第一章 かしましい⑦

「ハーレーって好きな人いる?」

 小学校三年生くらいの時だった。

 昼休みにグラウンドで男子たちがドッヂボールで遊んでいるのを近くのベンチに座って眺めていたところ、こそこそと隣に座ってきた明にそう問いかけられた。

 この時の明は、漆黒の髪を肩まで伸ばし、柔和な表情をいつも保っていた。クラスの男女にも人気があり、晴太と明を見る周りの眼差しは、どこか羨望なものが含まれているような気がした。

「いるにはいるけど……」

 頬を赤くし口をもごもごさせていると、誰? と迫る明。

 恥ずかしくて言えずにいた。好きな人という枠にとどまらず、将来を約束した仲であったのは、幼稚園のときに明の方から告げられた。

 無論晴太も、当時の純粋で、溢れる好奇心と、世の中のことを知らない子供だったからか、明とは「しょうらいをやくそく」した間柄だった。

「アタシにもいるんだよ」

 思わず目をくれた明の輝く瞳に、なんの淀みもないことを、当時の晴太は何を感じたか。ただ、どきどきと心臓が胸から飛び出してきそうだったのは覚えている。そして明が述べた、彼女の好きな人の名も……。

 中学を経て、双方の距離は開いた。

 心も物理的なものも。

 クラス替えでも巡り会うことはなく、思春期に芽生えた特有の気持ちや、仲間になった男子たちとの付き合いと、成長していく過程で、幼い時の約束は色褪せていったのだと思われる。

 晴太がそう感じたように、明もきっとそうなのだと思った。

 そうして時はただ流れていった。

 晴太の父が死んだことも一因としてあったのかもしれない。

 積極的に友達を作ることをしなくなり、晴太と明を結ぶ距離感は、晴太の方だけ離れてしまったようだ。

 明のあだ名で呼んで欲しいという願望が、真意こそ不明であれ、昔からの繋がりを修復したいようにも見えていた。

「も、もう、俺たちも大人だからさ……」

「ガキの頃のちょっとした気まぐれだったってのかよ?」

 そこまであの約束を信じていたのか、と思うと胸を痛めてもいいはずだが、晴太は明の気持ちを無下にするかのように、

「色々助けてもらって悪かったな。缶コーヒーもおごってくれてありがとう。中学の時知り合った子が、どうしても知りたいフレーズだったみたいでさ」

「誰だ、それ?」

 ここで明の知らない人物を口にするのも、普通に考えれば、昔馴染みである相手を傷つけてしまう言動になってしまうかもしれない。

 しかも別の女の子であることを隠している。

 それでも晴太は臆面もなく言ってのけた。

「郷田さんは知らない人だよ」

「チッ、やっぱあだ名で呼んでくれねえのかよ……」

 悔しそうに唇を噛む明。

「ハーゲ! デーブ! バーカ!」

 罵倒しながら、明は晴太の横を通りすぎる。

 晴太は幼児期からの顔馴染みである間柄として、いかに明の期待に沿えてなかろうと、これだけは言っておこうと思った。

「ありがとう!」

 罵詈雑言を言い放った相手にも関わらず、晴太は礼を述べた。

 こんな自分の都合を優先させるような振る舞いに、明の顔が赤く染まっているのも、恥じらいからではなく憤激しているからに違いない。

 彼女の言うバカ以外は、今の晴太とは真逆のことを言っている。明の心を覗くことができず、罵ることに強気なのも晴太の方が幼い頃からの約束を違えたからだろう。

 晴太のこの短時間で見せた身勝手な態度に、明も感情を露見させるか否か、葛藤があったのだろうか。

 それは晴太の陳謝に、一瞬立ち止まった明が横顔を見せたその表情と言葉で、どことなくわかった。

「また知りたい曲あったら教えてやる! じゃあな、バカ野郎!」

 顔をかっと火照らせたのは、憤怒からくるものか、照れくささからくるものか。その答えは明の台詞が物語っている。

 最後に余計な一言が加わっていたが、明の思いを台無しにしてしまった自分には相応しいに違いなかった。


 近所の古びたレンタルショップに立ち寄り、ビリー・ジョエルを探した。自分の生まれた年代よりも以前のアーティストである人物とはいえ、ヒットをいくつも飛ばし、ある世代には懐古的な気分を味わわせるというそれは、陳列されていてしかるべきものだったのかも知れない。

 サングラスをかけたビリーらしき男性を中央に、灰色っぽい感じのジャケットはベストアルバムで、目的の曲も収録されており、早速借りることにした。

 帰宅後、父が生前購入したノートパソコンに取り込む。二枚組だったので、それをこのまま渡してもいいものかわからず、ついでにということで、二枚とも焼くとすぐに幸美の病院へと向かった。

 部活動を決めかねていた晴太は、特別、取り組むべき物事はなく、真っ直ぐに幸美の病院へと向かった。

 夕刻になりかけた町の景色を車窓から眺め、オレンジの光に目を細める。

 病院につくと、面会時間ギリギリだったが、受付の係員は通してくれた。

 CDという媒体は古かった。音楽機器に関しては、この間来訪したとき、ベッドの横に小型のCDプレイヤーがあったので、CDともう一つ、一通の手紙を幸美へと手渡すつもりだった。

 病室に入ると幸美はベッドでうとうとと眠りに就いていた。

 邪魔しないようそっとCDプレイヤーの上に手紙とCDを置いて速やかに病室を出た。


 いけない! 

 はっと目が覚め、幸美はいつもの病室でうたた寝している自分を責めた。

 こんな時間に寝て、消灯時に眠れなくなったら危うい。

 ふと、横にあったCDプレイヤーの上に見慣れないものがあるのを見ると、それを手に取った。

 白い盤面に、ビリー・ジョエルとマジックペンで走り書きされ、一通の手紙もあった。

 茶色い横長の封筒から手紙を取り出すと、見覚えのある筆跡で文章が書かれていた。

 ――はれくん、来たのかな?

 もうあまり関わらないで欲しいと自分が言ったからか、顔は会わせずに帰ってしまったということか。

 手紙にはこうあった。


〈こんな形で本心を伝えるのも気が引けましたが、口頭では幸美の意に反すると思い、手紙という方法で最後に伝えておきたいことを書きました。

 俺としては幸美が事故になるまで、(なったあとももちろん)幸美に好意を抱いていました。もしかしたら幸美も俺に気があると思っていましたが、俺の勘違いだったっていうことでいいでしょうか。

 友達にこの前言っていた曲のことを尋ねたら教えてくれました。CD、よかったら聴いてください。幸美とはもう関わらないようにするため、これが最後の見舞いということになります。ただ、やっぱり気になるのは幸美の怪我なので、早く完治できればいいなとの願いも込めて書いています。

 俺の恋は終わりましたが、修復したいという気持ちもほとんどなく、それがなぜなのか自分に問いかけてもわかりません。幸美の思いを大事にするなら、俺の気持ちなんてものはなくてもいいのだと思います。個人的には幸美に新たな恋人でもできたのではと予想しています。幸美が言っていた曲を口ずさむ人がもし幸美の想い人なら、置いていったCDも一つの手助けになれればなと。

 今までありがとう。

 完治したらまた学校で会うかもしれませんが、そのときは普通に友達として挨拶くらいはするかもしれません。幸美の表情を見ながら判断していきます。どうかお元気で。

 浦和さんは時々顔を出すかもしれません。あの人、中三の時の俺たちとの繋がりをまだ保っていたい人で、その時の責任感もある人だから、幸美に会いに行くと思います。浦和さんによろしく〉

 ふう、と手紙を読み終えた幸美は小さく息を吐いた。

 浦和が来ることはいいことではあるし、晴太を嫌っている訳でもない。

 自分に好きな人ができたからだし、そんな自分に晴太が逐一様子を見に来てもらうことが申し訳ないからというのもある。

 だから、晴太からの手紙は自分にとって合理的というか、やはりわかってくれている人なんだなと、幸美は静かに思うのだった。


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