文也side

「ねえ、文也君。花火を見に行かない?」

 二年前のことだ。僕が高校三年生だった頃。

「どうした? 急にそんなこと言うなんて」

 彼女と二人で歩く帰り道。

「特に理由はないよ。久しぶりに一緒にどこか行きたいなって思って」

「そうだな。もうすぐ夏休みだし、予定が合えば行こう」

 彼女の名前は真中まなかすみれ。小学一年生の時に仲良くなってから、高校三年の夏まで何度も同じ道を一緒に歩いた、幼馴染みだった。

 そのせいで友人からはからかわれることもあったけど、僕らはそういう関係ではない。ただ、どうにも気になってしまうのも確かだった。

「高校最後の夏だからね。たくさん思い出を作っておきたいんだよ」

 すみれはどこか焦りも感じられるような声音で言った。

「必ずどこかで時間作ろう。僕もすみれと遊びたい」

「そうだね。絶対行こう」

 そんな風に言葉を交わして、僕らは別れた。

 結局、花火を見る約束は叶わなかった。


 ◆◇◆◇


 目の前で彩芽が倒れた。地面に打ち付けないように、ふらりと傾いた身体を慌てて支える。

 彼女には悪いけど、完全に力の抜けた彩芽の身体は少しだけ重かった。

「……彩芽? 大丈夫か?」

 呼びかけても返事はない。まぶたは閉じられていて、気を失っている。

 とりあえず、横にしてあげないと。そう思って、彼女を寝かせられそうなベンチを探す。それから救急車を呼んで……、熱中症なんだろうか、何か重い病気だったら……。

 思いがけない状況に考えがまとまらない。周囲に人影はなくて、助けは呼べそうになかった。僕がなんとかしなくては。そう考えて余計に焦る。

 ふいに、腕の中の彩芽の身体に力が戻った。

「……! 彩芽、大丈夫?」

 僕の声に彼女の身体は少しだけ反応した。瞼に力が入って、細く目が開いた。

「ん……」

 彼女の口から吐息が漏れる。その様子を見て僕の肩に入っていた力が少しだけ抜けた。しっかりと目を開いた彼女は状況を確認するように辺りを見回して、最後に僕の方を見つめる。

 じっと僕の顔を見つめる彼女の口は何かを言いたげに小さく開いていた。真夏だっていうのにセミの鳴き声も聞こえない静寂の中で、

「久しぶり、文也君」

 彼女の声を聞いたとき、僕の身体は動かなくなった。


 ◆◇◆◇


 その知らせが入ったのは、高校最後の夏休みも終わりに差し掛かった八月下旬のことだった。

 もう少しで解けそうな数学の問題を放り出して、僕は家を飛び出す。尋ねたのは、隣町の総合病院。

 全力で走った身体に、病院のエントランスの空気は冷たすぎた。受付に駆け寄って彼女のいる病室を聞き出す。

 目的の病室にはすぐにたどり着いた。病室の前の扉には僕を待っていた彼女の父親が立っていた。

「……文也君。来てくれたのか」

「あの……本当に……」

「すまないが、自分で確かめてくれないか。ぼくもまだ受け止めきれないんだ」

 彼の様子がとても苦しそうで、叫んでしまいたい気持ちを必死に押し留めているのが傍目にも伝わった。

 会釈をして病室の扉を開く。

 その部屋は彼女以外に人はいなかった。窓から入る日差しが眩しい。使い方の分からない機械が彼女の周りを取り囲んでいる。

 彼女に取り付けられた機械はどれも動いていなかった。

「なあ、すみれ……」

 呼びかけても返事はない。

 この日、真中すみれは死んだ。

 

 ◆◇◆◇


「すみれ、なのか……?」

 僕の声はかすれていた。

「うん、だね。文也君」

 彼女はやさしく微笑む。その笑顔がすみれのものだと、僕は確信できる。

「ねえ、文也君。そろそろ離してもらってもいいかな?」

「あ、ごめん」

 無意識のうちに彼女を抱きとめていた腕に力が入っていた。僕が手を離すと、すみれは気を失っていたとは思えない様子で立ち上がる。先程までの脱力した感じはない。

「体調は大丈夫なのか?」

「うん、全然。心配してくれてありがと」

 彩芽の姿、彩芽の声ですみれと話をする。その感覚にどうしても違和感を感じてしまう。

「ねえ、文也君。喉、渇かない?」

「わかった、買ってくるよ。……そこで待ってて」

 公園の端、木陰になっているところに古びたベンチが一つ置いてあった。それとは反対側の大通りに向かう道の方向に、自動販売機がある。僕はそちらに向かって歩き出した。

 それにしても、『ねえ、文也君』か。

 すみれは僕を呼ぶときや僕に頼みごとをするときに必ず枕詞にそう言っていた。その印象が強くて、今でも『文也君』と呼ばれると、どうしてもすみれのことを思い出してしまうようになっていた。

 彩芽に名前で呼ぶように頼んだのはそれが理由。

 一年前の今頃、僕は彼女と再会し、そして出会った。


◆◇◆◇


 その年の最高気温を記録した八月のある日。僕は少し遠出して海辺の町に来ていた。海水浴場や水族館があって、夏に大人気のスポットだ。そして、すみれが行きたいと言っていた町だった。

 すみれが死んで一年。僕は彼女の面影を今も探している。

 駅前から大通りに向かう道を歩いている時のことだ。

「ねえ、文也君」

 聞き覚えのない声で、何度も聞いた台詞を耳にする。反射的に振り返った僕はショートカットの女性と目が合う。僕と同い年くらいに見える彼女はこちらを見て微笑んでいた。

「久しぶり。会えて嬉しいな」

 見覚えのない女性。だけど、僕にはどこか予感があった。

「すみれ……?」

 僕の問いに彼女は頷いた。その瞬間、僕の頭は理屈をすっ飛ばして理解する。すみれは他人の身体を借りて憑依し、僕の前に現れたのだと。

 それが現実かどうかはどうでもいい。目の前にすみれがいるという事実があれば、僕にとってそれが全てだった。

「文也君、ちょっと大人っぽくなった? 雰囲気変わってるかも」

 知らない姿、知らない声で、すみれが僕に話しかける。だけど、違和感は感じなかった。今、僕と話しているのはすみれだと断言できる。

「大学生になったから。高校生の時とは違うよ」

「そっか、ちゃんと受かったんだ、大学」

 すみれはどこか嬉しそうに言った。

「……」

 僕は何を話せばいいか分からなくなる。言いたいことはたくさんあったはずなのに言葉が出てこない。代わりにすみれは一年前と同じ調子で喋り出した。

「ねえ、文也君。色々教えてよ。この一年のこと、私聞きたいな」

「ああ、そうだな――」

 そして、僕らは一年間の空白を埋めていった。


◆◇◆◇


 あの日出会った見知らぬ女性。彼女はすみれであり、彩芽だった。

 彩芽の身体を借りてすみれが現れた。今起きている状況は一年前の繰り返し。僕が心の端で望んでいた状況だった。

 炭酸飲料を一本と自分用にスポーツドリンクを買う。それを持ってすみれの待っているベンチへ歩きながら、思う。

 この状況は一年前とは何かが違う。これを望んでいたはずなのに、心のどこかに影が差していた。

「はい、これ」

 そう言ってすみれに炭酸飲料のペットボトルを差し出す。それを見たすみれは少し困惑していた。

「ねえ、文也君。私――」

 言葉の途中で、気づく。

「すみれ、炭酸は飲めないんだよな」

「……うん」

 頷いたすみれの表情はどこか硬い。僕は自分用に買っておいたスポーツドリンクを改めて彼女に渡した。

「ありがと」

 まだ戸惑いが残った声ですみれがお礼を言う。その声に僕は苦いものを感じる。

 炭酸飲料が好きなのは、彩芽の方だ。今、僕の前にいるのはすみれなのに。突然のことで頭が混乱しているだけだ、と自分に言い聞かせる。

 僕らはしばらく無言で買ってきた飲み物に口をつけていた。互いが互いにかける言葉を探しているみたいだった。

「ねえ、文也君。水族館に行ったんだね」

 先に口を開いたのはすみれの方だった。

「ああ、彩芽が誘ってくれたからね。だけど、どうしてそれを?」

「身体を共有してるからかな、彩芽ちゃんのことは大体分かるんだ」

「……そうなんだ」

 僕は少し言葉に詰まってしまう。彩芽のことをすみれはどう思っているのか、あまり聞きたいとは思えなかった。

「一年でかなり仲良くなったんだね」

 多分、すみれの台詞に他意はない。彼女は皮肉や冗談をあまり言うほうではなかったから。だから僕も思ったことを素直に口にする。

「……今の僕らがあるのはすみれのおかげだよ」

「そっか。一年前に私が二人を……」

 すみれが何かを考え込むように黙ってしまった。どんな言葉をかければいいのか分からなくなって、沈黙を選ぶ。代わりに、僕は一年前のことを思い出した。


 ◆◇◆◇


「ねえ、文也君。海に行かない?」

 そんなすみれの提案で、僕らは砂浜にやってきていた。

 真夏だというのに人の姿はまばらだ。その理由は、ここが遊泳禁止エリアだからだろう。ここから遠目に見える海水浴場には大勢の人がいた。

「海に来ると、夏って感じがするね」

「……そうだな」

 僕はまだ、すみれと話しているという事実に実感を持てていなかった。この日差しのせいで幻覚を見ているのではないか、とすら考えてしまう。

「すみれはどうしてここに来たかったんだ?」

「ここ、毎年8月に花火大会をやってるの。この辺りの砂浜で見るとすごく綺麗に見れるんだって」

 それを聞いて、僕は生前の彼女との約束を思い出す。最後の夏休み、二人で花火を見よう、と約束したはずだ。

「でも、今年はもう終わっちゃったみたい。ちょうど先週だったらしいよ。ここに来る途中にポスターが貼ってあった」

「残念だな」

 叶えられないと思っていた約束。それがもう少しで実現していたと思うと、どうにもやるせない気持ちにさせられる。すみれは寂しそうに言う。

「ねえ、文也君。……もし、今日が花火大会だったとしても、私は一緒には見れなかったと思うな」

「それは……どうして?」

 せっかくの機会だったのに。一緒に見ない理由なんてあるはずがない。

「一緒に花火を見ちゃったら、ここから離れられなくなりそうだもの」

 その言葉に、僕は改めてすみれがこの世にはいないことを思い知らされる。こうして二人で話せていることが本当に奇跡なのだ。

 僕らはしばらく黙って、波の音に耳を傾ける。この音には人の心を惹きつける何かがある。

「ねえ、文也君。水平線までの距離って知ってる?」

 唐突にすみれが尋ねてきた。

「知らないけど……。それがどうかしたの?」

「人の目の高さから見える水平線までの距離って、大体五キロメートルくらいなんだって」

 そこですみれは言葉を切った。僕は静かに彼女の台詞の続きを待つ。

「だから、私思うんだ。世界の果て――この世の終わりって案外近いところにあるんじゃないかな、って」


 ◆◇◆◇


 あの時のすみれの言葉に僕は何も気の利いた言葉を返すことができなかった。すみれの言う「この世の終わり」は多分、ある意味とても個人的なもので、今は彼女にしかわからないものなんだと思うと、どうしても言葉が出てこなかった。

 苦いものを飲み込むのに、炭酸は刺激が強すぎる。

「…………」

 セミの声だけが響く時間が続く。僕は彼女に何を言えばいいんだろう。

「ねえ、文也君。水族館に行かない?」

「……え?」

 予想外の言葉に思わず聞き返してしまった。だって、そこは――。

「水族館ってそこの水族館?」

 僕と彩芽がさっきまでいたところで間違いないか、尋ねるとすみれは大きく首を縦に振った。

「どうして水族館?」

 他の場所でもいいじゃないか、という意味を込めて質問する。

「私も文也君と水族館に行きたいからだよ」

「……わかったよ。行こう」

「やった」

 すみれはベンチから立ち上がって大通りに向かって歩き始める。

 嫌になるほど強い日差しのせいで、前を行く彼女の姿が少しぼやけて見えた。

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