第二章 おもむろな接近②
自宅に戻り、晴太はコーヒーを淹れようと、コーヒーメーカーに紙をセットし焦げ茶色の粉を二杯分入れ、機械のスイッチを押した。
帰りがてら、駅の近くにあったケーキ屋でケーキを買ってきた。
母はケーキを皿に置きながら、
「あんたは間違いなく父さんの息子よ。あんたは父さんくらいに優しい人。だから……」
「入会しろってのか?」
ボコボコ言っているコーヒーメーカーの傍らで、晴太は少し強く言った。それに母も反論するように、
「どうしてそう否定的なの? 皆が皆悪い宗教とは言えないと思うんだけど……」
いくら父親から引き継いだ優しさがあろうとも、今は母の静養が第一に思えた。
母の病が発症した原因として、父の死が関連していることに、母自身何もつながりがないとは思っていないだろう。
出来上がったコーヒーをカップに注ぎながら、コーヒー独特の香りに心地よさを感じる。
不意に晴太が思いを馳せたのは、子供の頃、父と行った喫茶店だった。そこで半球の形をした白いアイスクリームを食べた。
スプーンで掬い、口へ運んでいく。
あとから聞いた話では、こういうときの晴太は本当に幸せそうに食べているということだった。
父の元へ運ばれてきたアイスコーヒー。しかしウエイトレスの手元が狂い、父の胸から下にかけコーヒーの入ったグラスが落下し、びしょ濡れになった。
以前、母が同じようなミスをしたとき、父は何も怒らず母と一緒に床を拭いていた。それが終わるとゆっくりと服を着替えに脱衣所へと向かったが、このときも父は一切顔を険しくさせることなく、ウエイトレスと一緒になってソファや床を布巾で拭いていた。
普通だったら怒るのに……。
少なくとも自分だったら、店員の粗相に嫌な顔くらいはしただろう。
帰る頃には、父の服は水分を滲ませたままで、クリーニング代を出すとか、お代は結構ですなどといった店側の対応に、父は縦に首を振らず、コーヒーも再度、運んできてもらったものの、飲むようなことはせず、アイスクリームの代金だけ支払うと、車で帰った。
家に着き、母は父の濡れた服を見て驚き、店員への陰口を言っていたが、父はそれに同調せず、黙々と着替えているだけだった。
あの父の優しさは、ともすれば、人がいいということでしか他人に伝わらないということもあるだろう。だが、晴太には父のそうした行いが優しさに思えた。高校生になった今、あの時の父の振る舞いを振り返ると、優しさというものは忍耐強さから表れるものではないか、とも思えるようになった。
だから優しき人は強き人なのだと。
そしてそういった人間が世の中の多数を占めているわけではないと。
父の優しさは、晴太に全て受け継がれているのだろうか。
もしそうだとしても、今の自分が成熟した大人ではないという部分から、ごくわずかなものでしかないと言えるのではないか。
だが、思い返せば、母の面倒を見るときや、里音、千梨、明や幸美への相手をするときなど、随所にあのときの父の忍耐強さから絞り出される、親切心のようなものが自分にもあるのでは、と仄かに思えるのだった。
「もしそうだとしても……」
晴太は母の考えに否定的だった。
「俺は優しい人間ですとか、他人に言いふらしたり、自分で思い込んでいるのも、何か違う気がする」
「あんた、別にそういう態度とらないじゃない……」
それもそうだ、と思いながら、
「いやでも、俺は優しくはないよ。利点があるから優しくなれるんじゃないか? 見返りを期待するっていうか。人なんて結局、そんなもんだよ」
だとすれば、父のあの振る舞いとは、何だったのか。
強気にそう言ってみたものの、しこりも残った。
――優しさ、優しさか……。
日曜日の夕方。母は薬の副作用からか、ベッドで眠りに就いていた。
晴太は優しさについて、昼間母から言われたことを考えていた。
母の部屋に入り、棚の上に置いてあったコズミックリリーフが製作したDVDを一枚手に取り、居間にあるテレビの下のデッキにセットする。
途中からの映像が映し出される。デッキの機能によるものだろう。
二人の男性が、二つの大きなソファに座りながら、会話形式で進行する内容だった。背景はどこかの建物の庭らしき場所で、芝生とその向こうには白い建物が見えた。
「五味老師に伺います」
画面右側の男が、五味と思われる左側の男に尋ねる。
「私たちの中にあるとされる宇宙……。それは一体どういったものなのでしょうか?」
何より驚いたのは五味の顔だ。
黒髪には少し白髪に近い灰色の髪が混ざり、背中まで達している。前髪もろとも後ろで束ねられ、身を乗りだし熱心に語るその相貌――。
「例えば」と五味が語り始める。「私たち人間も外の環境と酷似した体の作りをしています。皮膚やその内側に張り巡らされる神経や血管など、地表と水脈のようなものとも捉えられます。もっとも大事なこととして、私たちの細胞は日々、死と再生を繰り返している。近年の研究では、細胞の数も三十歳の男性の平均では、三十兆近くもあるとされ、人間のあらゆる世代からして大まかに数十兆もの細胞があるとされています。宇宙空間にある星の数は、それ以上あると見ていいでしょう。それは人の体と似ているとも言えます。宇宙は膨張し続けているという説もありますから、成長を続ける人間も宇宙のように膨らんでいるとも捉えられ、また細胞一つひとつが人間として見立てられるとしたら、人は小さな星としても見ることができるでしょう」
なるほど……、とテレビの中の聞き手は頷いている。
「脳は今でこそ、その謎の多くが解かれてきたと言われていますが、一瞬一瞬の思いや一念というものを測定することは現時点では叶わず、不可思議な事象として見ることもできます。喜怒哀楽といった感情を表情や行為として見ることもできますが、本心としては不確かです。怒りや憎しみもそうですが、私は優しさや親切心なども、不確かでありながら、着実に人の心を掴むと信じています。数十兆もの小さき生命が、七十億もの人類に含有されている。優しさで繋がっていくということは、星と星、宇宙と宇宙との広がりからもたらす連結を意味することだと思っているのです」
五味は一旦言葉を区切り、再び語り出す。
「考えても見てください。人と人が繋がるに、コミュニケーションの手段として優しさが必須とされるのであれば、優しさとは引力や重力などとも言えます。人と人との繋がりはそんな優しさの重力による、星と星、宇宙と宇宙の繋がりとも言えるのです。星と星が引力を保ち、周回するということと同じことかと……。コズミックリリーフ、宇宙的救済は、まさに人の宇宙と宇宙の連結、優しさの発露によって成り立つのです」
そう力説する五味の顔を、画面越しに凝視する。
白っぽい肌に浮かぶ柔和な顔は、見始めてから数分経つが、絶え間なく優しい微笑みを見せている。
――父さんに似ている……。
ズームアップされた五味の顔を見て、晴太は直感的にそう思った。
そう、その表情や目や鼻のパーツなど、長い白髪を無視するならば、亡き父との面影を重ねさせるのだ。
焦りか何かか、身体中に汗が吹き出、少々熱を伴ったように感じた晴太は、閲覧をやめ、テレビを消した。
口の中も乾いた気がし、冷蔵庫から麦茶を取り出す。コップに注ぎ、すぐに飲み干すと、ため息をつく。
――宇宙みたいな優しさだなんて、そんな馬鹿な……。
母が言ったことと、五味の顔が合致したように晴太の頭を回った。
――母さん自身も感じているのか? あいつと父さんの顔が似ていることを……。
麦茶をもう一杯コップに注いだ。
――だから母さんはあの宗教に入りたがっているのか?
今度母に聞いてみようかと思った。
そしてもう一度、あの言葉を頭の中で繰り返した。
――優しさ、優しさか……。
父のあの振る舞い方と、晴太のこれからの自分の身の振り方に妙な接点があった。
この先の未来だけではなく、それ以前から、里音たちへの接し方なども含め、父が示してきた生き方を模範とする気配が自分にもあるような気がした。
父のような顔をしたあの人物が力説していた、宇宙云々、優しさ云といった思想――。そんなコズミックリリーフの考え方は、果たして正しいのか。
五味の顔と父の面影を何度も思い出していると、晴太の心にある思いが芽生えるのだった。
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