第五章
約束の時間は午前六時だった。その十分前からアパートの外に立っていると、五分ほどして銀色のコンパクトカーが目の前に停止した。
「おはよう。今日はよろしくね」
愛里は助手席のドアを開けた。
「おはよう。荷物は後ろの座席に置くといいよ」
運転席の堀口は言うが、荷物はショルダーバッグが一つだけだった。流海が使っていたよそ行きショルダーバッグとお揃いの、ブランド品だ。流海の墓前に立つには、絶対に欠かせない一品である。
愛里は「荷物はこれだけだから」と答えて助手席に乗り込み、ハンドバッグを膝の上に置いた。
「高速で行っちゃおう。とにかく今日は、あんまりのんびりとはしていられないんだ」
そう告げる堀口は、久しぶりに見せるカジュアルなスタイルだった。テーラードジャケットとジーンズがよく似合っている。
一方の愛里は、下ろしたてのワンピースでめかし込んでいた。相変わらずの薄化粧だが、それでも、いつもより長く鏡と睨み合っていたのだ。おかげで頭痛薬の世話になったほどである。
「あ、それでね」愛里は言った。「あたしは実家に寄らないことにしたの」
「どうして? それくらいの時間はあるよ」
「なんだか気分が乗らなくてね。だから、今日のお墓参りは、実家に内緒なの」
「そうか。君がそう言うのなら仕方ないけど、ぼくは実家に連絡をしちゃったし」
堀口は言うと、車を発進させた。
「気にしないで。……お墓参りの前にそれぞれ実家に寄る予定だったでしょう。堀口くんが実家に寄っている間に、あたしはお花を買っておくね」
「ぼくは実家に寄っても、いるのは十分くらいなんだ。君を君の実家に送り届けたら、自分の実家に寄って、花を買って、それから君を迎えに行く……つもりだった」
「いいの。お花を買うのはわたしの担当」
「わかった、そうしてもらおうかな。けど、君と二人で墓参りに行くことは、ぼくの家族にも言わないほうがいいよね」
「え……ああ、そうか」
愛里は得心がいった。
「ぼくの実家って、君の実家に割と近いじゃないか。君の来たことが、君の両親にばれちゃうかもしれない」
「そうだよね」
自然と笑みがこぼれる。
「これじゃ、まるでお忍びだよ。君も一緒だっていうこと、誰にも話さなくてよかった」
堀口も笑った。
緊張がほぐれたためか、愛里は大事なことを思い出した。
「お花代はあたしが出すね」
だが、堀口は首を横に振る。
「今回はぼくが誘ったんだ。全部、ぼくが持つよ」
「だめよ。車のレンタル代やガソリン代だって自分が出す、って堀口くんは言うんだもの。お花代くらいは、あたしに任せて。ただし、お花を選ぶのもあたしに任せてね」
「アルバイト代、なくなっちゃうぞ」
「お金のやり繰りは、堀口くんより、あたしのほうが得意かもよ」
と返した愛里は、肩をすくめた。
「それはあるかもしれない」堀口は頷いた。「なら、今回は甘えることにするよ」
抜けるような青空だった。絶好のドライブ日和である。
異性と二人きりで車で出かけるのは、愛里にとっては初めての経験だった。そのうえ相手は、憧れの堀口なのだ。流海に申し訳ない、と思いつつ、すでにデート気分になっていた。しかし、今日の目的は流海や坂田、柿沼ら三人の墓参りなのだ。有頂天になってはいけない――と気を引き締め直す。
「ところで、訊きたいことがあるんだけど」
赤信号で停止したタイミングで、愛里は口にした。
「なんだい?」
「例の手鏡のこと」
「あれは……」
堀口は言い渋った。
「昭和の何か、って柿沼くんは怒鳴っていたらしいけど、それって、堀口くんが言っていた手鏡のことでしょう?」
愛里は横目で堀口を一瞥した。
正面に向けられた堀口の目は、微動だにしない。
「警察にも言えないことだから、あたしにも言えないの?」
こんな日に持ち出す話ではない――そう思いつつ、愛里は追及した。
信号が青に変わり、車が走り出した。
「警察に言わなかったのは」堀口は答えた。「あれがただの手鏡じゃないからだよ」
「ということは……やっぱり、柿沼くんは手鏡が目当てだったんだね?」
愛里が尋ねると、堀口は頷いた。
「柿沼は、あの手鏡で一儲けする、という奸計があったんだ」
「一儲け? その手鏡って、そんなに高価なものなの?」
「元値は三万円くらいだったらしいけど、実際の価値は、ぼくにもわからないんだ。でも見た目は、かなり凝ったデザインだよ。鏡面も枠も持ち手も銅合金製の、銅鏡なんだ」
「それって、昭和以前に作られたんだよね?」
「まあ、そうなんだけど、日本の品ではないんだ」
「輸入品なの?」
愛里は首を傾げた。
「中国の品さ」
「中国? それを、流海が持っていたのね?」
「流海の所有物であるのは事実だよ。でも流海は、派手な彫刻の施されたあの手鏡を気味悪がってね。とりあえず、ぼくが預かることにしたんだ」
「堀口くんが持っていたの?」
愛里は驚愕した。
「実家のぼくの部屋……押し入れの天井裏に隠してあるんだ。家族の誰にも見つからないようにね。もし流海の部屋に置いてあったら、警察は勘ぐったかもしれない」
「派手な手鏡だったら目立つものね」
頷く愛里に、堀口は言う。
「流海は手鏡の所在を絶対に柿沼には知らせたくなかったんだ。それなのに、流海が手鏡を買い取った、と坂田から聞いたに違いない柿沼は、流海のところへ行ってしまった。ぼくは柿沼の行動を予測して、ずっと流海のマンションに泊まっていたし、出退勤もできるだけ流海と都合を合わせていたんだけど、まさか、普段なら流海が出社しているだろう平日……その真っ昼間に来るとは思わなかった。ぼくの注意が足りなかったんだね」
「堀口くんのせいじゃないわ」
淡々とした口調の堀口に違和感を抱いた愛里だが、どうしても「手鏡」が気になってしまう。
「ところで……本当に、あたしに手鏡のことを話してもいいの? 流海は、あたしには教えたくないみたいだったけど」
「ぼくとしては、君に知ってもらいたいな」
進行方向を見つめる堀口には、固執が感じられた。
「うん。その手鏡のこと、知りたい」
愛里の声がわずかに震えた。
「なら、見せてあげよう。実家に寄ったときに、持ってくる」
「見せてくれるの?」
素直には喜べないが、期待が高まった。
泰然とした色を浮かべ、堀口は答える。
「かまわないさ。流海に口止めされたうえ、警察にも言っていないんだけどね」
「それなんだけど……手鏡のこと、警察に言わなくて大丈夫なの?」
「どうだろうね。自分の預かっているものが原因で柿沼が事件を起こしたなんて、想像もできませんでした……って言ってしまえば、それで済むんじゃないかな。もっとも、警察が手鏡の存在まで辿り着けたらの話だけど。まあ、一時的に押収されたとしても、すぐに返してもらえるだろう。……いや、本来の持ち主である流海が死んでいるし、ちょっとややこしくなるかもしれないな」
堀口の話しぶりはまるで他人事だった。恋人や友人たちが事件に巻き込まれて死んでいるにしては、あまりにも淡泊である。
今回の一連の事件において、堀口が感傷的に見えたのは、流海の死後、ほんの二、三日程度だっただろう。感情を露骨に出さないタイプである、とは承知していたが、愛里にはドライすぎると感じられた。
やがて車は高速道路へと入り、進路を西に向けた。
果てしなく続くビル街。その谷間に延びる高速道路を、車の列が快調に流れていく。
「もしかしたら」愛里は戸惑いながら言った。「あたしにとってその手鏡は、知らない、ではなくて、忘れていた、ということかもしれない」
「忘れていた、とは?」
興味深げに、堀口は尋ねた。
「子供の頃に坂田骨董店へ遊びに行ったことがあるだろう……って、堀口くんが前にあたしに訊いたじゃない」
「ああ」
堀口は肯定した。
「つまり、あたしがその手鏡を見ていた可能性はあるよね。あたしにとっては、未知ではなく既知なんじゃないかな。みんなはその手鏡を覚えているけど、なぜか、あたしの記憶からは消えてしまっている、っていうこと」
「問題の対象物が手鏡だもんな。宮下さんが鏡恐怖症になった原因と関係があるのかもしれない。なら、手鏡を見て何かを思い出す、ということも考えられるよね」
「あたしが手鏡をちゃんと見られるかどうか、それが関門だけど」
図に乗りすぎたのかもしれない、と愛里は思った。堀口の態度に違和感を抱いたばかりなのに、気づけば、自分自身の問題のみに執着している。今日の目的は、友人たちの死を悼むことなのだ。
しかし、愛里の改悛をよそに、堀口は続ける。
「無理だったら、鏡面は覗かないほうがいいかもしれない。全体のデザインというか、特徴のある意匠だし、それだけでも、何か思い出すんじゃないかな?」
「そうだね」
手鏡の話題を締めくくるつもりで、愛里は答えた。
数えきれないほどのビルが、次々と後方に流れていく。
ときおり光の加減で自分の顔がサイドウィンドに映るが、そのたびに両目を閉じ、難を回避した。いちいち顔を背けていては、ハンドルを握る堀口も落ち着かないだろう。
「流海は、堀口くんに優しかった?」
愛里は話題を変えた。
「え?」
堀口は正面を見据えたまま目を丸くした。
「流海ってちょっと……っていうか、かなり気が強かったけど、堀口くんにはでれでれだったもんね」
「そうかなあ?」
堀口は失笑した。
「そうだよ」
「いいや、流海が一番優しくしていたのは、宮下さん、君だよ」
否定した堀口は、静かに正面を見つめた。
「あたし?」
流海が優しく接してくれたのは事実だ。その優しさに応えるためにも、愛里は流海という存在を大切にした。しかし流海は、堀口と恋人として付き合い始めると、堀口との時間を多く取った。寂しくはあったが、流海の堀口に対する優しさが自分に対する優しさより大きいのは当然のこと――と愛里は受け止めていたのである。
「そうだな。言われてみれば……うん……気が強かったよな、流海は」
堀口はつぶやいた。
「流海と喧嘩……なんて、したことあるの?」
何げなく尋ねたが、二人が喧嘩をした、という話は聞いたことがなかった。
「そりゃあ、軽く言い争うというか、小さな諍いは何度かあったよ。でも、そんな程度だったね。派手な喧嘩とかは、したことがなかったな」
「そう」
再び、愛里は妙な違和感を抱いた。淡泊というより、冷徹に思える。
堀口は以前からこんな性格だったのか、愛里にはわからなくなっていた。少なくとも愛里が今まで抱いていた印象とは異なっているが、勝手に憧れて自分の好みに仕立て上げていたのなら、本人としては、はた迷惑なだけだろう。
愛里の中にあったデート気分は、完全に消え失せていた。有頂天になる危惧など皆無である。
ふと、愛里の脳裏に、流海と堀口との剣吞な様子が浮かんだ。堀口の話を聞いて、急に思い出したのである。
高校二年生のときだった。二週間ほどの期間だったが、流海と堀口との間に不穏な空気が漂っていたことがあったのだ。流海が体調不良だった、と記憶しているが、そんな理由で恋人同士の仲が悪くなるものなのか――改めて尋ねてみようと、愛里は口を開きかけた。
「宮下さんは車の免許を取らないのかい?」
堀口に先を越される形となったが、それでよかったのかもしれない。
「うん、今はいらないかな」
愛里は答えた。
堀口の横顔が、わずかに頷く。
「都会ではあんまり必要ないけどさ、あれば何かと便利だよ。車を購入しなくたって、今回みたいにレンタカーを使う機会があるかもしれない。流海も、いらない、なんて言っていたけど、身分証明にも使えるし、取っておいたほうがいいと思うよ」
「そうね。もし都心での就職を諦めて実家に戻らなくちゃならなくなったら……あの辺はバスの本数も少ないし、車の免許は必要かもね」
実家に戻るのは最終手段だが、今のままではそうならないとも限らない。車の所有が必須となる可能性がある、ということだ。また、今後の就活を考えれば、車の免許に限らず、資格はできるだけ取得しておくのが得策だろう。
「都内とはいえ、あの辺は田舎だもんなあ。バスだけじゃなく、電車も都心とは比べものにならないほど少ないよね。いいところなんだけど――」
堀口は言葉を切った。
いいところなんだけど――真意で言っているのか、愛里にはわからない。
二人は黙り込んだ。
ラジオもCDもかけていない。
カーナビの音声ガイドのみが車内を静寂から守っていた。
車は一途、西へと走り続けた。
高速道路を下りて十分も走ると、なじみの景色が目に飛び込んできた。街の広がりはあるが、遠くに山々の連なりが望める。建物の密集具合は明らかに都心より低く、高層建築物に至ってはまばらだ。交通量や人通りも、そんな景観に応じたぶんだけ少なかった。
暑気払いで二カ月前に来たばかりなのに、一連の事件があったせいか、愛里にはなんとなく別世界のように感じられた。
家並みの間隙に、柿沼の実家が垣間見えた。しかし、一瞬にして手前の民家の陰に入ってしまう。
「あたし、よくは知らなかったんだけど、柿沼くんって、ご両親と三人暮らしだったんでしょう?」
「そうだったね。でも、あの家には、もう誰も住んでいないらしいよ。両親は夜逃げ同然だったとか。といっても、警察は居所を把握しているんだろうけど」
堀口は答えた。
「なんだか……悲しいよね」
声が沈んでしまう。
愛里の実家は市街地の奥にあるため、通りからはまったく窺えなかった。堀口の実家も同様である。
「やっぱり、閉まっているな」
一軒の店の前に差しかかったときに、堀口が言った。
シャッターが下ろされている店に「坂田骨董店」の看板が掲げられている。
「廃業しちゃうの?」
通り過ぎた店を振り返りながら、愛里は尋ねた。
「まだわからないけど……両親とも、目の前で息子を殺されたんだ。しかも、店の中でだよ。営業を再開するのは簡単ではない、と思う」
堀口の言葉を聞き、愛里は小学生の頃を回顧した。
愛里は流海やほかの仲間たちと一緒に、坂田骨董店に入ったことが何度もあった。陳列された商品を傷つけないように、慎重に店の中を歩いたものだ。愛里が気にして見ていた商品は年代物の人形だったが、無論、子供が気安く手を出せる値段ではなかった。
そんな店内で、坂田が柿沼に殺されたのだ。思い出の場所は、今や殺人現場である。暗鬱な気持ちを断ち切ろうと、愛里は坂田骨董店から視線を戻した。
市街地の奥に、高級住宅街である高台が見えた。流海の実家はそこにある。高台ではあるが、通りとの距離がかなりあるため、どれが流海の実家なのか、この街で育った愛里でさえ判別できない。
子供の頃の縄張りだった界隈を抜け、顔見知りの少なそうな商店街に入った。
「あそこ」
愛里が指差した先、道路の左側に生花店があった。昔からある店だ。
堀口が店の前に車を停止させた。
「ここなら、最初に行くお墓に近いし」
言いながら、愛里はシートベルトを外した。
最初に訪ねる墓地を管理する寺は、宮下家の菩提寺でもあった。しかし愛里は、寺の近くにあるこの生花店には一度も入ったことがない。一見の客ならば、店員の目を気にせずに済むだろう。
「じゃあ、寺の門の脇にある駐車場で待ち合わせしよう」
「うん」
頷いた愛里は、車を降りかけて振り向いた。
「手鏡、忘れないでね」
「大丈夫、絶対に忘れないさ」
堀口の言葉には、なんらかの含蓄があった。
愛里は逡巡した。しかしすぐに気を取り直し、笑顔でドアを閉じるとショルダーバッグを左肩にかけた。
走り去るコンパクトカーを見送り、愛里は生花店へと入った。
花束を三つも抱えると、さすがに歩きにくかった。
もっとも、待ち合わせ場所の駐車場は生花店から百メートル弱だ。堀口と別れて十五分後には、愛里はその駐車場の片隅に立っていた。もう少しのんびりと花を選んでいてもよかったのかもしれない。だが堀口は何度も「実家には十分以上は滞在しない」と断言していた。待ちくたびれることはないだろう。
駐車場には砂利が敷き詰められていた。五十台以上は停められそうな広さである。しかし、盆でも彼岸でもなく、ましてや平日とあってか、車は一台もない。商店街より若干奥まっているため、人通りもなかった。寂然とした空気の中で、愛里は一人佇むが、知人と遭遇しないだけ幸いだろう。
愛里が駐車場に着いて五分ほどで、堀口の運転するコンパクトカーが現れた。
駐車場の一番手前に停まった車から、紙バッグを片手に提げた堀口が降りる。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
愛里の前に立った堀口は、すまなそうな顔をした。
「全然待っていないよ。思ったより堀口くんの来るのが早かったくらい」
「そうか、よかった。実家にいたのは母さんだけだったんだ。急いでいる言い訳はどうにかなったんだけど、気づかれないように手鏡を持ち出すのに時間がかかっちゃってさ」
「手鏡」と聞いて、愛里は緊張した。おのずと紙バッグに視線が移る。
「それに手鏡が入っているの?」
「手鏡は車の中さ。これに入っているのは、ライターと線香だよ。君もぼくも煙草を吸わないだろう。手鏡を持ち出すことも大変だったけど、ライターを探すのにも苦労したよ。あと、線香は、仏壇にあったものを拝借した」
堀口が苦笑すると、愛里の緊張はすぐにほぐれた。
「本当だ。お線香を忘れていた」
「それじゃあ、流海のぶんの花は、車に置いておこう。これだろう?」
と堀口は迷いもせずに花束の一つを指差した。
二つは菊の花束だったが、堀口が選んだのは百合の花束だった。
「あ……やっぱりわかっちゃった? っていうか、堀口くんは流海の好きな花を知っていたんだね?」
愛里は百合の花束を堀口に手渡した。
花束を手にした堀口が頷く。
「知っているとも。流海が大切にしていたブローチ、百合のデザインだったろう。訊いてみたら、この花が一番好きなんだ、って言っていた。しかもそのブローチは、宮下さんがプレゼントしたんだよね? とても大事にしていたよ」
「嬉しい……流海に気に入ってもらっていたんだね。そういえば、よく身につけていてくれたな」
愛里は、こぼれ落ちそうになる涙を片手でぬぐった。
「思い出の品か」
感慨深げにつぶやいた堀口が、百合の花束を後ろの座席にそっと置いた。
「じゃあ、宮下さん」ドアを閉じた堀口が言った。「例の手鏡は、三人の墓参りを済ませたら見せるよ」
「うん、そのほうが落ち着いて見られるね。本当はあんまり見たくないんだけど、ちゃんと確かめて、忘れてしまった何かを、思い出さなくちゃ」
「あとね、宮下さんをある場所に連れていきたいんだよ。そこで手鏡を確かめたほうがいいと思う。小学生のときにみんなでよく遊んだ場所だし、そこでなら、思い出しやすいかもしれないよ」
「ある場所、ってどこなの?」
愛里は尋ねた。
「そんなに遠くはないよ。ちょっと郊外だけど、小学生が歩いて行ける距離なんだ。車なら、すぐさ」
答えた堀口は、愛里が持っている菊の花束の一つを持った。
「なんだか、怖いな」
おどけて見せたが、本心である。
「心配しなくてもいいよ。とにかく、墓参りが先だ」
愛里と堀口は、並んで歩き出した。
この寺の墓地には、坂田と柿沼、二人の墓があった。宮下家もこの寺の檀家なのだから、無論、愛里は先祖供養のために何度も足を運んでいる。まさか友人の墓参りでここに訪れることになるとは、夢にも思わなかった。
坂田家の墓と柿沼家の墓とは、同じ墓地内でも互いに離れた位置にあった。とはいえ、墓地の案内版のおかげで、どちらの墓にも容易に辿り着くことができた。手桶と柄杓は墓地に備え付けのものを借用したため、総じて、墓参りに関しては特に問題はなかった。
「お墓同士は離れていたけど、同じ墓地内にあるっていうのも、遺族としては気まずいよね。お盆やお彼岸に、互いの遺族が顔を合わせちゃうかもしれない。うちのお墓もここだし、なんだか、あたしまで来づらくなりそう」
手桶や柄杓を返却して駐車場へと戻る途中、愛里は歩きながら言った。
「ぼくの家もここの檀家だし、そんな修羅場に出くわす可能性はあるね。まあ、もめごとがあっても、好きにさせておけばいいんだろうけど」
紙バッグを片手に提げて愛里と並ぶ堀口は、平然とした様子だった。
「そういう事態になったとして、堀口くんは平気なの?」
虚を突かれた思いで、愛里は堀口を見た。
「平気も何も、そんな諍いにかかわるべきじゃないよ」
来る途中に車の中で抱いた堀口に対する違和感が、愛里の中で蘇った。これでは、冷徹というより、冷酷ではないのか。
「だって、坂田くんも柿沼くんも、友達だったんだよ」
「坂田と柿沼は、もう死んでいるんだ。あとは遺族同士の問題だろう」
堀口は告げるが、愛里は得心がいかない。
「じゃあ……死んじゃったら、もう友達じゃないの? それに、ご遺族にも、あたしたちはお世話になったわ」
「わかるよ。死んでも友達は友達だし、その家族に世話になったことも忘れちゃいけない。しかし、本人らが死んでいるのに、生きているぼくたちがいつまでも引きずっていてはいけないんじゃないかな」
一瞥もくれず、堀口は言った。
理にかなっていると認めるが、愛里は怯まない。
「そんな言い方、冷たすぎるよ」
「冷たすぎる? ならさ、友達同士なのに、どうして殺したり殺されたりしなくちゃいけないんだい? どうして柿沼は、自分のことしか考えなかったんだい?」
前を向いたまま、堀口は問い返した。
「どうして、って……」
言い淀んだ愛里は、わずかに眉を寄せた。
「本当の友達だったら、私利私欲のために殺したりなんかしないよ。どこの誰に尋ねたって、そう答えるさ」
堀口は諭すが、愛里にはどうしても受け入れられなかった。
「柿沼くんは、許されない大罪を犯したわ。けどやっぱり、ずっと仲のよかった、れっきとしたあたしたちの友達よ。それに今日だって、友達だからこそお墓参りに来たんじゃない。今から流海のお墓に行くけど、その流海にしても、あたしにとっては親友だし、堀口くんにしてみれば恋人でしょう」
力を込めて訴えた。もし今回の事件が堀口を変えてしまったのなら、どうにかして以前の堀口に戻ってほしかった。
「そうだね。恋人だった……じゃなくて、恋人……なんだよな。……君の言うとおり、ぼくは冷たすぎるのかもしれない」
堀口は言った。その横顔に影が感じられる。
これ以上は取り繕うことができず、愛里は口をつぐんだ。
何かが狂っている。どこかで何かが狂ってしまった。
柿沼が坂田を殺害した事件と、流海が柿沼を殺害したあげく自殺した事件。それら一連の事件自体が狂っているのは、明白である。しかし――と愛里は思量する。これらの事件以前から、すでに何かが逸していなかったか。それがどうしても思い出せない。
愛里は、気づかれないように堀口を横目で睨んだ。
この男――堀口は、事件の真相を把握している。そればかりか、柿沼が欲していた手鏡を、こっそりと隠し持っていたのだ。
これまでに見聞きしたことによれば、手鏡を巡ってのトラブルが仲間内であったのは、ほぼ間違いない。それも、殺人事件に発展するほどのトラブルである。手鏡を確かめて何がわかるのか、もしくは何を思い出せるのか。少なくとも「暗く悲しい過去」ということだけは想像できた。
十五分ほどの移動だったが、車の中では終始、二人とも無言だった。愛里は景色を眺め続け、堀口に顔を向けなかった。
次の寺の駐車場は百台ぶん以上のスペースがあり、しかも全面がアスファルト敷きだった。伽藍も豪奢である。明らかにこちらの寺のほうが羽振りがよい。
とはいえ、こちらの寺にも参拝者の気配は感じられなかった。大駐車場の片隅に、堀口の運転する車だけが停まる。
愛里はこの寺を訪れるのは初めてだが、堀口も同じらしく、しきりにカーナビを意識していたほどだ。
若干の差で堀口より先に車を降りた愛里は、ショルダーバッグを肩にかけると、すぐに左リアドアを開け、後ろの座席から百合の花束を取った。この花束だけは、今の堀口に持たせたくない。
「案内板を見なくてもわかるはずだよ」
堀口は言うと、後ろの座席から紙バッグを取り、先に立って歩き出した。愛里は黙したまま、堀口のあとに続く。手桶と柄杓は、堀口が墓地の入り口で借用した。
野島家の墓は墓石の大きさも区画面積も群を抜いていた。目立つことこのうえない。おかげで、二人は迷わずに済んだ。
沈黙の参拝を済ませ、愛里と堀口は、野島家の墓を出るべく振り向いた。
と、一人の初老の男が二人のすぐ目の前に立っていた。フォーマルスーツに身を包んだ紳士である。左右の手に、やはり、百合の花束と手桶が提げられていた。
「おじ様」
その男を見るなり、愛里は口走った。
「野島さん」
紙バッグと手桶とで男と同様に両手の塞がった堀口も、立ち尽くして声を漏らす。
男は流海の父、野島
「堀口くんと宮下さんじゃないか。まさか、ここで会うとは思わなかったよ」
野島は柔和な声で言った。
「葬儀が密葬だったので、お別れの挨拶ができませんでした。だから、堀口くんと都合を合わせて、今日、ここに来ました」
愛里が説くと野島は頷いた。
「わたしも、葬儀のあとは仕事の片づけなどに時間を割かれてしまってね。妻に散々叱られたが、やっと来ることができた」
「おじ様……流海のこと、お悔やみ申し上げます。とにかく、悲しくて悲しくて……」
愛里は声を詰まらせた。やはり遺族と顔を合わせるのはつらい。
「今回の事件で、君たちにはいろいろと迷惑をかけてしまった。遺体の身元確認のときだって君たちに対してろくな挨拶ができなかったし、そのあとも忙しさにかまけて連絡さえしていなかった。すまなかった……本当に申し訳ない」
こうべを垂れようとする野島を見た愛里は、首を横に振ってそれを制した。
「おじ様は何も悪くありません。あたしのほうこそ、就職のときにあんなにお世話になったのに、相談もなしに勝手に退職してしまって」
「いいや、君こそ何も悪くないんだよ。事件のあとは、さぞかしあの職場にはいづらかっただろう。うちの娘が……流海があんな事件さえ起こさなければ……」
「野島さん」堀口が口を開いた。「ぼくからもお悔やみ申し上げます。流海さんとは長くお付き合いさせていただいたので、本当に残念でなりません」
堀口の言葉を受けた野島は、遠い目で言う。
「中学一年生のときには、すでに交際していたんだったね。交際が始まって以来、流海はいつも堀口くんを自慢していたよ。早熟というか、ませた娘だった。だが、君に対する思いは、大人になってもまったく変わらなかった。いや……ますます熱くなっていたな」
このまま懐旧談が続けば、流海の手向けになるだろう――と愛里は思った。しかし、堀口の面貌がたちまち険しくなる。
「ところで野島さん、今回の事件の原因ですが、察しがつきますよね?」
問われた野島は、哀愁を浮かべて小さく頷いた。
「おじ様に向かってなんてこと! それに流海の墓前なんだよ!」
愛里は堀口をたしなめた。
「野島さん」意に介さない様子で堀口は続けた。「あなたがあんなものを日本に持ち込んだりしなければ……あんなものを流海さんにあげなければ……子供だったみんなをその気にさせなければ……こんなことにはならなかったんですよ」
「宮下さんに聞かせてもいいのかい? 宮下さんに知られないように、と流海から釘を刺されていたんだが。君には、警察にも言わないほうがいい、と諭されていたし」
野島の瞳が落ち着きをなくした。
「ええ。もう隠し通せません……というか、宮下さんにも知ってほしいんです。流海さんの意向に反するのは、重々承知しています」
答えた堀口を愛里は見つめる。
「手鏡のことを言っているの?」
「そうだよ。あの手鏡は、ぼくたちが小学生の頃、流海のお父さん……野島さんが中国で入手して、日本に持ち帰ったものだったんだ」
「おじ様が?」
流海の父が絡んでいたとは、さすがに予測できなかった。
堀口は野島を睨む。
「野島さん、あの手鏡がぼくたちの手元に至るまでのいきさつを、宮下さんに説明してくださいませんか?」
「わかった」野島は口を開いた。「仕事で中国へ行った際に、土産店で個人的に購入したものだよ。当時の日本円で三万円ほどだったな。店主に、これは二、三百年前に作られた品で、人の魔性を映し出す手鏡だ、という説明を受けた。試しに自分の顔を映してみたんだが、こんなわたしでさえ普通にしか映らない。魔法だの妖術だの……そういった類いのことを、わたしはこれっぽちも信じていなかったが、流海にちょうどいい土産だ、と思って買ったんだ。もちろん、手鏡の謂われは流海に伝えたよ。やはり女の子なのか、呪いの手鏡だ……などと言って、どうしても気に入ってもらえなくてね。それどころか流海は、坂田骨董店に置いてもらえば高く売れるかもしれないよ、と言い出す始末だった。まあ確かに、専門の鑑定士に見てもらえば、高額の品である、という結果を出される可能性もある。だがそんな鑑定もされていないもの……中国の土産店で買ったものを、坂田さんの店に置いてもらうわけにはいかないだろう。わたしがそう諭すと、流海は、坂田茂雄くんに頼んだんだ」
「手鏡を店に置いてほしい、と?」
愛里は尋ねた。
ため息をつき、野島は頷く。
「ああ。しかも、それはあげるから売れたら自分のお小遣いにするといいよ、と坂田くんに言ったそうだよ。わたしとしてはまったくかまわなかったんだが、それでは坂田骨董店に迷惑をかけてしまう。それを流海に伝えたら、君たち五人は相談して、坂田さんご夫婦に気づかれないように、手鏡を店内の玩具コーナーの片隅にこっそりと置いたんだ。ブリキのおもちゃやセルロイドの人形に交ぜたわけだよ。……子供らしい発想だったな。店主さえ気づかない場所に置いたのでは、客だって気づかないだろう。もっともわたしは、子供の遊び、と思って黙っていたんだが」
「五人で相談した……って、あたしもいたんですか?」
愛里は野島に詰め寄った。
「昔のことだから宮下さんは忘れているかもしれないが、いたはずだよ」
「そう、いたのさ」堀口が繫いだ。「宮下さんはその辺りの記憶が曖昧になっているんだよ。手鏡に関することだけど、ぼくが夏でも半袖でいない理由、わからないかい? 半袖にならないといけない場合は、仕方がないからサポーターを巻いていたんだけど……ぼくのそんな姿、覚えていないかな?」
「半袖……そう言われてみれば」
事実だった。堀口の夏のプライベートファッションは長袖のポロシャツやロングTシャツなどであり、猛暑であってもわずかに袖をたくし上げる程度なのだ。
愛里の脳裏に蘇るものがあった。
「もしかしたら……そう、中学の卒業アルバムだった。運動会の写真で、半袖体操着姿の堀口くんが、左肘にサポーターを巻いていたわ」
しかし愛里には、堀口の左肘のサポーターをじかに見た、という記憶がない。
「悔いても悔いても悔やみきれない。わたしと流海は、あろうことか、親子で堀口くんの心と体に、癒えることのない傷をつけてしまったんだ」
厳かに語った野島が、堀口に向かって深々と頭を下げた。慚愧に堪えないのか、かすかに震えている。
そんな二人の傍らで、愛里は呻吟した。
「えっと……つまり……堀口くんがサポーターを巻いていたのは……夏でも長袖でいたのは、傷があるため? 手鏡を坂田骨董店に置く相談をしたときに、本当にその場にあたしもいたの? いったい、どういうことなの? なぜ……どうして思い出せないんだろう」
「宮下さん、顔色が悪いよ。もう行こうか」
堀口が愛里の顔を覗いた。
「うん」
愛里が頷くと、堀口は野島に顔を向けた。
「宮下さんに見てもらおうと思って、例の手鏡を持ってきているんです。車の中にありますが、どうです、ぼくたちの用が済んだら、野島さんが引き取りませんか? 流海さんの形見だし」
だが、顔を上げた野島は首を横に振る。
「流海にあげたものだし、その流海がいらないと言ったんだ。遠慮しておくよ」
「そうですか」と返した堀口が愛里を見た。「じゃあ、宮下さん、行こう」
堀口に促された愛里は、野島に頭を下げる。
「おじ様、失礼します」
愛里に続いて、堀口も会釈した。
「流海に会いに来てくれて、ありがとう」
悲しみを押し殺した声だった。
「あ……」歩き出そうとした堀口が野島を見た。「今日の宮下さんは、自分の実家に内緒で来たんです。ここで彼女に会ったことは、ご内密に願います」
「そうだったのか。わかったよ」
野島は静か答えた。
一陣の風が吹いた。
愛里と堀口は流海の墓をあとにした。
二人が駐車場に戻ると、堀口のレンタルしたコンパクトカーから少し離れた位置に、一台の高級外車が停まっていた。野島の車に違いない。運転席にスーツ姿の中年の男が乗っていた。おそらく野島個人に雇われた運転手なのだろう。たとえ社長職を退いても、野島の日常は分相応なのだ。
高級外車の運転席で新聞を読んでいる男は、こちらを見ようともしなかった。愛里も堀口もその高級車から目を逸らし、コンパクトカーに向かう。
「ある場所で手鏡を見せる、って言ってくれたけど、この次はそこへ行くんでしょう?」
愛里は助手席のドアを開けながら尋ねた。
「ああ。まだ昼前だし、すぐに行こう。車なら十分以内で着けるよ」
運転席に着いた堀口が答えた。
「例の手鏡って、流海のお父さんが中国で買ったものだったんだ……」
つぶやきながら助手に着こうとした愛里は、何気なく後部座席に目をやり、肝心なものがないことに気づいた。線香などが入っている紙バッグがあるだけだ。
「えっと……」
愛里はくまなく視線を走らせた。
「手鏡を探しているのかい?」と堀口が失笑した。
「持ってきた……って、うそだったの!」
愛里は声を荒らげ、堀口を睨んだ。
「ちゃんと持ってきたよ」堀口は静かに返した。「銅鏡だし割れ物ではないけど、革の袋に入れて、そのうえでバッグに入れてある。ラゲッジルーム……車内の一番後ろに置いてあるよ。後ろの座席にそのまま置いたら、鏡恐怖症の君が落ち着けないじゃないか」
「そうだったんだね。ごめんなさい。ちょっと気が立っちゃっていて」
愛里は詫びると、そっとうつむき、助手席に着く。
「ぼくが仲間たちのことや流海のお父さんを非難したから、だろう?」
堀口は問うと、車を発進させた。
「うん。だって、あんな言い方、堀口くんらしくないもの」
顔を上げずに答えた。
「そうかもな。ほかに言い方があったかもしれない。ぼくのほうこそ悪かった。ごめん」
正面を向いたまま、堀口も謝罪した。
「ううん」愛里は顔を上げた。「もういいの。けど、仲間たちの間で、手鏡を巡っての騒動があったのは、本当なんでしょう? しかも、警察にさえ話せない騒動だなんて。堀口くんと流海が、それぞれ、おじ様にまで口止めしていた……っていうのも衝撃だったよ」
「時機が来れば警察に話してもかまわない。とにかく、手鏡を巡っての騒動は、本当にあったよ。十年にも渡って続いた騒動さ。表面上は仲よし五人組……いや、そんなふうには見られていなかったかもしれない。とにかく、水面下では際どい駆け引きがあったんだ」
「そんな……だって、今年の暑気払いだって楽しくやったじゃない。あれも、上辺だけの付き合いだったの?」
なんとか否定したかったが、堀口は神妙な趣を呈する。
「なら……乾杯の直後って、どんな感じだったか、覚えているかい?」
「覚えているも何も、突然、柿沼くんがあたしに告白してきたじゃない。おれと付き合ってくれ……って。あたしはやんわりと断ったけど、柿沼くんはちょっとしつこかった。そうしたら、堀口くんや坂田くんが止めてくれた。そうだよね?」
「違うんだ」
「違う……って?」
愛里は戸惑った。
「あのときの柿沼は、すでにどこかで一杯浴びてきていて、かなり酔っていたんだ。そして、君に言い寄りながら、君の体に抱きついた」
「うそよ。そんなことはなかったわ」
少なくとも、愛里の記憶にはない。
堀口は言う。
「ぼくと坂田で、君から柿沼を引き剝がしたんだよ。もう大乱闘さ。グラスは倒すし、オードブルの皿はひっくり返すし。……当然、その場はしらけちゃってね。君はずっと怯えていたけど、さすがの流海もうろたえていた」
「だって、今年の暑気払いは、楽しかったよ」
そう訴えた愛里は、暑気払いの状況を一つ一つ回想しようとした。楽しかったはずなのだ。なのに、記憶はすべておぼろげである。
闇が――鏡の中に現れる深い闇が、静かに愛里を包み始めていた。やはり、何かが狂っている。ショルダーバッグを載せた膝が、束の間、わずかに震えた。
愛里が思い詰めていると、車が赤信号で停止した。
「あれは……」
堀口がルームミラーを見上げながらつぶやいた。
「どうしたの?」
このうえまだ何か問題が生じたのか、と愛里は案じた。
「後ろの車に乗っているのは、あの二人の刑事だよ」
堀口は告げると、視線を正面に戻した。
「え?」
動揺しつつ、愛里もルームミラーで見定めようとするが、助手席の角度ではどうあがいても無理だ。とはいえ、バニティミラーやサイドミラーを使えば、自分が映り込んでしまう可能性がある。
仕方なく、こっそりと振り向いた。
一台のセダンがすぐ後ろに停まっていた。よく見ると、運転席でハンドルを握るのは小野田巡査部長であり、助手席に乗っているのは佐々木警部補だ。二人の刑事は愛里が振り向いたことに気づいたらしく、さりげなく顔を背けた。
「どうするの?」
愛里は堀口に顔を向けた。
「どうもしないさ。逃げる必要もないし。それとも、アクション映画張りにカーチェイスとか、やってみるかい?」
「ふざけないでよ。あたし、まだ死にたくない」
「なら、ついてこさせるまでさ」
信号が青になり、堀口は車を発進させた。
この先の成り行きがまったく読めず、愛里は問う。
「刑事さんたちにも、手鏡を見せるの?」
「柿沼がほしがっていたものが何か、それを捜査しているみたいだし……黙っていても車の中を改められるかもしれない。そうなる前に見せたほうがいい、と思うよ」
「そういえば、坂田くんの妹さん……あきちゃんが刑事に訊かれて、坂田くんが持っていた何かを柿沼くんがほしがっていたみたいだ、って答えたらしいわ」
「やっぱりね。なら、図星だ。それはそうと、警察の車につけられると、違った意味で緊張するな」
堀口は眉を寄せた。
「交通違反でつかまるかもしれない、っていうこと?」
「そうだね。もっとも、彼らは交通機動隊ではないもんな……」
そう答えるが、堀口はこれまで以上に速度を慎重に維持した。
「あの刑事さんたち、どこまでもついてくるつもりなのかな?」
愛里は憂慮した。これから複雑な事情を聞かなければならないのに、警察にまで介入されたら、混乱してしまうかもしれない。
「おそらく、ちょっとやそっとのことでは止めはしないさ。これからぼくたちがどこへ行くのか、気になっているんじゃないかな。しばらくは、ついてくるはずだよ。とにかく、柿沼の犯行の動機を知りたいんだし」
案の定、堀口が次の交差点で車を右折させると、小野田の運転する車も右折してついてきた。
「あの刑事さんたち、なんだか感じが悪い」
振り向き、愛里は言った。
「彼らも必死なんだよ。事件を解決するためには、こんな泥臭い仕事を積み重ねないといけない。それが彼らの職分なのさ」
そんな物言いが癪に障り、愛里は堀口を睨む。
「堀口くんは警察の味方なの?」
「敵も味方もないだろう。彼らは、事件を解決したい、と思っているだけだよ。一応、警察なんだし」
「だって……小野田さんっていう刑事なんて、とても威張り腐っていて、横柄で、なんだかやくざみたいだし」
「やくざ?」
「堀口くんは、そう思わない?」
「まあ……そんな感じがしなくもないね」
と言うなり、堀口は噴き出した。
何がおかしいのか理解できず、愛里は憮然とした。
やがてコンパクトカーは、一級河川の河川敷公園に入った。
それと同時に、愛里の脳裏に当時のここでの様子が蘇った。
堀口の言ったとおり、ここは小学生の頃に仲間たち五人でよく遊んだ場所だった。小さな野球場があり、滑り台やジャングルジムなどの遊具が据えてある。風景は概ね当時のままだ。
アスファルト敷きの駐車場には横一列に並ぶ十台ぶんのスペースがあり、堀口の運転するコンパクトカーが一番手前の枠に収まると、小野田の運転するセダンは一番奥に停まった。駐車場にある車は、この二台だけである。見渡すが、ここにも人影はなかった。
「いつもここで遊んでいたこと、思い出したよ」
そう告げた愛里が車を降りてショルダーバッグを肩にかけると、やや遅れて降りた堀口が、車の真後ろに回り、バックドアを開けた。
「できれば、これのことも思い出してほしいな」
堀口の言葉を受けて、愛里は緊張した。
ラゲッジルームの端に、スポーツバッグが一つ、ぽつんと置いてあった。堀口はそのスポーツバッグの中から一つの革袋を取り出す。
灰色の平べったい革袋は、長さが三十センチほど、幅は二十センチほどだった。巾着状の口は閉じてあり、紐が結ばれている。
愛里は固唾を吞んだ。この革袋の中に、問題の手鏡が入っているのだ。
車のドアを閉じる音が、二回、連続した。
革袋を片手に持ったまま、堀口はそちらに顔を向けた。
つられて、愛里も顔を向ける。
二人の刑事はセダンを降りていた。揃ってその車の脇に立ち、こちらの様子を窺っている。
「そんなところに突っ立っていないで、こっちに来たらどうです。柿沼のほしがっていたものを持ってきましたよ」
堀口は右手で革袋を掲げ、軽く振った。
二人の刑事が歩いてくる。
「人をからかうのも、いい加減にしろよな」
堀口の前で立ち止まった小野田が気色ばんだ。
「小野田」
佐々木が小野田の片腕を引き、後ろに下がらせた。
「この革袋の中に、柿沼のほしがっていたものが入っています。ちゃんとお見せしましょう。しかしその前に、彼女……宮下さんに話さなければならないことがあります。彼女にちゃんと理解してもらうために、ここに来たんですから」
堀口はそう告げると車のバックドアを閉め、愛里を見た。
佐々木と小野田にも見つめられ、愛里は肩をすぼめる。
「ちゃんと理解してもらう、とは?」
堀口に顔を向け、佐々木は尋ねた。
「宮下さんには、取り戻さなければならない過去があります。つまり、失ってしまった記憶を取り戻す、ということです」
「記憶喪失……」
佐々木の後ろでつぶやいた小野田を一顧し、堀口は言う。
「記憶喪失といっても、失われた記憶は部分的なものです。そして、彼女の失われた記憶の一つ一つを、このぼくは把握しています」
「把握している?」
声を漏らしたのは佐々木だが、愛里も啞然とした。
「ここは、坂田や柿沼、流海、宮下さんたちと、小学生の頃によく遊んでいた場所なんです。ここで話せば宮下さんが記憶を取り戻しやすい、と考えました」
「墓参りついでのデートではなかった、そういうわけですな」
納得したのか、佐々木は頷いた。
「刑事さん、あたしたち、恋人同士じゃありませんよ」
愛里は慌てて言った。こんな感じの悪い刑事たちに誤解などされたくない。
「これからぼくが宮下さんに話すことには、捜査の進展に役立つ情報がある、と思います。よろしければ、刑事さんたちにも聞いていただきたいですね」
毅然とした態度で堀口は申し出た。
「事件に関することであれば、ぜひ、お聞かせ願いたいですが……どうして事情聴取で話してただけなかったんでしょうね?」
佐々木は静かに返した。
「手鏡が関連しているなんて、あの時点では思いも寄らなかったわけです。思い出すことができてよかったですよ」
堀口は不適な笑みで主張するが、愛里は悟った。事情聴取における吐露の自制を促した堀口の意図は、このときのためにあったのだ。いわくつきの場所で手鏡を披露する、という機会を得るまでは、警察の横槍は弊害だったに違いない。
「思い出せた、ですか」佐々木は堀口から目を逸らさない。「そちらにとってもこちらにとっても、都合のいい話ですな」
「ぼくだって人間です。完璧じゃありませんよ」
「完璧じゃない、と来ましたか。……まあいいでしょう。思い出したうえに、捜査に協力してくださるんですから」
呆れ顔で佐々木は言った。
「ただし、中には一般常識では信じられない話もあります。まあ、どう受け止められてもかまいませんけどね」
堀口が補足すると佐々木は苦笑した。
「超常現象、とかいうやつですか?」
「さあ、どうでしょうね。で……」と堀口は愛里を見つめた。
緊張した愛里は、ショルダーバッグのベルトを握る左手に、思わず力を入れてしまう。
「この話を聞けば、宮下さんは、もうぼくの友達ではいられなくなるだろう」
哀感を帯びた瞳で、堀口は言った。久しぶりに見せる感傷的な表情だ。
「意味がわからないよ。どういうことなの?」
今さら、真相を知るのが怖くなった。
「ぼくは……」堀口は言った。「ここに来る前に、仲間たちや野島さんを散々非難した。そして今度は、君を悲しみと恐怖のどん底に突き落とすんだ」
流海なら絶対に隠し通すであろうことを、堀口は暴露するに違いない。
愛里は逃げ出したかった。
遠くを見つめる堀口は、今にも口を開こうとしている。
もう、逃げられない。
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