あいして、にくんで(お題「ありきたりな嘔吐」60分)

 わたしはそれを心から愛していて、同時に死ぬほど憎んでいる。

 甘くて、わたしをとろけさせてくれる、やさしいそれ。そしてそれは、その代償を求めるように、わたしを醜い姿にする、


「あいしてるよ」

 その言葉だけを信じているのが愚かだといわれても、べつによかった。そのあたたかさに包まれているあいだ、わたしは何も恐れずにいられるから。世界一安全なシェルター、彼さえいれば大丈夫だと思えるから。

 だからたとえ本当の敵がシェルターの中にいるとしても、それは仕方のないことだ。幸せに多少の犠牲はつきもの。シェルターから出る方がこわいに決まっていた。

 殴られるのさえ我慢すれば、彼は甘い言葉でわたしを溶かしてくれた。わたしはその、あまい時間を享受するために生きている。

 だから、どうしても許せなかったのは、その日だけだ。わたしが彼に歯向かったのも、そのとき一度だけなのだ。大切にしていた犬のぬいぐるみ、わたしが洗濯物を取り込み忘れたせいで、両足をもがれた、目を千切られた。

 わたしを甘い気持ちにしてくれるものは、もうなにもなくなった。それだけが、彼を失って後悔したことだった。あいしてる、の言葉ひとつでわたしを溶かすその存在。もう会えないことはちっとも悲しくなかったけれど、あの甘さを味わえなくなったことは悔やまれた。


 チョコレートは、その甘さにとてもよく似ていた。

 口にふくむと広がる甘さ、自らがとろけながら、わたしの心もとろけさせてしまう。二度と帰らない彼のことなんてすぐに忘れた、机の上はチョコレートの包み紙でいっぱいになった。冷えたそれも、溶けかかったそれも、すべて愛おしい。

 だけどやっぱり、幸せに多少の犠牲はつきものなのだろう。腫れたみたいに丸くなった顔は、甘くとろける瞬間の代償でしかない。それを我慢すれば幸せでいられる、だけど時折、やっぱり殺したいほど憎らしくなる。

 チョコレートは彼と違って、この世の中にたくさんいるから、どうやって排除したらいいのかわからない。仕方がないからわたしは今日も、幸せを呑み込んだそのあとに、胃から全てを吐き出すのだ。


 わたしはそれを心から愛していて、同時に死ぬほど憎んでいる。


(お題「ありきたりな嘔吐」六十分)


𓇼‥‥‥‥𓆟‥‥‥𓆞‥‥‥𓆝‥‥‥‥𓇼


 満たされないからもっとほしい、でも排除したいから吐く。愛情もおなじか。求める一方になったとき、人は破綻するのだと思います。

 満たされるための過食嘔吐。愛してる人から間違った愛されかたをするひと。どんなにありきたりでも当事者にはそれが世界のすべて。

 とは言いながらも、やっぱりありきたりだなあ、と思いながら書きました。


𓇼‥‥‥‥𓆝‥‥‥𓆞‥‥‥𓆟‥‥‥‥𓇼

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習作たちの眠る場所 七草すずめ @suzume_nanakusa

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