第一章 かしましい④

 翌日の日曜日。千梨と見舞いの約束をしていた晴太は、朝食を平らげ、食器を片付けると駅へ向かった。

 駅にはすでに千梨がいた。

 肩口のところが膨らんだ白いワンピースを着て、長い黒髪はポニーテールにしている。

 ――女を取っ替えひっかえして遊んでるみたいだ……。あんまり喜ばしいことじゃないな……。

 思わず自嘲しかけたものの、笑顔で近づいていくと、頭に千梨の声が響いた気がした。

 ――嫌い、ほんとに嫌い。

 千梨は笑みを見せ、晴太に声をかける。

「今来たばかりよ」

「聞いてないのに……」

 尋ねようとしていた心積もりを読まれたように感じ、苦笑する晴太だった。

「玉本くんなら、待った? って聞いてくると思ったから。付き合いも長いし、それくらいの予測はできるわ」

 ははは、と見抜かれたことを誤魔化そうと笑みを浮かべていると、

「今来たばかりでよかった。待たせていたら悪いもんな、とか言おうとしてない?」

「浦和って超能力者か何かか?」

「違うわよ。これもあなたなら言うと思って」

「見舞いに行く頻度だって、まだあるかないかくらいだろ……。四六時中会ってるカップルならわかるけど。そんな全部わかってるみたいなこと言われると、色々と負かされた気分だな」

「そう、それならいいわ。存分に敗北を味わうことね」

 急に千梨の顔つきが変わった。ふざけ半分なのは千梨の笑みを含みながら、嘲ける様を見ていてわかる。

 ――俺との会話、楽しんでる……? そのわりには、あの声が気になるんだよな……。

 やはり他人の心の声が聞こえるという能力は、特異体質なものではなく、病から来る症状のようなものだろうか。

「行きましょう」

 と千梨が言うと、晴太は彼女の後ろから付いていった。


 私鉄に乗り、幸美の入院している病院の最寄り駅まで向かう。

「おばさんの調子どう?」

 隣り合わせで座り、横から千梨が問いかけてきた。

「まあ、ずっと働いてないからね。外にもあまり出ないし。ほとんど家にいるよ」

「二人暮らしだものね。バイトしたりご飯作ったり、ほんとすごいなって思うわ」

 玉本家は母子家庭だった。

 二年前に父親ががんでこの世を去って以来、そのショックからか心が病んでしまった母とは、生活保護を受けつつ、抽選で当たった都が管理する団地で暮らしていた。

 息子である晴太は、休日も滅多に遠出することはなく、アルバイトをこなして、生活費の足しにしていた。その分、受給額を減らされることもあるのだが、役所は目をつぶってくれているようだった。

「最近、ずっとテレビか何かを観てる感じなんだ」

「何のテレビ?」

「いや、知らない。あまり互いの趣味に顔を突っ込むこともしないようにしてるもんで」

「そう……」とため息混じりで千梨は言うと、

「やっぱり玉本くんの方が勝ち星多いわね。言動を先読みしたくらいで、勝った気になるのは恥と見るべきかしら」

「あんまり気にしなくていいんじゃないか? それより幸美、どうしてるかな……。入学とか卒業とかでどたばたしてる最中の事故だったから、あまり気にかけてやれなかったし。悪いことしたな」

「ちゃんとあの子の話を聞いてあげましょ。玉本くんだって、色々話したいことあるんでしょう?」

「まあ、少しはね……」

 曇顔になる晴太。幸美のことが気になるのは確かだが、晴太には幸美に対して罪悪感があった。

 正直な気持ちが顔に出たからか、頭の奥に千梨の声のようなものが聞こえた。

 ――キモい顔。

 先ほど駅前で会った直後、千梨が先読みしたのは、彼女なりの優しさなのだろうか、と今になって思う。

 心を読んだというよりは、気を使って種々考えを巡らせた果ての、親切心だったようにも思える。

 そう感じられたのも、このとき聞こえた千梨の心の声のようなものが、委員長という意識の高いイメージのある役職を勤める彼女にも、他の人と同じく、心情と表情、仕草に食い違いがあることも十分あり得ると感じたからだ。


 電車に乗ること三十分。駅からバスに乗り、数十分が経ち病院前で降車すると、大きな白い病院の建物が視界を覆う。

 受け付けを済ませ、幸美の部屋まで行くと、車椅子に乗ったまま読書していた。

「幸美……」千梨が幸美の後ろから声をかける。

 幸美は振り返り、二人の姿を見ると、途端に目の色が変わった。

 車椅子をくるりと方向転換させた幸美はぽろぽろと涙粒をこぼし、そのまま千梨と抱き合った。

 幸美の顔を見るのはだいたい一ヶ月ぶりか。

 外出することがなければ、日焼けすることもないだろう。衣服から所々窺える幸美の肌は真っ白で、唇も薄く白に近い。涙が伝う頬は頬骨が少し出てはいたが、病んでいることを感じさせるほどやつれてはいない。髪は仄かに茶色いショートボブで、時折その首の付け根辺りにある短く切られた髪を見ると、母親の髪型と似ているなと思った。

「ありがとう、ちいちゃん……。はれくんも……」

 いや、と晴太は破顔した。


 二ヶ月ほど前。

 春休み中のことだった。

 卒業生たちが新たな門出を迎えるに、わずかながらの休息ともいえる時期。

 受験による緊張感だとか、将来への不安感、あるいはそれに伴った妙な憂いの感情など全てを衣替えしたかのように、晴太や幸美、クラスの友人たちなどの表情はすっきりしていたような気がした。ある種の解放感や、達成感などもあっただろう。卒業式を迎えたとき、晴太の友人たちの中にも目に涙を浮かべる者がいた。

 受験前からいつも一緒に帰路についていた幸美に告白しようか迷っていた晴太は、同じ高校に進学するのであればまだチャンスはあるだろうと先伸ばしを考えていた。

 しかし運命はやってきた。

 いつもは住宅地の間の道を帰っていたが、住宅地から出た広めの道端に、たい焼き屋ができ、幸美がそちらの道を行こうと誘ってきたのだ。

 たい焼きを一個ずつ買い、その前の交差点で信号を待っていたとき、暴走した高齢者ドライバーの乗った車が、幸美をはねた。

 寄り道することがなければ、幸美は両脚を骨折することはなかっただろう。

 晴太は行動を共にしていた自分を責めるより、行動を起こすことが大事だと、当初から幸美を献身的に支えようと思っていた。

 春休みの後半、面会が可能となり、一度会いに行ったきり、新しい学校の営みに慣れるまで、幸美への見舞いを怠っていた。そのことに対しても、晴太には罪悪感があった。それはもしかしたら、千梨も同じだったのかもしれない。

 目の前で落涙する幸美を見て、その感情が晴太の胸の中で大きく揺さぶられていた。

「よかった。もう来てくれないんじゃないかと思って……」

 ベッドに座る幸美の横で、晴太と千梨は椅子に座っていたが、千梨は飲み物を買ってくると言って出ていった。

 それもある種の気遣いだろうか。

 恋仲だった二人を残すことで、機会を与えてくれたとも考えられる。

「いや、本当にすまなかった。間が空いたのはちょっと俺たちも進学したばかりでドタバタしてたもんで……」

「わかってる。お見舞いに来てほしいってのも、私のわがままみたいなものだから」

「わがままじゃないさ。俺たちが間を開けちゃったのが悪いんだよ……」

 ううん、と幸美は首を横に振り、

「自業自得よ。あの時、たい焼き食べに行こうって言ったの私だったんだから……」

 久しぶりで、幸美の性格を忘れてしまったのだろうか。幸美がやけに否定的な言葉を口にするようになった気がした。

 千梨がペットボトルを三本持って帰ってきた。

「ありがとう。いただきます……」

 幸美は言って、キャップを開け緑茶を飲む。晴太と千梨も喉を潤した。

 談笑はしばらく続いた。最中、幸美はある問いかけをした。

「最近気になってる曲があって……」

 うん、と晴太と千梨は相槌を打つ。晴太はそう述べる幸美の横に、小型のCDプレイヤーがあるのを見つけた。

「こんな感じなんだけど……」

 鼻で幸美は短く歌った。

 キャッチーさはある。どこか甘く、恋人と車の中で聞いても間違いではないような……。

「どこで聴いたのそれ?」千梨が問いかける。

「看護師の人が、前に鼻歌歌っててそれで……」

「看護師の人が気になるの?」

 幸美はうん、と晴太から目を反らし、

「男の人でね。三十代くらい」

 へえ、と千梨は感心していた。

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