第二章 おもむろな接近③
ある朝、日直だった千梨は誰もいない静かな教室に入るや否や、違和感を抱いた。
――教室が何となく綺麗な感じするのは気のせいかしら?
千梨は日直の日でなくても、毎朝一人で早く登校しては、室内の清掃を手早く行うことにしていた。
手早くというのは重要で、人目に見られない分、自分がやったという痕跡がほとんど見られることがないからだ。
小学生の頃、善行を施そうとして、朝早くに掃除し、担任にそのことを伝えると、一部の女子には鼻についたらしい。
いいこぶりっこをしたように勘違いされたのだ。
その再発を避けるため、早々と登校してきては、自分が決めた清掃を他人の目に触れないよう今までやり通して来た。
しかし、まさか自分よりも早く来て、それを行う者がいようとは……。
果たしてそれは誰か?
念のため教室をくまなく見回っても塵一つないようだった。
その何者かも千梨と同じ思考の持ち主かと思われるが、どうやら初回にして手抜かりがあったようだ。
通学用のバッグが、机の横のフックにかけられていたのである。
場所は、窓際の列の一番前。
――ふふっ、抜かったわね、玉本くん……。
思っていると、教室の戸を開ける音がした。
「おはよー」
挨拶をしたのは晴太だった。
「おはよう、玉本くん。掃除してくれたみたいね」
自分たち以外に生徒がいなかったため、恥ずかしい思いをせずに済むだろうと、この隙に千梨は礼を言っておこうと思ったのだが、
「い、いや、俺は今来たばかりだよ」
「そう?」とわざと知らないふりをした。
「どうしてそんなこと言うんだよ?」
「バッグが机にかかっていたからよ」
軽く攻めに入った。これで言い逃れはできない。しかし晴太は、
「ああ、金曜日に置いてきちゃったみたいでさ」
――苦しい言い訳ね……。
明らかな嘘である。容易く見抜けられないよう誤魔化したように感じたが、千梨は話を合わせた。
「金曜日に? じゃあ宿題もやってないってことね?」
「あ、ああまあ、そうかな……」
そこで千梨は自分でも意地悪だなと思えることを言ってのけた。
「数学のプリントよね? よかったら私の書き写してもいいわよ?」
中学の時から知り合った間柄だったため、晴太の苦手な科目は、理系であることは知っていた。
いいえ、とは言えないだろう。
例え苦手分野であっても、他の教科よりも多少点数が落ちるだけで、晴太の性格上、課題はやってくる真面目さはある。
拒否をすれば答えあわせはできない。そうすると、バッグと一緒にプリントを持ち帰ったということになり、清掃のことがばれてしまう。肯定し受け入れれば、すでに記入済みのプリントにどう書写すればいいのか、ということになる。
書き写すことすら拒むのであれば、課題そのものをサボったということになり、未記入のプリントを回収することになるが、記入済みであれば、清掃が明らかとなる。
――さあ、どうする、晴太くん?
「いや、止めておく。自力でやるよ」
言うと、晴太は自分の席に行き、バッグからプリントを取り出すと、黙々と課題をやり始めた。
まさか、と千梨は瞠目した。
そう、晴太は課題をやってこなかった。
それこそが、清掃をやっていないことの証明になるからか、あらかじめ当日の朝にやることを念頭に入れていたようだ。
――やるわね……。
思わず笑みがこぼれた。そして先回りして教室の清掃をした晴太の心積もりとはなんなのか、今の千梨にはわかりかねた。
昼休みに昼寝をしようと、晴太は机の上に置いた腕の中でうとうととしていると、後ろの方の席から、話し声が聞こえてきた。
「今日俺らだろ、放課後の清掃」
「ああ、めんどっちいな」
「早いとこカラオケ行きてえのになあ」
男子三人の会話だった。
好機と捉えた晴太は、眠気で重い体を持ち上げ席から離れると、その三人にこう持ちかけた。
「よかったら、俺がやっておこうか?」
クラスメイトとして面識はあるが、あまり喋ったことのない面子だった。それは相手も同じだろう。
三人のうち一人が嬉しそうに、マジか? と驚いていた。しかし一人の男子は、
「いや、いいよ。俺たちでやるから」
そして一人が鋭い目付きでこう言った。
「聞いてたのか、俺たちの話……」
「いや、ごめん」と晴太は盗み聞きしたことを謝罪し、
「少しでも力になれればと思って」
「いや、いいよ。俺たちでやる」
と述べる男子に軽く会釈し、席へと戻って再び寝ようとした。
「仲良くなりてえのかな?」
「キモいな」
「どうせ見返りほしさだろ?」
と言った会話が聞こえた。
これは幻聴かどうかはっきりとわかった。実際に彼らはそう言っていたのだ。さすがにでしゃばりすぎたか、と晴太は少し反省した。
「玉ちゃんが何かしようとしている……」
昼休みの晴太の一連の様子を見ていた里音は、そう呟いた。
「あたしにも話してくれればいいのに……」
唇を尖らせる里音。
「サッチーああいうのが好み?」
机の回りにいた二人の女子仲間から、そう聞かれた。
「うん。いつも一人でいるからね」
「一人だから惚れたの?」
「っていうか、あたしの目に狂いがなきゃ、玉ちゃん結構イケメンなほうなんだけどなあ」
「まあ、中の上って感じ?」
二人の内の一人が評価した。里音は首をぶんぶん振り、
「上の中くらいだよ。十分イケメンの領域だって」
えーっ、と目を丸くしながら三人の女子仲間は顔を見合わせた。
「あんたの趣味わかんない」
「この間のあれは、結局なんだったの?」
口々にいう女子仲間。その一人がそう問いかけた。この間のあれ――紛れもなく、フードを被り語尾をおかしくして、晴太に自分を頼れと言った先週の出来事のことだろう。
「あれは……」と一瞬考える里音。晴太のためにも、無遠慮な発言は控えた方がいいだろう。
「いつも一人でいるから、何か相談できることあったら言って、っていう話」
「サッチーの気遣いか……」
「やっぱり優しいね、サッチー」
何とか理解してくれたようで里音は安心した。
「まずは、これくらいでいいか……」
帰宅後、キッチンで料理の煮込み具合を見ていた晴太は、今日の自分の行動と結果に、まあまあの満足感を得ていた。
早朝に千梨と出くわしたのは予想通りだった。
以前たまたま早く来たことのあった晴太は、清掃具を片付けている千梨を見かけたことがあった。
――あいつもまめだよな……。
最初の段階で、自分が早く登校し、清掃する姿を目撃されるのは危うい感じがした。
早々と登校してくる生徒が、千梨だけとは限らないし、もし彼女が毎朝欠かさず一人で清掃を行っているとすれば、千梨に申し訳ない。
――あいつの自己満足なんだろうが、邪魔してるように思われても嫌だからな。
あえて自分と千梨以外の人間が清掃をしたということにしておきたかったが、それでは千梨が、清掃を行ったのは何者なのだろうと、疑念を抱くことになるだろう。
――やっぱり正直に話した方がいいか……。
昼休みにおいての自分の所作も、朝と比較すると矛盾している。
姿を隠して、人の役に立ちたいのか、正体をさらして周囲の目を引きたいのか……。
――明日もやってみよう……。
どのみち優しさを施していくには、後者の方を実践していかなければならない。
煮えたぎってきた鍋を見て、慌てて火を消すと、
「母さん、晩飯できたぞ!」
居間で眠りかけの母を呼び掛けた。
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