第一章 かしましい①

 高校への進学を勝ち取ってからというもの、受験勉強のしすぎもあってか、寒さと暑さの極端な気温の変化は、玉本晴太の体を疲れさせた。

 眠気に加え食欲もなく、季節の変わり目のわがままな気候に振り回されていると、勉強どころではなくなってしまう。

 公立砂鴨高校に入学できたのはよかったが、初めは自分の存在感が気になった。無事、進学を勝ち取っても自分の行いによっては中退、あるいは引きこもりになってしまう可能性も捨てきれず、四月はどうにも肩ひじが張って仕方がなかった。

 一カ月を経て、どうにか目立たない位置で落ち着いたようだ。クラスでも素行の悪い連中に目を付けられるわけでもなく、かといって意識の高い人々から、憐れむかのような視線や、面倒見のよさを感じさせる温かい声掛けなど今のところなかった。

 机に両腕を置きそこに頭を潜らせると、簡単な寝床の出来上がりだ。

 こうした密かな憩いを堪能できるのも、自分の立ち位置が無難な場所で落ち着いていることを物語っている。

 机独特の臭いの中で、惰眠を貪ろうとすると、耳朶に小さな声が触れてくる。

 ――玉ちゃん、眠いのかな……。

 活発そうな女子の声色だった。

 晴太は、またあの声か、と思わずにいられなかった。

 頭を上げ、声の主へと視線を動かすと、声の主は顔を背けた。

 声の主の周りには、女子が幾人か群がっている。

「駅前にカフェができたから、行ってみない?」

「いいねえ。いこいこ!」

「さっちーはどうする?」

 さっちーこと声の主、清川里音は、明るい口調で、

「あ、ごめーん、ちょっと用事あるんだー」

 とちらりと晴太の顔に目をくれると、すぐに戻し、

「また誘って。たまたま今日用事があっただけだから」

 うんうん、と断られても里音の周りに群がる女子たちは嫌な顔をしない。

 ――玉ちゃんに用があるんだー。

 晴太の耳の奥にその声が響いた。

 ――俺に用事ってなんだろう……。

 大体の結末は見えている。里音の声の雰囲気や性格などからして、恐らく色恋沙汰に関するものだろう。

 腕の中で自分の頭をもぞもぞさせ、眠気に身を委ねようとする。

 ところが今度はこんな言葉が聞こえてきた。

 ――嫌い……。ほんと嫌い……。

 その声を胸の内で発したと思われる女子生徒が、近づいてくる気配がした。

「玉本くん……」晴太を呼び掛ける、女子にしてはたくましい声色の持ち主へ、頭を上げ見つめた。

 濃紺のブレザーに、シックな色のプリーツスカートがこの学校の女子の制服だ。長い黒髪は腰の辺りまであり、白い肌と、細い眉に、薄い唇。極端な特徴はないが、彼女全体から発せられる雰囲気は、妙な鋭さがあり、晴太は自然と緊張感を抱いた。

「浦和か……。何か用?」

 呼び捨てにしたのも、彼女とは中学以来の顔見知りだったからだ。

「ちょっと手伝ってもらいたいことがあるの」

「手伝い?」

「プリントを職員室まで、半分……。お願いできる?」

 ああ、わかったよ……。と穏やかに返し、浦和千梨からの頼み事をこなす。

 教卓の上に積まれたプリントの山。晴太は無遠慮にその全てを腕に抱えた。

 途中、里音とおぼしき視線をちくちくと針で刺されたように感じながら、千梨が晴太の所作に目を丸くした。

「半分は持つから」

 と無理矢理、晴太の胸にあったプリントを多めにむしり取った。確かに手伝えとは言ったが全部持っていけとは一言も言っていない。

 教室から出ると、千梨は釘を刺すように、

「玉本くんが全部持っていったら、委員長が顎で使ったって、先生に誤解されるでしょ?」

 横目で晴太を見やる千梨。多少睨んでいるようにも見えた。

 不意に聞こえる誰かの声。

 ――嫌い。ほんとに嫌い……。

 誰のものか、晴太にはすぐにわかった。

 ――浦和、俺のこと嫌ってるんだな……。

 思いつつも、ではなぜ手伝えと言ったのかまではわかる由もない。

 高校の入学式の時、晴太はその現象に気づいた。

 体育館で整列した一年生の生徒たち。

 壇上で話す校長先生の話など、耳には入って来ない。

 つまらないから、とか、眠いからとかそんな定番な理由ではなかった。

 渦だ。

 晴太は渦の中に一人巻き込まれていた。

 生徒たちの独り言と思わしき沢山の声が、晴太の頭上で渦を描いているのだ。

 それこそ、眠いだの、だりいだの、話しなげえなどと言った、どうでもよく意味を持たない言葉群が、羽虫のように空中をさ迷って耳の中に紛れ込んでしまうかのようでもあった。

 それが納まったのは、入学式を終えてからだった。

 そして日が経つにつれ、声の群れは少なくなっていき、それが自然と自分の意思で聞こえてくるまでになった。

 それがなんの役に立つかはわからない。

 しかし里音や、千梨などの一部の人の胸中の声が聞こえてしまうのは五月になった今でも変わらなかった。

 プリントを職員室に届け、廊下を千梨と歩く。

「ありがとう。助かったわ」

 千梨が礼を述べる。晴太はとんでもない、と一言述べ、

「手伝いができてよかったよ……」

「玉本くんにお願いするのもどうかと思ったんだけど……。入学からひと月経ってもまだ他のクラスの人と馴染めてない部分もあって。玉本くんなら声かけやすいから、お願いしたというわけ」

「一応旧知の中だし、いつでも頼ってくれてもいいぞ」

 晴太が述べた直後、突如聞こえてきた、微かな声の響き。

 ――嫌い。ほんとに嫌い……。

 千梨の心の声を聞いても、晴太は眉一つ動かさず、彼女の次の言葉を待った。

 すでに教室の前にまで来ていた。

「相変わらず優しいのね……。それよりも、そろそろあの子の見舞いどうかしら?」

「ああ、幸美か?」

「そうね。色々あって一ヶ月くらい行ってないから」

「今度の日曜でいいか?」

「そうしましょう」

 快諾するような朗らかな言いっぷりだった。

 教室に戻ると、入り口の戸の脇にいた里音が、玉ちゃん、と名を呼んだ。

 そしてどういうことか、晴太の右手を掴み、横長の封筒を渡してきた。

「何?」と紙を指で挟んだまま、里音を見つめる。

 茶色に染められた髪は肩まで伸び、整った顔立ちと、大きな目は興味深げに晴太を見つめている。里音の香水の甘い匂いに、晴太は若干そわそわした。

 里音はクラスでも人気のある女子で、男女問わず気さくに接してくれる。

 テレビに映る量産されたアイドルよりも美人であることに違いはないと、男子の間ではそう彼女を評する者もいる。

 そんな里音が香水の独特な香りを漂わせながら、至近距離にいるとなると晴太の心も動揺せずにはいられない。

 余計な緊張感が晴太の顔にまで出てしまった。その表情は訝しげなものに映ったのかもしれない。里音はこそこそっと晴太に言った。

「今わたしたやつ読んどいて……」

 チャイムが鳴り、千梨と里音、晴太は各自自分の席へ戻っていった。

〈放課後屋上で会いませんか? 待っていますので、よかったら来てください〉

 窓際の最前列で、教員の目を盗み、里音から渡された手紙を読んでいた。

 その内容に、晴太は思わず絶句しそうになる。

 クラスでも人気のある彼女にお誘いを受けている。そしてそれはどうやら、告白を予感させるものだった。

 なぜ告白をするのでは、と思ったのかは、晴太が自意識過剰だとか、自分の容姿に自信があるだとか、またはナルチシズムに溺れた人間であるとかというわけではない。

 単純に自分の持っている非日常的な能力のせいだった。

 漫画や小説などのフィクションから拝借すると、いわゆる超能力というものに違いないが、幻聴の類いだという想定も容易く、ある心の病でもあるに違いなかった。

 声に反応し始めたのは、入学式からだった。だが病である可能性も否定しきれず、晴太としては半信半疑だった。

 たたんだ紙をポケットに入れると、

 ――よし、読んでくれた……。

 里音の心の声らしきものを感じた。

 他者からの好意。しかも美人の女子からのお誘いである。普通の男子高校生であれば心の中で、マーチングバンドの豪華絢爛なパフォーマンスが演じられるはずだろうが、晴太の心中はそうはいかなかった。

 ショートボブの女の後ろ姿が、一瞬脳裏を過った。

 ――清川さんには悪いけど……。

 晴太は断る気でいた。

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