第五章 残るしこり④
武の車に乗りながら、田舎ののどかな景色を山間の道から望む。田畑の多い地域だった。夏を迎え、田んぼに張った水と緑々しい苗や、山肌に見える青々とした木々の繁りが晴太の心を癒す。
「医者は何だって?」運転する武が尋ねる。
「よく睡眠を摂ってくれだってさ……」
医師から言われたことを晴太は淡々と話す。
「そうか。ま、ゆっくり治すさ……」
「叔父さん……」と晴太は武に尋ねた。
「父さんて、昔どんな人だった?」
唐突な問いかけだったかもしれないが、武との関係はまだぎこちないところもあったため、すぐに会話に持ち込める内容といったら、武にとっては弟である、晴太の父親の話をするのが手っ取り早かった。
「あいつは昔、ぐれてた時期もあったけど優しい一面もあったからな……。それも親父が厳しい人でさ。叔父さんもあいつも、喧嘩っぱやいところがあったもんでよく拳骨食らったよ」
晴太は子供の頃、喫茶店で父が見せた優しさのことを伝えた。
「そうかあ。あいつがかあ」と感心したふうに武は頷き、
「親父が言っていたのは、人としての振る舞い方だ。相手にどう接していくか……。親父にとってみりゃそれは敬いの心だってことだな」
「敬いの心?」
「ああ。分け隔てなく、相手を尊敬する心。親父の言いつけをあいつは守っていたのかもしれない。親父の言い分だと、人間は誰しも、尊い生命を宿している。それは敬うべき神聖なものであるってことだ。互いに敬うことで、傷つけ合うこともなくなる。それこそ平和な世界への第一歩っていうな……」
平和な世界へ……。そんな僅かな歩を少しずつ進めていきながら、隘路にも似た道を踏破する……。しかも、晴太の知っている限りでは、自分の周囲にでさえ、平和に繋がるという、優しさや親切心を実行し大事にしている人は、ほんの一握りしかいない気がした。
スケールの大きい話にも感じた。一人の敬いの心が、満開に咲く花のように世界に広がり、安寧をもたらす……。晴太にはなかなかイメージができないことだった。
それに、敬いの心とコズミックリリーフの教えはどこか相合するような気もする。結果的に多くの犠牲者を生み、社会的にも制裁を与えられるのだろうが、あの理解に苦しむ宇宙の爆発などといった事柄を度外視すれば、武の言う他人を敬うこととほぼ同じことを基軸としていたのではないか?
しかし、その考えを見直すと、それは多くの人を共感させ信者を集めるための方便だったとも考えられる。
やはり、あのカルト教団と叔父の言い分は隔てるべきなのだろう。
「世界平和って、少し規模がでかくないかな?」
「まあ、そう感じても無理はないな」武は苦笑しつつ、こう続けた。
「でも、他人を敬うことなんてなかなかできないことなんだぞ。単にあなたを尊敬しますって目の前で言われても、建前だって思われてしまうだろうからな。実際、おじさんもできているかというとそうでもない……。だが、始めから大きなことなんてできやしない。小さなこと、自分のできることからしか、始められないんじゃないか?」
会話の流れから、晴太は武に、次に述べようとしていることを躊躇していた。しかし晴太は思い切ってこう言った。
「俺は父さんがしたことを真似したかったんだ……」
「どんなことを真似したんだ?」
晴太は早朝学校に来て、友人たちと教室の清掃をしたことや、掃除を代行するという申し出を、他の生徒にしたこと、それによって悪用されそうになったことも話した。
単に早朝の教室を掃除したくらいで、父の真似だと言う、そしてそれが平和へのわずかな歩みだと言う……。意気込んでこう伝えたことに武はどんな顔をするか、恐る恐る運転席を見やると、
「教室の清掃、偉い!」
叔父は迷いなくそう声を張り上げた。
「それは偉いことだと思うぞ。でも難しかっただろう?」
「上手く行かなかったし、逆に利用された……。悪いことに……」
被った嫌なことを思い出してしまった晴太は、声が萎んでいった。武はその様子に何を思ったか、若干気遣うように続きを話した。
「まあ……でもよくやろうって思ったな。実行に移せる人もなかなかいないと思うぞ。それは晴太みたいな目に遭うのが、普通に想像できてしまうからなんだ。単にめんどくさいってのもあるな。だが、それができなかったから晴太が悪いって話じゃないし、おじさんは晴太が事前にそういう想像ができた末に、被害を受けたっていうふうに思ってる。でも、まあ大したもんだよ」
一瞬間を置き、再び武は話す。
「なかなかできないことだぞ。……人の代わりをやるってのは、相手の様子を見る必要があるが、それを恐れず、行動に移せたことは凄いな」
「でも悪用されそうになったし。もちろんそうならないよう気を付けようともしたけど……。終いには万引きしてこいって脅されたりもしたんだ」
「それでも、晴太は間違ってなんかいないさ。悪いのはそれを悪用した方だ。でも何て言うか、日本人の性質というか、人間の気質っていうか、悪い人を悪いって言えないんだよな。そういうところも人間にはある。大事なのはそれに屈しない強さも持つことだろうな。それは並大抵の忍耐力じゃ難しいかもしれん。途中で何度も止めたくなるかもしれん……」
「強さを持つってのも難しいと思うよ。気が弱い人だってたくさんいると思う」
「早朝、友達と教室を綺麗にした。それは紛れもない事実だ。強くなることは難しいし、敬い続けることも難しい。でも、晴太。お前は友達と一緒に教室を掃除した。それはやろうと思ってもなかなかでこないことだ。それをきっと見てくれている人もいる。たった今叔父さんも知ったし。自慢しろって意味じゃなくてな。信じることが大事だ。見えない人の心ってやつをだ。晴太はお父さんの優しさを真似した。追いかけた。お父さんだって見てくれているはずだ。天国で……もしくは晴太の心の中で」
人を信じることも強さが必要なのかもしれない。だが、晴太は武から話を聞き、武を信じようと思った。亡き父をも信じようと思った。
そうした心の現れも、ある種の敬いかもしれない。
「晴太は間違ってない。おじさんはそう信じてる。またそのうち、お母さんにも聞かせてやらないとな。晴太がしたことを……」
うん、と晴太は強く意気込むように返事をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます