第一章 かしましい②

 屋上は高いフェンスに囲まれ、晴太としても時々訪れることもある場所だ。しかし来訪しても、素行の悪い男子たちのたむろする場所になってしまう場合もあり、そんな場所で女子と二人でいたら、茶化されそうな気がしてならなかった。

 階段を登り、開け放された屋上の扉の奥を見て晴太は安堵の息を漏らした。

 突き当たりに、茶髪の髪を肩まで生やした里音の後ろ姿を一人だけ見かけたからだ。

 曇天の下で、晴太は緊張の面持ちで、里音に近づいていく。

 里音が気づいたらしく、振り返った。

 いつも見かける彼女と同じだ。整った顔立ちだが、丸い小さな鼻はどこか愛嬌もある。

「来てくれてありがと!」

 言って、両手を後ろで絡ませる里音。

「玉ちゃんと少し話したいことがあって」

「話したいことって?」

「あ、その前に……」

 里音が腰を屈め上目遣いで、晴太の顔を覗き込む。

「呼び方、玉ちゃんでよかったかな?」

 実を言うと、入学以来まともに里音と話したことはなかった。里音がこうして配慮してくれるのも、彼女が気の利く性格からだろう。晴太としても悪い気はしない。

「別に構わないよ……」

 と、薄く微笑む。「清川さんのことは何て呼べばいい?」

「あたしのことはフロムサトでいいよ」

「フロムサト?」

「フロームサトウってテレビか何かで聞いたことない?」

「ああ、薬の会社か何かだっけ?」

「そう。フロムサトウ」

 流暢な英語を話すように強調した里音に、思わず晴太は苦笑した。里音はその表情に意に介さずといった様子で、それでね、と切り出した。

「話したいことというか、お願いがあるんだけど……」

「な、何かな?」

 美少女からのお願いと聞いて、思春期の男子が何も想像しないはずがない。しかし晴太は、空想するのを避けた。ドライな感覚で相手をするつもりでいた。

「あたしを刺してみて!」

「え? 刺すって?」

「こう手を持ってきて……」

 里音は臆面もなく、晴太の手を掴み手刀を作ると、その先を自分の胸に押し込んだ。

「グサーっ! いってーっ! あははは!」

 思わず口を開けて、里音の胸を凝視する晴太。

 何をしているんだ? 何がしたいんだ? 何をやっているんだ?

 次々と疑問が湧く。里音は笑ったまま、

「ごめーん。これはちょっとした冗談! 本当に言いたいことはね……」

 晴太は顔を赤く染め、里音を凝視し続ける。

「今度、一緒に映画観にいかない?」

「え、映画?」

 尋ねる前に、晴太の胸中では軽いパニック状態に陥っていた。

 ――映画って……デートのお誘いというものだろうか?

「ちょっと観たい映画があるんだ。『ささやかなラブストーリー』ってやつ」

「ああ、主演の二人が最近注目されてるっていうあの……」

 そうそう、と里音は首肯した。

 晴太は承諾し、今度の土曜にデートをすることになった。

 話が終わると二人して階段を降りていく。里音の後ろ姿を見ながら、デートをすることになってしまったことに少々、憂鬱になった。

 ――交際申し込まれたら、断ろうと思ってたんだけどな……。

 晴太の胸の奥に、またあのショートボブの髪をした女性が浮かんだ。

 ――タイミングを見て言うしかないか……。

 ふと腰の辺りにいつもの感触がないのを確かめると、スマートフォンを教室に忘れたことに気づいた。


 放課後の教室に、スマートフォンを取りに戻ると、金髪のショートヘアーの女子生徒が、机で伏して寝ていた。耳にはヘッドホン。しゃりしゃりと音漏れが気になったが、教室の外で里音を待たせ、自分の机まで歩いていくと、

「デーブ! ハーゲ! だっせえ!」

 と悪罵が聞こえた。

 ――またいつものか……。

 そう言い放ったヘッドホンの女子を横目で見てみる。

 病なのか奇異な力なのかはわからないが、晴太も全ての人の心の声が聞こえるわけではなかった。

 それはこの罵ったショートヘアーの少女、郷田明も同じで、特に彼女の場合、障壁を造るかのように、次々と悪口を言い放ってくる。耳なじんだ悪口というものは存在するかもしれないが、明のこうした行為によって見えない壁が作られ、里音や千梨のように、心の声が聞こえてくるということはなかった。加え、なぜこうも悪口を浴びせられなければならないのか晴太は理解に苦しんだ。

 金色のショートヘアーは女子にしては短く、ボーイッシュといった感じである。つり上がった目は晴太への敵対心をあらわにしている。放課後まで残って何をしていたのか、首にかけたヘッドホンから、曲に聞き入っていたところ、帰る時間にまでなってしまったということだろうか。

「アホ! ゴミ! カス!」

 明の罵詈雑言はまだ止まない。スマートフォンを机の中から取ると足早に教室の入り口まで戻った。

 廊下にいた里音が教室を覗き、

「ヘッドホンだせえ! ぼっちかわいそっ!」

 晴太の手を掴んだ里音は、早歩きで教室から離れていった。


「あんなの相手にしちゃダメだって」

 学校の敷地から出、道を歩いていくと里音がそう言った。

「相手にはしてないけどな……。いやあ、あれでも幼馴染みでさ。小、中とあんなこと言う奴じゃなかったんだけど。春休み前くらいから、ああいう態度になったんだよな……」

 ふうん、と里音は返し、

「あいつのこと好き?」

 言って、晴太を見つめた。

「あ、いや、まあ、ほぼどうでもいいかな」

 苦笑する晴太だった。

「土曜でいい? 映画……」

 里音のその台詞は、自分たちの関係を強調するような言い方に聞こえた。明に当て付けたいのだろうか。

「構わないよ。三時くらいまでなら一緒にいられる」

「三時以降何があるの?」

「バイト」

 ふうん、と里音は感心するように言うと、

「何のバイト?」

「スーパーのレジ打ち」

「どこのスーパー?」

「隣町の、健康ランドの近くにあるじゃん」

「あそこか……」里音は遠くを見るように言った。

「悪いけど、三時以降は難しいから」

「うん、いいよー!」

 里音は微笑んだ。


 翌日の金曜日。

 最初の授業が始まる前に、千梨は里音に声をかけた。

「玉本くんを狙ってるならお勧めはしないわ」

「よくわかったね。狙ってるって」

 晴太への恋慕を隠すこともできるだろうに、里音は本心で千梨と話しているようだった。

「玉本くん、ちょっと心に重い傷を負ってるから……」

「昨日言ってた幸美さん?」

「聞いてたの?」

「廊下で話してるの聞こえたから……。で、幸美さんのこと好きなの、玉ちゃん?」

「そこまでは私もわからないわ。ただ彼には近寄りがたいものがあるから、もし気があるなら、慎重になることをお勧めしとく」

「何かあるんだね。玉ちゃんの過去に……」

「誰にもあるかもしれないけど、玉本くんに対しては、気を使ってほしいの」

「なにそれ。昔馴染みを自慢したいの?」

「違うわ……。幸美さんに対して、何か思うことがあるのであれば、そのことに首を突っ込むのは、玉本くんにとってはあまりよくないことなのよ」

「ま、あたしなら、玉ちゃんの癒しになれるよう頑張るけどね!」

 ふう、と千梨は小さく息を吐いた。

 忠告しても、彼女ならどのみち地雷を踏みそうだ。

 チャイムが鳴り、千梨は自席に戻りながらそっと晴太の様子を窺った。

 今日も誰かからの声かけを拒否するかのように、晴太は机の上で腕の中に埋もれていた。

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