第四章

 心労のあまり三日間の休養を取った愛里は、思いきって辞表を提出した。社長の娘が殺人事件を引き起こしただけで大問題であるのに、愛里がその犯人の友人であり、しかも縁故採用で入社したという事実が、またたく間に社内に広まってしまったのだ。

 周囲の冷たい視線に耐えながら引き継ぎの業務を済ませた愛里は、事件の十日後に職場をあとにした。残っていた有給休暇を最後に消化したため、書類上の退職の日付は、事件の十五日後である。

 実家に帰るつもりは微塵もなかった。両親の反対を押しきり、再度、都内に新たなる職場を求めたのである。そうまでして久しぶりの就活に気合いを入れる愛里だからこそ、生活費やアパートの家賃などを両親に頼るわけにはいかなかった。貯金を崩すことは避け、コンビニエンスストアのアルバイトで、再就職するまでの必要経費を稼ぐことにしたのだ。

 有給休暇消化中に面接を受けた愛里は、事件後、三週間と経たずにアルバイトの仕事を始めていた。ふるさとでの経験を活かした仕事ぶりは、初日から高評価だった。

 そんな愛里が堀口から電話を受けたのは、アルバイトを始めて一週間後の、木曜日だった。午後一時を過ぎた頃だ。

 愛里はアルバイトの明けであり、コンビニエンスストアのロッカーで着替え終えたばかりだった。といっても、店員用のジャケットを脱いだだけで、トレーナーとジーンズは仕事着として身につけていた自前である。

 愛里がスマートフォンを耳に当てると同時に、堀口が切り出した。

「こんにちは、宮下さん。今、バイト中?」

「こんにちは。えーと、バイトが終わって、今からアパートへ帰るの」

「そうか。あの……来週の木曜日もバイトかい? それとも就活で面接とか?」

「バイトは休みで、面接もないけど」

 バイトが休みなら面接を受けたいのだが、あいにくと予定はなかった。

「なら、ちょうどよかった」

 その言葉にデリカシーの欠片も感じられず、愛里はすぐに抗議する。

「よかった? こっちは必死なんだよ」

「いや……そういう意味じゃなくて」

「どういう意味よ?」

 愛里は口を尖らせた。

「来週の木曜日に有給休暇が取れたんだけど、一緒に墓参りに行かないかい?」

「お墓参り……って?」

「坂田の葬儀には参列できたけど、流海と柿沼は密葬だったし……三人の墓参りさ」

 告げられて、愛里はようやく合点がいった。バイトを始めただけではなく、就活も同時に進めていたため、三人の墓参りまでは意識が行き届いていなかったのだ。

「あたし、うっかりしていた。お墓参りに行かなくちゃならないのに。恥ずかしい」

 やはり流海がいないとだめなのだ。どうしても何かが抜けてしまう。

「仕方がないよ。今の君は、やらなきゃならないことが多すぎるんだ。恥じることなんて、まったくないさ」

「けど、甘えてはいられない。死んだ流海に叱られちゃう」

 流海に頼りすぎていた自分を疎ましく思った。今後は真の社会人として生きていかなければならないのだ。

「宮下さんの気持ちは、ぼくにもわかるよ。それに、流海はいつだって宮下さんを気にかけていたし。ところで……来週の木曜日なんだけど、どうする?」

「うん、行くよ。じゃあ、何時の電車にする?」

「レンタカーを借りることにしたんだ。それで行こう」

「堀口くんは車の免許証を持っているんだったね。けど、レンタカーなんて借りる必要があるの?」

「お互いに実家にも顔を出さないとまずいだろう。そうなると、墓参りはかなり遠回りだよ。しかも、流海の墓だけは場所が別だし。……ただし、ぼくは日帰りだよ。仕事の都合で、次の日はどうしても休めないんだ」

「そうか、流海の家の菩提寺は別だったね。それにしても、実家か……寄ったとしても、あたしも日帰りだよ」

 母の長話に付き合わされるのは、できれば避けたかった。もっとも、父は出勤のはずである。それだけでも気は楽なのだが、父は、愛里が実家に寄る、と前もって知れば会社を休むかもしれない。両親の小言は覚悟のうえで、いきなり顔を出すのがよいだろう。当日に母の出かける用事が入っていれば、なおのこと幸いなのだが。

 ふと思い出した話題を、愛里は口にする。

「そういえば、流海のお父さんって、社長を辞任するんだってね。昨日、テレビのニュースでやっていたよ」

「ああ、ぼくもニュースは見たよ。やっぱり世間体ってあるんだろうね。それに流海は一人娘だったし、ショックが大きかったに違いない。野島社長は、単身赴任というか、平日は都心のマンションにいたみたいだけど、今後は自宅でゆっくりするんだろうな」

「本当に、ゆっくりしてもらいたいね」

 流海の父には世話になった愛里だが、流海の葬儀が密葬だったため、あの事件以来、まだ一度も会っていない。いずれは機会を作ってきちんと挨拶しておかなければならないだろう。

「一人娘といえば、宮下さんも一人っ子だったよね?」

「うん」

「ご両親は、心配しているんじゃないかな?」

 一連の事件において三人の友人が死亡しているのに、親元を離れての独り暮らしを続けているのだ。両親が心配していないわけがない。

「そうかもしれないね。けど、堀口くんだって、それは同じでしょう?」

「ぼくのうちには出遅れの姉と生意気な弟がいるし、さすがの両親もぼくのことを心配している余裕はないんじゃないかなあ。それに一応、ぼくは男だもんな。ほとんど気にかけてもらっていないよ」

 堀口は笑いながら答えた。

「女性とは待遇が違うか」愛里も笑った。「そうだったね。お姉さんと弟さんがいたんだったよね」

 兄弟姉妹のいない愛里は、そんな家族構成が羨ましくもあり、また、一人っ子である気軽さを感じるのでもあった。もっとも、大好きな流海が自分にとって姉のような存在でもあったのは、疑う余地がない。

「じゃあ」堀口は言った。「当日の出発はちょっと早くなるかもしれないけど、明日の夜までに待ち合わせの時間をメッセージで送るよ」

「わかった。お願いね」

 通話を切ってスマートフォンをトートバッグに入れた愛里は、静かにため息をついた。

 慌ただしい日々に流され、悲しみや恐怖が、霧に包まれたように曖昧になっていた。だらしがない――と自責の念にかられる。

 もしくは、忘れようとしていたのかもしれない。どうにかすれば忘れられる――なぜか、そんな気がした。あまりにも凄惨すぎた、マンションでのあの事件を。

 柿沼は、首や胸、背中などを十カ所以上も刺されて死んでいた。凶器は、柿沼の遺体の傍らに落ちていた文化包丁だった。鑑定の結果、凶器となった文化包丁は流海のキッチンにあったもの、とわかった。凶器から採取された指紋は、流海のものだけである。犯行の推定時刻は、月曜日の午後二時半前後と断定された。

 この事件の容疑者となってしまった流海は、パトカーがマンションに到着するのを見計らったかのように、数人の警察官の目の前に飛び下りた。コンクリートの歩道に全身を強く打ちつけ、即死だった。

 そして警察は、「柿沼大輔には、帰宅途中の野島流海を脅していた疑いがある」と発表した。エントランスやエレベーター内などマンションの数カ所に設置された防犯カメラによって、流海と柿沼とが並んで移動している様子が録画されていたのである。

 愛里と堀口は、それぞれ任意で事情聴取を受けた。骨董店での坂田茂雄殺害事件、今回の柿沼大輔殺害事件、その両件とも、事件当時の愛里と堀口にはアリバイがあり、どちらの事件にも直接的な関与のないことは証明された。

 もっとも、坂田が殺害された翌日から流海が自殺するまでの間は、一日も欠かさず、堀口は流海の部屋に寝泊まりしていたらしい。愛里はその事実を堀口本人に聞かされたが、堀口は事情聴取において警察にも伝えたのだ。通常なら疑われて当然の状況だが、堀口と流海とが半ば同棲のような生活をしていたことは、佐々木警部補と小野田巡査部長が事前に把握しており、追及はされなかった。

 事情聴取において愛里と堀口がくどくどと尋ねられたのは、自殺する直前の流海が残したメッセージの内容だった。特に堀口は、流海が柿沼に何かを脅し取られそうになっていた状況まで、彼女との電話で把握していたらしい。防犯カメラの映像と相俟って、事件当時の状況が、部分的ではあるが浮き彫りにされたのだ。

 問題は柿沼の犯行の動機だった。流海が柿沼を殺害したのはほぼ過剰防衛に違いない、と目されたが、柿沼が流海のマンションで手に入れようとしていたのは何か、そして柿沼は坂田と何を言い争っていたのか、それが未だに解明されていなかった。

 一方で、愛里には愛里なりの疑念があった。「手鏡」や「昭和の何か」を、堀口が知っている――ということである。

 だがそんな堀口は、警察の事情聴取では手鏡の件を口にしなかったという。三人の目撃者が耳にした「昭和の何か」についても、知らないと口述したそうだ。

 手鏡を持っている流海の姿を、愛里は見たことがない。流海が使っていたのはピンクのコンパクトミラーだ。それに、流海の部屋には、愛里の見える範囲に手鏡らしきものはなかった。例の手鏡が流海の部屋のどこかに隠されている可能性もあるが、たとえ警察が流海の部屋で手鏡を見つけたとしても、事件との繫がりを認識していないのでは、単なる遺留品として遺族に返還されるだけだろう。

「昭和の何か」がどういった品であるかについては、警察でさえ未だに判明できていないらしい。もし流海の部屋に昭和を彷彿とさせる古い品があれば、すぐにでもわかりそうなものだ。見ただけでは年代ものかどうかわからないというくだんの手鏡はどうであれ、少なくとも「昭和の何か」については、流海の部屋にはなかったに違いない。

 愛里は、堀口にはぐらかされ続けている「手鏡」の情報を得るため、インターネットで一連の事件に関する話題を検索してみた。その結果、問題の手鏡に関する情報は得られなかったが、坂田と柿沼がここ数年の間に幾度となく諍いを起こしていたらしい、という記事が目に飛び込んできたのだ。

 そんなばかな――と愛里は思った。この夏もいつもの五人で暑気払いを楽しんだのだ。

 とにかく愛里は、手鏡の件など、自分の憶測にすぎないと思えることは、警察に伝えなかった。それは、堀口の助言を受けてのことでもある。ただでさえ込み入った事情なのだから、確信の持てることだけを伝えるべきなのだ、と。

 しかし警察としては、たとえ憶測だとしても、事件に関する情報であれば入手したいに違いない。未だに、佐々木警部補から愛里の元に電話がかかってくるくらいだ。

 犯行の動機が解明されない限り、事件は終焉を迎えないのだろうか。

 愛里はかぶりを振った。

 早くすっきりさせたい、と願いながらロッカーの扉を閉じようとして、固まってしまう。

 扉の裏側に据えられた鏡の中で、もう一人の自分がこちらを見つめていた。

 鏡の中の自分が、何かを言おうとしている。

 照明で照らされているはずなのに、鏡の中の自分は闇に包まれていた。

 這い寄ってくる醜悪なもの――その気配を感じる。

「嫌!」

 愛里はロッカーの扉を強く閉めた。

 衝撃音が響く。

 幸いにも、この狭いロッカールームには愛里以外に誰もいない。

 愛里はトートバッグを持つと、逃げるようにロッカールームをあとにした。


 三田村敏広は定時で会社を出ると、駅とは反対の繁華街へと向かった。

 今にも泣き出しそうな空である。傘を持参しなかったことを悔やみながら、繁華街の手前にある児童公園に入った。

 公園に人の気配はなかった。ベンチに座っているスーツ姿の二人の男以外には。

 自分を呼び出した相手に相違ない――と悟り、三田村はベンチに向かって歩いた。

 ベンチの二人は三田村の姿に気づいたらしく、揃って腰を上げた。恰幅のよい五十過ぎらしき男と、中肉中背の三十歳前後の男だ。

 三田村が二人の前で立ち止まるなり、中肉中背の男が口を開く。

「三田村敏広さんですね?」

 二人はスーツの内側から警察手帳を取り出して提示した。

「わたしは警視庁捜査一課の佐々木――」

 恰幅のよい男が言いかけると、三田村は臆することなく二冊の警察手帳に顔を近づけ、記載事項に目を走らせた。

「佐々木雅彦まさひこ警部補と……小野田輝男てるお巡査部長ですね。ちゃんと確かめておかないとな。警察官を騙る詐欺なんてない、とは言えないですし。ましてや、あなたたちは私服だ。まあ、制服の警察官だって、安心はできませんけど」

 三田村の論弁が済むのを待たず、二人の刑事は警察手帳をスーツの内側に戻す。

「あんたね」

 若手の小野田が渋面を作ると同時に、熟練らしき佐々木が肩をすくめた。

「三田村さんのおっしゃるとおりです。今どきの詐欺は侮れませんよ」

「とはいえ、社交辞令っていうものもありますし」

 三田村は告げ、ビジネスバッグの中の名刺入れを取り出した。ビジネスマナーに則った作法で、佐々木に名刺を差し出す。

「これはどうも」

 佐々木は追従の笑みを浮かべ、両手でそれを受け取った。

 三田村は小野田にも、折り目正しく名刺を差し出す。若い刑事は愛想笑いの一つも見せないが、名刺は両手で受け取り、記載事項の確認も怠らなかった。

「で、訊きたいことってなんです? どうせ柿沼の事件のことなんでしょう? 雨が降りそうだし、さっさと済ませましょう」

 とげとげしく言った三田村は、名刺入れをビジネスバッグに戻した。

 佐々木が三田村の名刺を右手に持ったまま言う。

「お時間は取らせません。お察しのとおり、坂田茂雄さんが殺害された事件と、その事件の容疑者である柿沼大輔が野島流海に殺害された事件についてです」

「柿沼も野島も、被疑者死亡のまま書類送検されたんですよね?」

 そう返し、三田村はため息をついた。

「正式に捜査が再開されましたあ」小野田が声を荒らげた。「これだけ聞き込みを重ねても、動機がわからないんですよ。柿沼が坂田さんを殺害する動機がねえ」

 三田村の態度に憤慨したらしい。それでも小野田は、そそくさとスーツの内側からメモ帳とボールペンを取り出した。そして、三田村の名刺をその手帳に差し入れる。

「動機? そんなもの知りませんよ。別に柿沼と親密にしていたわけじゃないし。知っていることは答えますけど、正直、柿沼のために時間を割かれるのは迷惑です。うちのおふくろも目撃者としていろいろと訊かれたそうだし。もう、いい加減にしてほしいですね」

 憤慨したいのは三田村のほうだった。

 三田村の心境を悟ったのか、佐々木が小野田の前に立ち、笑顔を作った。

「一応ね、同級生や友人など、関係のある方々にはお尋ねしているんですよ。もう何人かの方にお会いしましたが、これといった有力な情報が得られませんでしてね」

「それは、おあいにくさまです」

 慇懃無礼に三田村は言った。

 前に出かかった小野田を、佐々木が制する。

「三田村さんは、坂田さんや柿沼……というか、あの五人とのお付き合いは、まったくなかったのですか?」

 佐々木に問われた三田村は、一呼吸置き、口を開く。

「あの五人とは、つまり、坂田と柿沼に、堀口、野島、宮下の三人を加えた五人、のことですよね?」

「そうです」

 じっと三田村を見つめながら、佐々木は答えた。それなりの情報が得られるまで解放するつもりはないらしい。

 三田村は、とにかく面倒なことは早く済ませたかった。

「ほとんどというか、まったく付き合いはなかったですね。……そういや、去年、中学の同窓会があったんですが、あの五人だけは参加しませんでしたよ」

「ほう」

 佐々木は三田村の話を促した。

「あの五人、ちょっと変わっていましてね。あいつらとかかわろうとするやつなんて、滅多にいませんでした」

 回顧する眼差しで、三田村は言った。

「なんでまた?」

 佐々木は首を傾げた。

「いつも一緒のグループなのに」三田村は答える。「足並みが揃っていない……というか、仲よし五人組、っていう感じではなかったですね」

「仲間割れが多かった、とか?」

 佐々木の質問は流暢だった。

 一方の小野田は営々とメモを取っている。

「そんな感じかな。それに小学生の頃ですが、坂田と柿沼は、よく堀口を小突いていましたよ。坂田と柿沼は腕っ節がよかったけど、堀口は男子の中で一番おとなしかったし」

「いじめですか……」

 佐々木は声を潜めた。

「いじめなんでしょうけど……泣いたり喚いたりとか、とにかく堀口は、感情表現に乏しいやつでした。いじめっ子にしてみれば、いじめがいがないわけです。坂田と柿沼がどれほど本気で堀口に暴力を振るっていたのか、おれにはわかりません。けどそのくせ、おれなんかが堀口をからかったりすると、坂田と柿沼に本気で殴られましたよ」

「なんとも」佐々木は眉を寄せた。「三田村さんが殴られたのですか?」

「そうですよ、手加減なしでした。いや、おれだけじゃなかったですよ。あの五人のうちの誰か一人にでもちょっかいを出したやつは、みんなやられていました。坂田と柿沼、あいつら二人に必ずやられるんですよ。だから、あいつらの事件でいろいろと訊かれるのは面白くないんです」

 早く話を終わらせたかった三田村は、忌憚なく言った。

「なら」小野田が口を開いた。「三田村さんを始め、坂田さんと柿沼に殴られたことのある人がその二人に怨恨を抱いても不思議ではありませんね?」

「おい、小野田」

 三田村が反駁する前に、佐々木が小野田をたしなめた。

 しぶしぶと口を塞ぐ小野田を、三田村はため息を落としながら睨んだ。

 佐々木がへつらいの笑みを三田村に向ける。

「大変申し訳ありませんでした。では、さっさと話を進めましょう。あの五人のリーダー格は、坂田さんか柿沼、ということですね?」

 佐々木が問うと、三田村は首を横に振った。

「いいえ、違います。自殺した野島流海です。坂田と柿沼でさえ、野島には頭が上がりませんでした。なんせ、野島流海の父親は大地主で、しかも、帝都交易の社長だし……ああ、もうすぐ辞任するのか。とにかく、野島のお嬢様には、彼女のグループ以外のやつだって逆らえませんでしたよ」

「そうだったのですか。そんなリーダーの元なのに、坂田さんと柿沼は、日頃から剣吞な仲だったのですか?」

 そろそろ本題なのだろう。佐々木の目が鋭くなった。

 三田村はわずかに怯む。

「えーと、坂田と柿沼は……小学生の頃は仲がよかったはずです。けど、中学生になると、諍いが絶えなかったですね。まあ、一応、仲間同士だったんでしょうけど」

「では、中学を卒業したあと……骨董店での事件に至るまでの間も、ずっと、坂田さんと柿沼はそんな関係だったのですか?」

「おれはあいつらとは高校が別だったんでわかりませんが、そういえば――」

 三田村は言葉を切った。

「どうしました?」

 佐々木の肩越しに小野田が尋ねた。

「今年の初め頃だったかな……坂田骨董店の前で、坂田と柿沼が立ち話をしていたんです。言い争い、っていうほどの感じではなかったんですが、柿沼が坂田に、何かを譲ってくれ、って言っていましたね」

「何かを? それが何かは、聞き取れませんでしたか?」

 佐々木の丸顔が気迫に満ちた。

 しかし三田村は、再度、首を横に振る。

「なんせ、あの二人にはかかわりたくなかったし、気づかれないうちに素通りしちゃったんですよ。聞き取るのは無理でしたね」

「昭和の何か、とか言っていませんでしたか?」

 小野田が口を挟んだ。メモを取る手が止まっている。

「昭和?」

 三田村が首を傾げると、佐々木と小野田が顔を見合わせた。

「わかりました」と佐々木は三田村の名刺をスーツの腰ポケットに入れた。「今日はご協力いただき、ありがとうございました。ところで……三田村さんは、ご自宅からの通勤でしたよね?」

「そうですよ。職場は……この辺は二十四区の外れなもんで、なんとか電車で通えます」

 やっと解放される見込みが立ち、三田村の口調はおのずと穏やかになった。

「なるほど」佐々木は頷いた。「そういえば、三田村さんのご自宅は、宮下愛里さんの実家のお隣でしたね。彼女ともあまりお話しなどはされませんでしたか?」

 佐々木のその質問で、三田村は一気にうんざりとなった。見れば、小野田のメモ取りが再開されている。

「彼女はおとなしくてかわいい顔をしていますけど、あいつらの仲間です。特に中学に入学してからは、挨拶くらいしかしていませんよ。坂田の葬儀で、宮下と堀口……あの二人に会いましたけど、それぞれ互いに会釈しただけで、一言も交わしませんでした」

「ああ、坂田さんの葬儀には参列したんですね」

 小野田の皮肉っぽい一言が、三田村を激昂させた。

「いくらなんだって、面目っていうものがあるじゃないですか。……あの、もういいですかね?」

 そんな三田村に佐々木は苦笑した。

「長々と申し訳ありませんでした。ご自宅周辺での捜査はまだ続いています。あちらでもお世話になることがあるかもしれませんが、そのときはまた、よろしくお願いします」

 佐々木が一礼すると、小野田もしぶしぶと頭を下げた。

「まあ、お役に立てることがあれば」

 二度とかかわりたくない――という気持ちを胸に秘め、三田村は公園をあとにした。

 雨がぽつりぽつりと降り始めた。


 この日、愛里はコンビニエンスストアのアルバイトが休みだったため、朝からハローワークに入り浸っていた。

 求職の登録をしておいたが、どの企業からも連絡はなかった。仕方なく、ハローワーク内専用の端末を使って検索したが、こちらでも希望の職種は一件も見つからない。希望職種の幅を広げることまで考えてしまう。

 二時間ほど粘ったところで、ようやく諦めがつき、愛里はハローワークを出た。

 即日面接があることを考慮してのリクルートスーツだったが、そんな気遣いは無駄になってしまった。スカートがよいのかパンツがよいのか、インターネットで調べまくった挙げ句のスカートスタイルである。リクルートスーツを選ぶだけで、昨夜は十一時過ぎまで悩んだのだ。なおさら、晴れ渡った秋空が恨めしい。

 重い足取りでバス停に向かって歩いていると、スマートフォンの呼び出しが鳴った。ショルダーバッグの中のスマートフォンを取り出す。

 就職に関してのよい知らせかと期待したが、母のスマートフォンからだった。

 無視するのも忍びなく、愛里は歩きながら電話に出る。

「もしもし」

 つい、無愛想な声になってしまった。

「愛里? 何よ、その声」

 母は心外だったに違いない。

「別に。ただ、今は一人で静かにしていたかっただけ」

「そんな様子では、就活はうまくいっていないんでしょう?」

 予想はしていたが、やはり母は、痛いところを突いてきた。

「そうだけど」

 突き返すつもりで答えた。

「そこまで都心にこだわる必要はないじゃない。アパートの家賃だってかかるし。女の子の独り暮らしはやっぱり危ないよ。愛里にまで、もしものことがあったら……」

「流海の事件があったから、心配しているの?」

 親友の死を引き合いに出されるのは、面白くなかった。

「そりゃそうよ」

「けど、坂田くんは実家で殺されたのよ。どこにいたって同じでしょう」

 意図せず、自分も友人の死を持ち出してしまった。

「お母さんね、すごく心配なの」

 母の声が小さくなった。

 愛里は、意固地になっている自分に気づく。

「ごめん、ちょっと言いすぎた。けどね……せっかくだし、こっちでもう少し頑張ってみたいの」

 そう訴えてみたものの、実家に戻りたくない理由は別にあった。忘却の彼方にの曖昧模糊とした何かが、愛里をふるさとから遠ざけているのだ。実家にいた頃には感じなかったそれが、愛里が独り暮らしを始めた直後から己の存在を強くアピールし始めたのである。

 年に何度かは帰省していたが、それは友人たちがいたからにほかならない。流海や堀口、坂田、柿沼、彼らがいなければ、盆や正月さえ帰省しなかったかもしれないのだ。

 疑念が湧いた。自分はこれまでの帰省を楽しんでいたのだろうか。

 母の言葉を待たず、愛里は口を開く。

「ねえ、お母さん。あたし、帰省するたびに、楽しそうにしていた?」

「え?」

 突然の奇異なる問いに、母は啞然としたらしい。

「友達のみんなと楽しそうに過ごしていた?」

 愛里は重ねて問いかけた。

「それはまあ、楽しんでいたんじゃないかしら? お母さんが見ていた範疇だけど。口うるさいお父さんとも、楽しくビールを飲んでいたりしたじゃない」

「でも、子供の頃のあたしは……」

 やはり、肝心なことが思い出せない。鏡恐怖症になってしまった原因――流海が言っていた「恐怖症になってしまうほどインパクトがあること」がいかなる出来事だったのか、今までにないほど、愛里は慮った。

「お母さんは、あたしが鏡恐怖症なのを知っているよね?」

「何よ今さら。お父さんだって呆れているくらいだよ」

 母は答えた。

「ねえ、あたしがどうして鏡恐怖症になったのか、わかる?」

 思いきって尋ねてみた。

「どうして……って、どうしてなんだろう? こっちが訊きたいくらいだよ」

「そう」

 安堵と落胆とが同時に訪れた。

「鏡恐怖症が就活の障害になっているの?」

 母の憂慮が伝わってきた。鏡恐怖症のことなど口にしなければよかった、と後悔する。

「違うの。違うけど……」

「ナーバスになっているのよ。いろんなことがあったでしょう。もう、無理して帰ってこい、とは言わない。ただ、少しゆっくりしなさいよ」

 流海がいなくなった今、こんな言葉をかけてくれるのは母くらいかもしれない。愛里は胸が熱くなった。

「お母さん、ありがとう」

「いいんだよ。じゃあ、切るね」

「あ、お母さん」愛里はとっさに声を上げた。「あのさ……ほかに何か話があったんじゃない?」

「ああ、そうだったね。でも、まあいいや」

 母のもったいぶった言いようが気になり、愛里は足を止めた。

「気になるじゃない。言ってよ」

「うん……報道関係の姿はほとんど見られなくなったんだけど、警視庁の刑事だか所轄の刑事だかが、まだときどきご近所をうろうろ……というか、聞き込みしているのよ。愛里のほうはどうなの?」

「警視庁の佐々木さんっていう刑事から何度か電話があったけど、ここ二、三日はかかってこないよ。報道関係の取材なんて、まったく来なかったし」

「そう……。ニュースや新聞で一連の事件の報道を見ることはなくなったけど、真相はまだ解明されていないでしょう。警察が躍起になっているぶん、お母さんだってやっぱり怖いのよ。何せ、ご近所だし。それと、坂田くんの妹さん……今は大学生だけど、あきちゃん、だったよね?」

「あきちゃんね、わかるよ」

 面識があるだけで、特に親しいわけではなかった。

「あきちゃんが刑事に訊かれて答えたみたいなんだけど、やっぱり、坂田くんが所有していた何かを柿沼くんがほしがっていたらしいの。例の、昭和の何か、のことよ」

 母のその言葉を聞いた愛里は、堀口が言っていた「手鏡」を思い出す。「手鏡」と「昭和の何か」という二つのイメージが、意図せず脳裏で重なった。

「それが何かは、あきちゃんも知らなかったんだ?」

「そうなの。なんだかね、子供の頃に、坂田くんが遊び半分でその何かを自分の家のお店に置いていたことがあるんだって。けど、坂田くんのお父さんはまったく気づかなかったらしいのよ。お父さんだけじゃなくて、お母さんもね。ご両親が気づかないうちに、坂田くんはそれをどこかに隠してしまったんだって。あきちゃんはきつく口止めされていて、ご両親にさえ言えなかったんだね。子供の頃の出来事だから、あきちゃんだって忘れかけていたんでしょう。でもね、お兄さんが殺害される事件があって、思い出したみたい」

「あきちゃんはお兄さん……坂田くんに口止めされていたんだね」

「それがね、口止めしていたのは坂田くんではないみたいよ」

 と否定する母に愛里は問う。

「じゃあ、誰があきちゃんに口止めなんかするのよ?」

「流海ちゃんらしいのよ」

 母の答えを聞いて愛里は考えた。流海が関与していたということは、坂田の判断だけで置いたのではないだろう。もっとも、その推測を母に伝えるつもりはなかった。

「そうなんだ」

 相槌を打って済ませた。

 母は続ける。

「柿沼くんがそれをとてもほしがっていたんだとか。だから柿沼くんは、今になってあんな事件を起こしちゃったのかしら。坂田くんを殺したあとに流海ちゃんのところへ行ったということは、本当は坂田くんじゃなくて、流海ちゃんがその何かを持っていたのかもしれないよね」

 そんな話を聞きながら、植え込みの近くに据えられたベンチに、愛里は腰を下ろした。

「お母さんは、その何かをあたしが知っている、と思って電話してきたの?」

「その何か」については目星をつけているが、確証があるわけではない。

「そうなの。ごめんね……愛里にはとてもつらい時期なのに」

 明らかに、負い目を感じている声だった。

「いいよ。まだ事件が解決していないのなら、怖いに決まっているもの。お母さんだって、早く落ち着きたいんでしょう? けど、あたしも何も知らないの。あたしのほうこそ、力になれなくてごめんね」

 自分で言っておきながら「何も知らない」の部分に語弊を感じた。しかし、今の愛里は真実を把握できていないのだ。確証のないことは口に出せない。

「愛里は謝らなくていいんだよ。じゃあ切るけど、落ち着いたら顔を出してね。お父さんも愛里に会いたがっているし」

 顔を出すといえば、堀口とともに墓参りに行くのは二日後だ。墓参りのついでに実家に立ち寄るつもりでいたが、そんな気分もなくなってしまった。おそらく、暗い顔を向き合わせるだけになってしまうだろう。

「うん。落ち着いたら遊びに行くね。お父さんに、よろしく伝えておいてね」

 負い目を感じているのは、怯えている母を助けられないばかりか、二日後の帰郷を隠している、こんな自分のほうだ。

 愛里は通話を切ると、スマートフォンをショルダーバグに入れた。

 ベンチに腰を下ろしたままうなだれる。

 そよ風が肌に冷たかった。

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