第二章 おもむろな接近⑥
五味は笑みを絶やさず、
「お母様、そんな気を使わなくていいんですよ。どうぞお顔をあげてください。今日は突然の来訪、驚かれたでしょう。どうか、お許しください」
母は床に額を付けているのではないかというくらいに頭を下げ、
「いえいえそんな……。悪いのは私たちの方です……」
そして、五味はついに晴太に目を向けた。
「息子さんかな?」
「は、晴太と言います」
「高校何年生?」
「一年です」
「じゃあこれからだね。何か頑張っていることはあるかな?」
晴太は少々得意気になって、
「朝、教室の掃除をしています。係とかは決まってなくて、自発的に始めました」
「そうか、偉いな!」
五味の、父とも言える顔が満面の笑みになった。
「それを欠かさず行うことで、必ずあなたの中の宇宙は大きくなっていくことでしょう。それこそ、本当の幸せというものです。物質的な欲求よりも結局は、心が満たされているかどうか、あなたのそうした行いはクラスメイトにも影響を与え、周囲の人たちもあなたの宇宙による干渉で幸福度が増していくのです。どうか続けていってください!」
ぽん、と晴太の肩が叩かれると、母が呟いた。
「ほんと、亡き夫に似ていらっしゃいます……」
「私がですか? 晴太くんもそう思う?」
五味が言うと晴太は恥ずかしそうに、こくりと頷いたのだった。
「お父さんと呼んでくれても構わないよ。私たちの施設にはいつでもおいで!」
五味は右手を差し出してきた。晴太は握手に応じる。
さんさんと照りつける太陽を仰ぐひまわりのように、二人は笑みを交わした。
「絶対幸せになれるわよ!」
五味と女性幹部三人が帰ったあと、夕食の片付けをしていた晴太の背後で、母が興奮ぎみに言った。
「どうかなあ……」
いくら父に似ていようとも、入会となると話は別だ。
「俺はまだあまり信じてないんだよな」
渋る晴太に母は珍しく声を張り上げた。
「嘘おっしゃい!」
驚きつつ視線を横に向け、母を視界に納める。洗い物もそろそろ片付きそうだ。
「あんたもお父さんみたく見えたでしょ、老師様が」
「いやだからと言って、入るかどうかの話は別だろ?」
少し強めに言ってみる。晴太は続けた。
「下手すりゃ、人生を棒にふるって話も聞いたこともあるし。あのロックシンガーだか誰だかが、奥さんに騙されてバンド活動から離れなきゃならなくなっただとか……。他にも毒ガス撒いた事件とかあっただろ?」
「そんなのと一緒にしちゃだめよ。あんたも見たでしょ? ああやって幹部の人たちがわざわざ来てくれるのよ? あたしも、昼間あんたがいないときどれだけ救われたか……」
母は目に涙を浮かべていた。
精神的に不安定な母が、そう述べたり表情を崩しているのを見て、自分の手に及ばないこともあるという理不尽さに困惑しかけた。
「ある日突然いなくなっちゃったのよ、あの人……。ガンで入院して、その間も俺は大丈夫とか言いながら、安心させてくれたけど……」
目を潤ませ、鼻をすすり始める母。
「そのままいなくなっちゃったのよお! もう二度と会えないのよお!」
泣き叫ぶまでに至ってしまった。
夕刻の五味との邂逅が刺激的だったのか、疲れが出てしまったのだろう。精神のバランスを保てなくなるほど、疲労困憊のようだ。
「ごめんごめん。わかったから……。ほら、お風呂いれるから、それまで少し休んでな、ね、母さん……」
涙にむせぶ母を立ち上がらせ、手を取りながら母の寝室に連れていった。
電気をつけず、白いレースカーテンから漏れる蒼白い光を頼りに、母を寝かせると、布団をかけた。
まだ鼻をすすっていたが、大分大人しくなったようだった。
そっと母の部屋を出、風呂場に行き湯を溜める。
「どうしたらいいかなあ……」
思わず独り言が出た。
窓の外を見やると、仄かな明かりを発する月が、一枚の写真のように窓枠の中央に収まっていた。
実際、晴太は迷っていた。
入会したとしてもし仮に、過去に起きた宗教絡みの事件のようなことが起き、それに巻き込まれれば、誰も救われなくなってしまう。
思いつつ、一方では、父の優しさと五味の相好を崩した顔、そして晴太自身の優しさの体現とが折り重なるようにして、胸の奥にあった。
宗教の話は置いておく。自分が次にやろうとしていることを、一つ一つこなしていこう。それは決して間違いであるとは思っていなかった。
今の時点では……。
「マッチングモウル、今のところは問題ありません」
真夜中の住宅街――。
黒塗りの車の運転席に座る男と、後部座席に座る女。
静かな車内に女の声が厳かに伝えられた。
「そっくりになって、潜り込めているということですね。……順調のようで安心しました」
男は女と関わりが深いようだった。女はそれだけ伝えると、
「じきに化けの皮も剥がれていくと思われます。ただ問題なのは、信者のリストがなかなか見つからない点です」
「どうやらそれは、向こうにとっても厳重に守るべき対象なのでしょうね」
「Sが言っていた計画から、一般の家屋などに紛れて、きたるべき時まで隠しておくという算段なのかと……」
「信者のリストが見つかれば、順に調べを進めることができますからね。なるほど、彼らも容易に尻尾を出さないとは……。思ったよりも手強い相手だ」
Sと言うのは、二人の所属するある組織の中でのやり取りの際に用いられる暗号だった。
Sの企てているある犯行が、後部座席の女性の話では、近々表面化するらしい。
無差別に強行されるとの会話が、後部座席の女性が得た調査結果の一つだった。
「慎重に行動するため、また少し時間をいただければと思います」
「次回までにリストを探しておいてくださると助かります。無理なお願いですが」
「いえ、それより……」
ルームミラーから女の表情を窺う。
感情を表に出さないよう訓練してきたためか、女の表情は喜怒哀楽どれにも染まっていない。だが、男は女が言い淀んだことが少し引っ掛かった。
「どうしました? 何か心配ごとでも?」
「日中に警官が来て、幹部と色々話してました。私はその時いなかったのですが」
「潜入捜査させるほどの危険な団体であれば、警官を向かわせて様子を探るのも当然でしょう。あなたお一人だけに、お任せするわけにはいきませんから」
「それがかえって、団体側に疑念を抱かせることになるかもしれません。自分たちの動向を探られているのではと……」
男はルームミラーに映る女の顔を見やった。無表情だったが、どこか疲れの色も見られる。
「実際、警官が巡回等を行っても、いい結果が得られるとは限りません。決定的証拠があれば話は別ですが、民事不介入というのもありますし……。その来訪したという警官からも、団体内の様子は表面上、平常を保てているとのことでした」
「私の存在が公にならないよう動くのも彼らの役目のはず。所詮捨て駒みたいな立場ですから私は……」
男は女の態度が気になった。どこか捨て鉢とも言えるような様子だった。
「どうしたんです? 何かご不満などあればお伺いますが?」
「いえ……。ちょっと率直な意見を表に出してしまいました。挫けるわけにはいかないので」
――長年あそこにいて、疲れも恐れも感覚が鈍るほどにまでになっているのだろうか……。
男は思いつつ小さく息を吐く。
女がある団体に潜り込み独自の調査を行いはじめてから、五年は経つ。女としても、役目上、本心を吐露することは避けたかったことなのだろう。
運転席の男は、そんな女に対して、少しでも肩の力を抜いてもらおうと思い、同苦したつもりでこう述べた。
「捨て駒だなんてことはあり得ませんよ……」
「どうでしょうか……」
「十分よくやってくださっているかと……。五年という長期間の捜査は、あなたの所属する組織の特性上、仕方のないことです。いくらあなたが優秀であっても、なかなかできないことですよ。しかしあなたはそれを継続させている……。ほんとに強い方だと私は思います」
「ありがとうございます……」
ルームミラーに映る女の顔が少し和らいだように見えた。しかしすぐに元の、硬い表情に戻った。
「私にとって、あの団体を駆逐することは悲願ですから、ある程度の苦労は覚悟の上です。だからこそあの組織に志願したのですから……」
「あなたには苦労ばかりかけます。いくら我々が公僕といえど、あなたには重荷を背負わせ過ぎたかと……」
いえ……、と女は溜息混じりに下を向いた。しばらくして、面を上げるとこう告げた。
「Sの会話から考えるに、この捜査も時期が訪れたとみていいでしょう。向こうの動きもそろそろ大きく出ようとしているようですので……」
男はそれを聞き一旦間を開けてから話した。
「時間の問題ということですか……。連中もそろそろぼろを出す頃合いということですね?」
次の報告までに、敵側の動きが活発化すると見ていいということだろう。
「そのように上には報告しておきます。よろしいですね?」
男が後部座席の女を直接見やった。
「沢尻さん……」
はい、とここ数年の捜査による疲れを窺わせないほどに明るく答える沢尻だった。
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