第一章 かしましい⑥

 月曜日になり、また学校が始まった。

 晴太は一人で登校してくるや否や、緑色のフードを被った何者かに、教室の扉の前を塞がれた。

「がおー!」

 スカートを履いているからして、女子に違いない。

 白ワイシャツの上に緑色のパーカーを着て、フードの紐も目一杯絞られ、一瞬誰だかわからなかったが、どうやら里音のようだった。

 がおー、というからには、とうとうこの目で美少女による怪物の演目が見られるのかと思いきや、造形は至ってシンプルで、引き絞ったパーカーのフードが頭部をくるみ、シンクロナイズドスイミングの選手のような丸い頭をして、目付きは鋭く晴太を見つめている。

 こういう怪物なのだ、と無理矢理理解しようと試みるが、どうも彼女の端正な顔立ちに相まって見える愛着さなどは不釣り合いな印象を受ける。

 そんな晴太の心持ちを知ってか知らずか、当の相手は爪を立てるように指を開き、晴太の無反応を気にとめる様子もなく、怪獣の真似を演じ続けている。

「フロムサト?」

 思わず里音を凝視してしまった。ようやく喉から出かかっていたその名を述べ、相手の容姿や所作など様々問い質したいところだったが、相手の女子高生は、小首を傾げて見せた。

「フロムサト? フロムサトとは誰だがお。そんなやつ知らないがお」

 ――参ったなあ……。

 困惑する晴太。眉間にしわを寄せたのが、相手に心情を読ませてしまったらしい。里音からこう切り出された。

「この間はありがとがお。玉ちゃんはああ言ってたがおが、わたしは……」

 怪獣になりきれていない様子だが、里音は思いを口にした。それは彼女の切実な心根を露見させていたのかもしれない。

「あたしは、玉ちゃんの味方だから……。応援するし、何か手伝えることがあったら……」

 恥ずかしそうに視線を横へ投げ、フードを外すと、

「遠慮なく言ってほしいがお!」

 ぷいっとそっぽを向いて、教室に入っていった。

 それに続いて晴太も教室に入ると、寸陰時が止まったように、クラスメイトたちは静止していたがすぐに談笑を始めた。

 ひそひそと話声が聞こえてくる。

「あの清川さんを?」「あいつどうやって口説いたんだ?」「清川さんの言いっぷりから、一度ふってる?」

 羨望の眼差し、陰口と、所々中傷も聞こえてきた。

 入学式以来の見えない渦がまた発生しようとしているようにも感じたものの、何とか事なきを得られた。

 それも直後に朝礼の鐘が鳴り、担任が教室の戸を開けて入ってくると、皆自分の席へと戻っていったからだ。窓際の列の一番前の席だった晴太も、いそいそと席につく。

 その後も、授業中や休み時間など妙な視線を感じていた。

 昼食を終えた頃になると、多くの不可解な視線は成りを潜めた。図書室や運動場、体育館へと赴く者が多数だったためだろうが、一人、中央の列の後方で、イヤホンをして音楽を聴いている男子生徒がいた。

 その横の列、壁際の机の並びには明の姿もある。

 イヤホンをした男子生徒とは少し言葉を交わしたことがあった。体育の授業のときに組んでストレッチなどをした仲だったので、思い切って声をかけることにした。

「聴いてる途中でごめん」

「なに?」多少苛立っているのを感じた。昼寝と音楽鑑賞という楽しみを邪魔されるのが嫌なのは当然だろう。

「えっと、笹山くんだっけ? 音楽詳しそうだね?」

 イヤホンを外した笹山は、自分がそんな目で見られているとは思わなかったのだろうか。少し頼られることに嬉しそうな顔をし、

「まあ多少はな……。メタルとか好きだぜ?」

「メタルが主に詳しいって感じかな?」

「まあ、そうだが。気になるフレーズがあるなら聴いてやってもいいぞ」

 ありがとう、と礼を述べ、幸美の歌っていたメロディをそらんじた。

「メタルって感じじゃなさそうだな……」

 好みの音楽でなかったからか、残念そうに、というよりは、しけた面をして、

「わりぃ、俺は知らん……」

 イヤホンを耳に戻して、机の上で腕に埋もれ寝てしまった。

「バーカ、クーズ、ハーゲ」

 またあの人物からの迫害を受けた。

 笹山との一部始終を盗み聞きしていた様子の明が、そう罵って見せたのだ。

 見るとそこが定位置であるかのように、ヘッドホンを首にかけていた。

「ご、郷田さん……も、音楽詳しいのかな?」

 入学式で、同じクラスになって以来、初めて声をかけた気がする。幼少の頃からの顔見知りである明とは中学も同じだった。

 ずっと近くにいたような気のする明に、久しぶりに話かけた。

「詳しいっていうか……」

 顔を赤らめているように見える。明はあまり男女共に会話しているところを見たことがない。小、中の頃とは違い、人と話すのが苦手になってしまったのだろうか。

「アタシより詳しい奴は山ほどいるだろうぜ? でも、あんたがさっき口ずさんだ曲は知ってる」

「よ、よかったら教えてくれないか?」

 晴太は強張った顔をしつつそう述べた。心の距離感が離れてしまっていた、昔馴染みの女子にそう話しかけるのでさえ勇気が必要で、顔の強張りはそこからきている。

「構わねえが」と言って明は席から立ち上がると、

「ちょっと付き合え」

 明は親指を肩の後ろへ示した。

 どういうつもりだろうか。あの逐一罵ってくる粗暴なイメージに色濃く塗り変わってしまった明が、改まったように晴太と話したいという。

 心を読もうとしたが、歩きながら一心に集中しなければ読むこともままならず、もし自分が超能力者だとしても、まだまだ修練に身を捧げなければ、自由にコントロールはできないようだ。

 別段、読めなくとも……。

 そんな特殊な力がなくても、ある程度までは推し量れる。今も、階段を降りて廊下を歩いている道順からして、中庭の自販機を目指しているに違いない。

 中庭に到着し、やはり自販機に向かうと、明は得意気な表情で、

「おごってやる。好きなの選べ」

 小銭入れをブレザーのポケットから取り出して、硬貨を取り出す。

「いや、なんか悪いよ。教えてくれって言ったの俺だし。そこまで貧乏って訳でもないから。何なら、喉を潤すのは郷田さんだけでも……」

「あんたのお母さんのこと知ってるんだぜ?」

 弱点にも似た、やわな部分をつつかれたように感じた。

「親たちでまだ繋がりはあるみたいでさ。あんたんちに行くと、おばさんが結構疲れた様子で出てきてくれるみたいで。その時、あんたのお母さんの事情を母親づてで聞いてるんだよ」

 無言でいると、明は五百円硬貨を自販機に入れ、ほら、と顎をしゃくった。

 自販機のある中庭には生徒の姿がちらほらとあった。中には同じクラスの人間もおり、明と一緒にいたのを見られたとなると、いやが上にも注目されそうだった。

 明もそれが嫌だったのかどうかはわからない。

 それに対して気を利かせたつもりかもしれなかった。中庭から出、昇降口の端で明と立ち話することになった。

「まず例の曲は、ビリー・ジョエルの『素顔のままで』って曲だ。原題は『Just the Way You Are』。ある世代にはストライクな曲だな」

 小型の音楽機器を手で動かしながら、明はヘッドフォンを晴太の耳にかけた。

 フェードインから始まる、キーボードの音色は、優しく語りかけるかのような趣がある。その旋律は、まさしく幸美の歌った曲だった。

「ありがとう。これで謎が解けたよ」

「リリースは七十七年。ヒットチャートで三位を記録。前妻に送った歌らしく、離婚後はしばらくコンサートでもセットリストに入れなかったって話だ」

「七十七年て言うと五十代とかそれくらいの年代の人が聴くのか?」

「いや、アタシが知ってるくらいだ。ネットとかでたまたま知ったとか、元々有名な曲だし、CMでも流れていたからな。年代はあまり関係ねえだろう」

「いい曲だとは思うが、ちょっと訳ありな曲なんだな」

「誰から聴いたんだ?」

「ちょっとした知り合いからだ。って言うか明も……」

 この時、相対する幼馴染みを下の名前で読んでしまったことに不自然さを感じない自分がいた。

「ご、ごめん。郷田さんもどこで聴いたんだ?」

「親父がレコード収集に余念がなくてな……。って言うか、呼び直すなよ」

 悪罵を浴びせるときの態度と同じように、明の後半の言い方は語気を強めていた。

「昔から下の名前で呼びあってたじゃねえか……。違うか、晴太? いや……」

 明は頬を赤くし、

「ハーレー」

「アッキーだっけ?」

 晴太は明を通り越して見える廊下の影に、外から陽光が漏れているのを見かけた。

 今とは違う関わり方だった、明こと、アッキーとのあの時の関係は、この日差しのように煌めいて、透明で、儚かったように思える。

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