第一章 かしましい⑧
晴太が家についた頃には七時になろうとしていた。
玄関に入ると、女性ものの靴が三足ほどあり、居間を覗くと、大人の女性が三人ほど母を囲んで茶を飲んでいた。
「こんばんは。あら、息子さん?」
女性の一人がそう言うと、晴太はこんばんは、と頭を下げつつ、女性三人もぺこぺこと小さく頭を下げていた。
母の客人だろうか。だとして邪魔するのは悪いと思い、晴太は自室に入りふすまを閉めた。
制服から部屋着に着替えると、ぐうと腹が鳴った。
――いつ帰るんだろう……。
まさか彼女らを無視して夕食の支度をするわけにもいくまい。とはいえ、空腹なのも事実だ。来客を拒むわけではないが、こういうとき、人との繋がりを煩わしく感じてしまう。
思った矢先、物音が聞こえ、女性たちが帰ろうとしていることに気づく。
「じゃあ来週、都合よければ来てください。よかったら息子さんも……」
「私たちが力になりますから。あまり深く悩まないでくださいね」
「では、失礼しますー」
ふすまの外でそんな声が聞こえると、玄関の扉は閉められた。
晴太はふすまを開け、
「今の人たち誰?」
少し強めに言うと、母は珍しく微笑み、
「宗教の人……。コズミックリリーフっていう名前の宗教でね。時々晴太が帰ってくる前の時間に来て話聞いてくださるの」
「大丈夫なのか?」
「何が?」
やはり母は自分の身の回りのことに疎かった。
病の影響もあって、強く出られないところもあるのだろう。だからこそ晴太が守ってやらなくてはならないのだが、一方的に母を咎めることはできなかった。
「気を付けろって。変なのに入会したりすると金盗られたり、施設に閉じ込められたりされるから……。ニュースでも時々話題になるだろ?」
「あの人たちは大丈夫よお。脚しげく通ってくれて、悩みとか聞いてもらったりするの。そうそう」
と、思い至ったように立ち上がると、冷蔵庫からケーキを取り出しテーブルの上に置いた。
「ほら、こんな美味しそうなものまでくれたりするのよ……」
「それを口実に懐柔させられたらどうすんだよ」
「大丈夫だってえ。今度の日曜に集まりがあるから、それ聞いて判断しようと思ってるの。晴太も一緒に来て欲しいんだけど……」
絶対に行かない、と拒絶しようとした。
怪しい宗教なんて山ほどある。奇妙な連中に巻き込まれ、人生を棒に振れば、その分の時間は大損害を被ったのと同じだ。
しかし、晴太自身いくつかの悩みがあった。
母の病、将来をどうするか、勉強を続けるのか、続けたとしても、母が気がかりで、高校生が一人踏ん張ったところでどうにかなる問題でもない。
十分に怪しい団体ではあるが、日中は一人でいる母の悩みを聞いてくれた恩は感じている。
晴太としても、相談したいことはあるにはあったが、同級生に相談する、ましてや同じクラスの知人以上友人未満の人たちに迂闊に打ち明け、彼らに面倒ごとの片棒を担がせるわけにはいかない。
これは母と自分の問題なのだ。
だから、安易に恋人や友人を作ることは避けたかった。
恩に少しだけ報いるだけだ。少しでも怪しい部分があれば、早々に退場しようと晴太は思い、集会に参加することにした。
集会まで日数はある。
それまでに気になる事柄をクリアにしておこう。そう決断した晴太は、ある日の夕刻、学校の帰りがてら心療内科に向かった。
駅の近くにある、小さなビルの三階。予約制で、二週間前に連絡をし、診察の予約を取っていた。
木目の床と、白い天井。ブラインドの下がった窓に部屋の中央には大きなテーブルがあり、その横側に医師が座っていた。
初診ということもあり、小学生より前のことから順に話していくことになった。
小、中、と何ら変哲のない日常を送ってきたが、受験勉強を経て、高校生になった初日に発生した言葉の渦のことを話した。
寡黙な医師に思えた。淡々と話す晴太に、その時の気分や、当時の記憶をまだ思い出すこともあるのか、思い出したとして、何を感じるか、そうした質問の一つひとつには、真摯に患者と向き合う姿勢が窺え、口数が少ないのも、話を聞くことに専念しているからだと思った。
晴太は医師の問いに答えていった。
「入学式以降は、そんな大きなことはなかったです。ただ少し他人の心が読めてしまうというか、聞こえてきてしまうというか……」
眼鏡の奥から注がれる医師の穏やかな目は、じいっと晴太に向けられていた。
「ここに来られる患者さんの中にも、声が聞こえたりする人はいるんですけどね。その大半が、自分への悪口だったりします。あなたの話を聞いている限り、どうやら悪口だけではないようですね」
「好意的な声も感じます」
「念のため言っておきます。なかなか信じてくれない患者さんも多いんですが、いいですか。決して超能力とかエスパーとかそういう非現実的なものではありません。もう少し様子を見てみたいと思いますが、あなたのような症状の病は現に存在します。薬、出しましょうか?」
「どうしても飲まなければいけないものなんですか?」
「お話を伺っていると、さほど重篤ではない状態であるのではと……。私が思うに、声の頻度や、あなた自身の被害の度合いなど、軽いように思われますね」
言われてみれば、日常生活を大きく変化させるような症状は今のところ皆無に等しい。声が怖いから外を歩けないだとか、人と話す前に動揺してしまうだとか、そんなことはなく、日常的には差し障りなく過ごせている。
晴太は薬を服用するのは止めにし、診察は終わった。
また困ったことがあれば、二週間前には連絡を、と受付の女性から言われ、病院から出た。
――病気じゃない、か……。
電車に乗りながら、ふと物思いに耽る。
――フロムサトや、浦和たちのあれは勘違いだったのか?
渦の話をしたときも、医師は可能性として、母親の看病だったり、受験勉強を終え、一気に疲労が来たのに加え、季節の変わり目も関連している、ということだった。
そう言えば五月に入って、体がだるくなり、勉強に覚束ないときもあったな、と思うと、あながち特定の病気とは違うものなのかもしれず、一過性の体の不調だったのではと思うのだった。
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