わして、話の流れで海に行って、文也君と歩く。

 生前には当たり前のような出来事に私は感動した。そんな奇跡を目の当たりにして私は勘違いしてしまった。

 この時間は私がきちんと文也君に別れを告げるためにあるものなのだと。

 海辺から少し歩いて、大通りのすぐ近くにある公園で私は文也君に告げる。

「ねえ、文也君。今日は楽しかったね」

「そうだね。こんな日が来るなんて思ってなかったよ。僕もすごく楽しかった」

「だけど、そろそろ終わりだと思う」

「え……?」

 驚いているような、残念そうな顔をして文也君はこちらを見つめる。そんな風に見つめられると私だってこの先の言葉が言いづらい。

「さすがにこのままずっと、ってわけにはいかないからね。この身体だって私のものじゃないし」

「そうなんだ……」

「この子、竹野彩芽ちゃんっていうらしいよ。たぶん、目を覚ましたらびっくりすると思うから、文也君が説明してあげて」

「わかった。ちゃんと伝える」

 これで私がいなくなった後のことも大丈夫だと思う。あとは、私がきちんと別れを言うだけ。

「ねえ、文也君。今まで楽しかったね」

「……それはさっきも言ったよ」

「違うよ。今日だけじゃない。今までのこと。一緒に学校に行ったり、下校したり。小さい時はお互いの家族で一緒に旅行に行ったりもしたよね」

「……そうだね。本当に楽しかった」

 言いたいことは色々あったはずなのに、いざってなると中々言葉にならない。たぶん、どれだけ言葉を重ねても伝えきれるものではないから。

 だから、私は最後に一言だけ、その一言にたくさんの気持ちを込めて告げる。

「――文也君、大好きだったよ」

 その言葉で、私の記憶は途切れていた。


 ◆◇◆◇


 あの言葉を言い切ったあとすぐに、私は彩芽の身体から離れたのだと思う。だから、私はあの公園でのそれからの記憶がないのだ。

 今、私の周りに文也君の姿はない。水族館の中は薄暗いから、半歩後ろを歩いていた私が彼に気づかれないよう場を離れるのは意外と簡単だった。

 海から吹く風が夏の日差しを受ける身体を冷やしてくれる。いつの間にか日はかなり傾いていた。

 私は水族館内にあるテラスにいる。海が見える位置に設置された休憩所みたいなところだった。文也君が近くにいると、私が伝えるべき言葉を思いつくことができない。そう思ったから、私は一人でここにいる。

 一年前、私は彼にかける言葉を間違えた。死んだ私が文也君に再開したのは私のためじゃない。私が死んでしまったことはどうしようもない事実で、そんな私に奇跡なんて与えるのはどう考えても手遅れなんだ。だから、あの奇跡は私のためにあったものではなくて、文也君のためにあるべきものだったんだと思う。

 だけど、私は間違えた。文也君のために使うべきだった奇跡を自分が別れを告げるためにあるのだと勘違いして、自分のために使ってしまった。そんな私が最後に貰ったチャンス。それが今、この状況なんだと思う。

 こうして二度目のチャンスを貰って、私は気づいたことが二つある。

 一つは、彩芽ちゃんの気持ち。身体を借りているから、彼女が抱えている思いが何となくだけど伝わってくる。彩芽ちゃんは文也君のことが好き。それは間違いない。

 そして、もう一つは文也君の気持ち。

 多分、文也君は揺れている、私のせいで。一年前、私がちゃんとしなかったから今、彼は困っているのだと思う。

 文也君は彩芽ちゃんの好意に気づいていて、その上で距離を置こうとしている。というよりも、私という存在を通して出会った彼女との付き合い方にずっと戸惑ってきたのだろう。差し出された炭酸飲料や半分に折られたチケットを見てそう思った。

 私のせいで二人には別れてほしくない。

 二回も身体を貸してくれた彩芽ちゃんのために、何よりずっと好きだった文也君のために、私は残りの時間を使ってみせる。

 そう決意した時だった。

「――すみれっ!」

「……文也君」

 振り返って見た文也君の顔はどこか焦っているように見えた。

「すごく心配したよ。どうして何も言わないでこんなところにいるんだよ」

 私を気遣う文也君は隣で一緒に歩いてきたあの時と同じで。そんな文也君を見ていると、絶対に彼に前を向かせてあげたいという思いが強くなる。

 これは、私の最後のお願い。今まで何度もこうやって文也君に頼み事をしてきたけど、それももう終わり。

 そう思うと、心の底から何かがこみあげてきて、上擦りそうな声を抑えながら、

「――ねえ、文也君」

 と、そう言った。

 

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