第三章

 十月に入ると、さすがに残暑も影を潜めた。

 秋晴れの下、爽やかな風がビル街を抜けていく。

 デパートが開くにはあと一時間ほど待たなければならなかった。日曜日とはいえ、人出はまだ少ない。閑散とした都会の一角だが、鬱屈した気分を晴らすには、ちょうどよい散策である。

 この日の愛里は、少々大人びたパンツルックススタイルで決め込んでいた。おそるおそる、ビルのガラスに映った自分の姿を一顧する。わずかな寒気が走ったが、薄手のジャケットとのコーディネートは悪くない。久しぶりに持ち出したカジュアルバッグも、冴えて見える。

 駅前を横切り、ビル街の外れにある公園に入った。

 ジョギングで軽く息を弾ませる人々、マイペースでウォーキングを楽しむ人々。日曜日の早朝は、駅周辺のビル街よりこちらのほうが賑やかである。

 石畳の歩道をのんびりと歩いた。このままビジネス街を迂回して駅の近くに戻れば、ちょうど、デパートや地下街の開く時間だ。

「宮下さん!」

 声をかけられたのは、公園内の池の畔に差しかかったときだった。

 振り向くと、ビジネススーツ姿の堀口が花壇の間の歩道を小走りにやってくるところだった。

「あれ、堀口くん?」

 きょとんとする愛里の前で、堀口は立ち止まった。

「こんな朝早くに、お出かけかい?」

 ビジネスバッグを小脇にかかえた堀口は、愛里の目にはとても精悍に映った。

「うん……ちょっと気晴らし。堀口くんは日曜日なのに仕事なの? っていうか、会社、こっちだったっけ?」

「取引先の都合で、月曜日のはずだった打ち合わせが今日になっちゃってさ。休日出勤だよ。今からその取引先へ行かなくちゃならないんだ。……まあ、打ち合わせといっても、先輩の横に座って聞いているだけなんだけど」

 堀口は答え、ため息をついた。

「大変ね。じゃあ、流海は今日は一人なの?」

「一人というか、部屋で休んでいるよ」

 暗い表情を呈した堀口を見て、愛里は憂える。

「体調が悪いの? そういえば、今度の週末はちょっとゆっくりしたい、って流海は言っていたけど」

「坂田が殺された事件以来、どうも精神的に参っているみたいなんだ。三日くらい前から、さらにひどくなった感じでね。明日は仕事を休んで心療内科へ行くそうだよ。もしかしたら、一週間くらいは休むかもしれないな」

「知らなかったよ、そんなにひどい状態だったなんて。昨日も、普通にメッセージのやり取りをしていたんだよ」

 爽快だった気分が、一気に沈んでしまった。

「流海はさ」堀口は言う。「弱い自分を見せたくないみたいだし、無理しているんだよ。本当は結構もろいんだ。坂田の葬儀のときだって、流海はずっと震えていて、声も出せなかっただろう。そのうえ柿沼はまだ逃亡中だし。柿沼は、おそらく手鏡――」

 と言葉が切れた。

「え、手鏡?」

 絶対に何かを隠している――愛里は堀口から目を離さなかった。

 困却の表情で堀口は続ける。

「いや……とにかく流海は、当分は落ち着けないだろうな。君も同じなんだろうけど」

「あたしは全然平気だよ」愛里はかぶりを振った。「ところで、流海のところへ行っても大丈夫かな?」

「そうだね。君が訪ねたら、きっと喜ぶよ。じゃあ、ぼくは行くね」と軽く手を振り、堀口は立ち去ろうとした。

「堀口くん」

 思わず、愛里は呼び止めた。

「なんだい?」

 振り向いた堀口を、愛里は見つめる。

「あたしね、ずっと気になっていたんだけど、手鏡って、なんのこと? 今、言いかけたじゃない」

「え……」

 堀口の表情が固まった。

「文化センターで事件の話をしていたときにも、堀口くんは、あの手鏡、って言いかけたでしょう」

 あの日以来、流海は明らかに「鏡」という言葉を避けていた。ならば、言いかけた本人に訊くのが得策だろう。

「ああ……手鏡ね」

 堀口は言葉を濁した。

「あたしには関係のないことみたいだけど、気になっちゃって」

 流海のいないところで尋ねるのは心苦しかったが、こんな機会は滅多に訪れない。

「宮下さんは」堀口は表情を引き締めた。「坂田骨董店にあった手鏡……ちょっと派手な手鏡なんだけど、知らないかな? 坂田骨董店には、子供の頃、みんなでよく遊びに行っただろう?」

「坂田骨董店にあった手鏡……けど、昔の話でしょう?」

「まあ、かなり昔の話だね」

「うーん」

 愛里は記憶を辿った。坂田家の自宅兼店舗である骨董店には何度か入ったことがあるが、何しろ小学生の時分だ。陶器や掛け軸など、陳列されてあった古ぼけた骨董品にはまったく興味がなかった。しいて言えば、セルロイドの人形やソフビ製の怪獣の人形、ブリキのロボットなどが気になった程度である。

「やっぱり、知らないよな」

 堀口は微笑むが、愛里の心は寂寞とした。

「あたしだけが知らないことなんだね」

 笑ってごまかそうとしたが、声が沈んでしまう。

「気にすることはないよ。宮下さんは、たまたまかかわらなかっただけさ。それに、宮下さんは鏡が苦手だから、流海が気遣っていたんだよ。みんながその手鏡の話題にふれることがないように……ね」

 愛里は「うん」と頷いた。流海ならばそんな心配りをするだろう。

「そういえば」ふと思い出し、愛里は尋ねる。「骨董店で柿沼くんが坂田くんに、昭和の何かを返せ、って怒鳴っていたらしいけど、もしかしてその手鏡のことかな? 昭和に作られた手鏡、とか?」

「昭和? 見ただけじゃわからないけど、昭和どころか、あれはもっと古い品、ということらしいよ。坂田も柿沼も、それを知っているはずだな」

 堀口は首をひねった。

「じゃあ、違うのか。目撃者の聞き違いだね」

 自分の情報は当てにならない――と愛里は肩を落とした。

「聞き違い……あ、なるほど」

 堀口は独りごちた。

「え、何?」

「いや、なんでもない。それじゃあ、今度こそ本当に行くよ。この先で先輩と待ち合わせしているんだ。大きな得意先だし、遅刻できない」

 腕時計を見ながら、堀口は苦笑した。

「急いでいるのに、手鏡のことなんて訊いちゃってごめんね。お仕事、頑張ってね」

「ありがとう。流海のこと、頼むよ」

 二人は手を振って別れた。


 流海の住んでいるマンションはセキュリティーが高く、外来者は訪問先の住人による三重のチェックを受けなければならなかった。エントランスで最初の確認を受け、一階のエレベーター前では二度目の確認を受け、最後に住戸の玄関前での確認があるのだ。

 玄関のドアを開けた流海は、普段着だった。

 少々やつれた様子の流海を見て、愛里は傷心した。

「ごめんね、流海の具合が悪いのに、のこのこと来ちゃって」

「ううん。来てくれて嬉しい。ありがとう」

 流海は笑顔で愛里を迎え入れた。

 リビングに通された愛里は、真っ先に窓辺に寄る。

「いつ来ても思うんだけど、壮観よね、十二階からの眺めって。アパートの二階……あたしの部屋なんて、もう全然……」

 愛里は自嘲するが、流海は首を横に振る。

「周りも同じようなマンションやビルばかりだもの。すごいと思ったのは、初めのうちだけだよ」

「そうかなあ」と返し、愛里は手土産の箱を掲げた。「ケーキを買ってきたんだ。一緒に食べようよ」

「なるほどね。どうりで遅いと思ったんだ。すぐに行くよ、ってメッセージが届いて、もう一時間だもん」

「お店がまだ開いていなかったの」

 愛里は苦笑すると、テーブルに箱を置いた。

「じゃあ、紅茶にするよ。ソファーにかけていて」

 流海に促され、愛里はソファーに腰を下ろした。

「愛里のメッセージにあったけれど、拓也に会ったんだね?」

 キッチンに向かいながら流海が尋ねた。

「そう。休日出勤なんだってね」

「今までは休日出勤なんて滅多になかったでしょう。けれど、部署が変わってからは、なんだか忙しいみたい」

 流海は言うと、ポットに水をそそいだ。

「そうか、堀口くんの部署が変わったんだったね。こんなときこそ一緒にいてあげてほしいのになあ。まあ、仕事が忙しいのなら仕方ないか。……ところで、堀口くんが言っていたけど、明日は心療内科へ行くんでしょう?」

「そうだけれど……さ」

 流海の動きが止まった。

 愛里の位置では、流海の表情は窺えない。

「流海?」

 ソファーに腰を下ろしたまま、愛里は流海の背中に声をかけた。

 振り向きもせず、流海は問う。

「ねえ愛里、拓也からほかに何か聞いていない?」

「何か、って……」

 戸惑いを隠そうとするが、声が震えた。

「手鏡のことよ」

 流海がわずかに顔を向けた。人形のごとく、表情がない。

 愛里は口を開きかけたが、声が出なかった。

「聞いたんでしょう?」

 不自然なほど穏やかな声で、流海は答えを要求した。

 隠す必要などないのだ。後ろ暗いことなど、何もしていないのだから。とはいえ、堀口が先に言いかけたことは、口にしないほうがよいだろう。堀口を悪者にする必要もない。

「あたしから尋ねたの。だって、ずっと気になっていたんだもの」

 愛里が答えると、流海はため息をつき、正面を向けた。

「で、拓也はなんて答えたの?」

 冷ややかな面持ちだった。

「坂田骨董店にあった手鏡のことだって。けど……そんな手鏡、あたしには全然わからないの」

「本当に、愛里は手鏡のことを知らないのね?」

 念を押された愛里は、首を縦に振る。

「うん、本当に知らない」

「そう」

 流海は愛里の顔を見つめていたが、やがて何事もなかったかのようにポットの電源を入れた。これ以上は、その話題にふれるつもりはないらしい。

 話の展開を期待していた愛里は、いたたまれなかった。やはり、自分だけが蚊帳の外なのだ。

「その手鏡って、あたし以外のみんなは知っているんでしょう? 流海や堀口くんだけじゃなく、柿沼くんや……死んじゃった坂田くんも……」

 すがりつく思いで尋ねた。

「愛里」流海は背中で言った。「誰にだって、思い出したくないことってあるじゃない。拓也がそこまで話しちゃったのなら、それはそれで仕方がないけれど、骨董店にあった手鏡のこと、わたしは忘れたいの。だから……ね、お願いだから、もう訊かないで」

 流海の肩がわずかに震えていた。

 これ以上は追及できない。ましてや、流海は精神的に弱っているのだ。

「うん、わかった。しつこく訊いちゃって、ごめんね」

「わかってくれたのなら、もういいの。……それより、ケーキ、楽しみだな。ねえねえ、どこのお店で買ったの?」

 ティーカップを戸棚から取り出したときの流海の表情は、穏和だった。

「ほら、そこの駅前に新しくできたお店よ」

「ああ、聞いたことある!」

 声を弾ませる流海が、どことなく痛々しかった。

「そうそう。そこで一番人気のケーキを買ったんだよ」

 愛里は流海との時間を楽しむことにした。

 しかし、友人であればこそ、納得できるわけなどなかった。


 月曜日の昼下がり――小雨の空模様は朝から続いていた。

 流海は心療内科からの帰路であり、傘を差してマンションへの道を歩いていた。

 天気の影響もあるのだろうが、何もかもが重かった。気を抜くと倒れてしまいそうである。ハイヒールにしなければよかった――と後悔した。

 ブランド品のショルダーバッグに雨滴がかかっていたが、そんなことはどうでもよいと思えた。うつむいたまま、水たまりを避けもせずに歩き続ける。

 心療内科では軽度のPTSDと診断された。すぐに職場に電話を入れ、今週いっぱいは休養を取る、と伝えた。大きな仕事が片づいたとことろであり、心身ともに疲れを癒やすには、よい機会だったのかもしれない。

「野島」

 路地に入ってすぐ、流海は声をかけられた。

 顔を上げると、すぐ目の前に、一人の男が傘も差さずに立っていた。ナイロンジャケットにジーンズという姿で、サングラスをかけている。ほかに人影は、ない。

「まさか」

 流海は硬直した。

 その隙に、男が傘の下に入る。

 傘の柄を握る流海の片手を男の片手が握った。強くて大きな手は、濡れそぼっている。

「久しぶりだな」

 男はそう言うと、残った片手でサングラスを外し、ジャケットのポケットに入れた。

「柿沼くん」

 無精ひげに覆われた顔だが、細い眉と三白眼は、間違いなく柿沼大輔である。

「傘、持っていないんでね。悪いんだけど入れてくれないか? いいじゃん、相合い傘っていうのもさ」

 ずぶ濡れの柿沼が、せせら笑った。

 流海は顔を背ける。

「なんの用なの?」

「今日は仕事じゃなかったみたいだな。ま、そんな格好で出かけるんだし、会社に行くわけがないか」

 チュニックとスキニージーンズ、という出で立ちを見下ろしながら、柿沼は言った。

 傘からはみ出た流海のショルダーバッグを無情にも雨が叩いていた。牛革に染みが広がっていく。

「何時間もずっと探していたんだよ」柿沼は続けた。「おまえの……野島のマンションをな。土地鑑がなくてさ、道に迷っちまったんだ。途方に暮れていたら、野島本人が歩いてくるじゃん。とにかく、お早めのご帰宅で助かったよ。こんな天気だし、警察に追われている身ではあるし」

 柿沼はそう言うと、顔を近づけた。

「やめてよ」

 突き放そうとするが、力の差がありすぎる。

「な、野島よ。おれが坂田を殺したの、知っているだろう?」

 歯を磨いていないのか、柿沼の口臭はきつく、ヤニ臭くもあった。そのうえ、汗のにおいも漂ってくる。

「テレビのニュースで見たわ。ネットでも調べたし」

 顔を背けたまま答えた。

「テレビに出られるほど、おれも有名人になったわけだ。なら、そのおれがなんでここに来たか、野島にはわかるはずだ」

「匿ってもらいたいの?」

「ふざけんな」柿沼は小声で威嚇した。「あれだよ。あれを渡せ」

「あれって、何よ?」

 顔を背けつつも、流海は横目で柿沼を睨んだ。

「とぼけんじゃねーぞ。このおれを散々こけにしておいてよ。あれで大金を作って、この国ともおさらばするんだ」

「逃げられるわけないでしょう。もうどこにも逃げられないのよ。今すぐ、わたしと一緒に警察へ行こう」

 刺激したかもしれない――と気づいたときには、柿沼の顔に激憤が表れていた。

「なめんなよ」

 流海の手を握る柿沼の手に力が入った。

「痛い……」

 流海が顔をしかめると、柿沼は口を引きつらせて笑った。

「痛いか? だが、坂田はもっと痛かった、と思うぜ」

「どうして坂田くんを殺したの?」

 理由は想像できたが、自分で蒔いた種だと思えばこそ、真相を把握しておきたかった。

「知っていて訊くのかよ。……いいさ、教えてやる。あのお宝を譲ってもらうために坂田の店まで行ったんだ。なのにあいつは、もう野島に売ってしまった、って言うじゃないか。あれを買うっていう話は、おれが先に持ちかけたんだぞ。だから殺したんだ。……宮下だって、おれの女になるはずだったのに。まったく、ことごとくパーだぜ」

「あれは宝なんかじゃないし、柿沼くんのものでもないわ。愛里だって、柿沼くんにとってはただの友達なのよ。愛里のことを品物のように言わないで」

「おまえだって、みんなを品物……いや、所有物のように扱っていたじゃねーか。それにおまえは、一度はおれの女になったんだ。きれいごとなんて言えないはずだ」

「あなたが強引に押し倒したんでしょう」流海は涙を流した。「それに何度も何度も、わたしに……いいえ、わたしと堀口くんに頭を下げたくせに。本当だったら犯罪なのよ」

 あのときの屈辱は自分に油断があったためだ。しかし今の柿沼は、暴走の度を超えている。

「なら、前科二犯っていうことなんだろうが、ま、とにかくあれを渡してくれや。おれの大事なお宝……呪いの手鏡だ。どうせ野島には興味のないものなんだろう? ここではなんだし、野島の部屋でゆっくりと話し合おうじゃないか。久しぶりに、おまえの体を楽しむのもいいしな。堀口だけの女にしておくのは、もったいない」

 柿沼の目は狂気に満ちていた。

 この男の暴走を止めるには、不意を突くしかない――流海の心も暴走化していた。


 週明けの役務を全うした愛里だが、その実、心境は穏やかではなかった。午後三時の休憩時間――心療内科の診察が終わっているだろう時間に、流海のスマートフォンに電話をかけてみたのだが、呼び出しが鳴るばかりだったのである。昨夜は、流海のマンションから帰ったあと、アパートでメッセージのやり取りを一往復しただけだ。それも「ケーキ、おいしかったね」といった、たわいない内容だった。

 念のため、終業直後に流海の職場に電話を入れてみたが、やはり、体調不良のため休養中、とのことだった。出勤するのは来週の月曜日からだという。

 定時で退社した愛里は、流海のマンションへ直行することにした。

 どんよりとした空の下、雨上がりの街が、夕暮れを待ち構えている。

 愛里は歩道を歩きながら、ショルダーバッグの中のスマートフォンを取り出した。流海の固定電話に電話をかけてみるが、留守電モードである。

「愛里です。スマホにかけ直すね」とメッセージを残し、スマートフォンにかけ直すが、そちらは話し中だった。

 ショルダーバッグに入れかけたスマートフォンを持ち直し、愛里は立ち止まる。堀口に連絡をしようとしたのだ。堀口ならば、流海の状況に詳しいはずである。

 スマートフォンの呼び出しが鳴ったのは、そのときだった。

 画面に「流海」と表示されている。

「流海、大丈夫なの?」

 愛里はすぐに声をかけた。

 しかし聞こえてくるのは、流海の嗚咽だけである。

「ねえ流海、どうしたの? ちゃんと心療内科に行ったの?」

 愛里の問いかけに対して、流海は答えようとしているらしい。だが、嗚咽が大きくなるばかりで、言葉として成り立っていない。

「流海、落ち着いて」

「う……うん……」

 どうにか聞き取れる程度の返事だった。

「今、どこにいるの?」

「マンションの……リビング……」

 流海の声は、かろうじて言葉になっていた。

「一人なの?」

「ううん」

「堀口くんがいるの? 堀口くんも仕事を休んだのかな?」

「違うの……拓也は仕事だよ」

 鼻をすすりながら流海は否定した。

「誰がいるの?」

「柿沼くん」

「え――」

 愛里は言葉を失った。どう返せばよいのか、思いつかない。

「あ……えっと……」愛里は自分を落ち着かせて言葉を繫いだ。「柿沼くんは、今、何をしているの? おとなしくしているの? あたしが警察に通報しようか?」

「わたしが……警察に通報したよ」

 そう告げると、流海は号泣した。

「流海、しっかりして。柿沼くんは興奮していないの?」

「わたし……わたし……柿沼くんを殺しちゃった」

 泣きながら、流海は言った。

「え、何? もう一度、言って」

 聞き違いをしたのかと思い、愛里は要求した。

「わたし……わたしね、柿沼くんを殺しちゃった。血まみれの柿沼くんが、床に倒れているの。もう、息をしていないし、ぴくりとも動かない。柿沼くん……死んじゃった。だから……柿沼くんを殺した、って警察に通報したの」

「ちょっと……流海……あたし、すぐに行くよ。そこにいてね」

「みんなわたしが悪いの。だから、せめて最後に謝らせて。ごめんね愛里……本当にごめんなさい」

 そこで不意に通話が切れた。

「流海!」と叫んだ愛里はすぐに流海のスマートフォンにかけ直すが、呼び出しが鳴るばかりだった。取り急ぎ固定電話にもかけてみるが、留守電モードのままである。

「最後、って……とにかく、すぐに行かなきゃ」

 自分に言い聞かせて通話を切ると、愛里は駅に向かって走り出した。そして、走りながら堀口に電話をかける。

「宮下さんか?」

 堀口はすぐに出た。

 乱れる息で、なんとか尋ねる。

「今、会社?」

 スマートフォンを耳に当てたまま、前を歩く二人組の女子高校生を追い抜いた。

「残業だったけど、切り上げて退社するんだ。つい今し方、流海に電話したら……」

 堀口の声とともに、街の喧騒が伝わってきた。

「柿沼くんのことを聞いたの?」

「君も流海から聞いたか。君は今、どこにいる?」

「会社を出たばかりで」

「そうか……ぼくはすぐに流海のマンションへ行ってみる」

 堀口の声には焦りが表れていた。

「あたしも、行こうと思って……駅に向かって走っているの」

 息が切れて、これ以上は言葉にならない。

「そうか、わかった。急いでタクシーをつかまえる。駅の前にいてくれ。ハンバーガーショップの辺りがいいな。ちょうど通り道だ。そこで君を拾う」

「うん、わかった」

 通話は切ったが、愛里はスマートフォンを握り締めたまま走り続けた。


 タクシーの中では二人とも言葉を交わさなかった。運転手に聞かれたくないのは、愛里だけではなく、堀口も同じなのだろう。

 マンションの前でタクシーを降りると、敷地の周辺に黄色のロープが張り巡らされてあった。門の前には四台のパトカーが赤色灯を回して停まっており、二人の制服警察官が警備に当たっている。

 報道陣らしき姿はまだ見当たらないが、日の暮れかけたマンションの周囲は、野次馬でごった返していた。

「もう警察が来ているよ」

 愛里は野次馬の背後で足を止め、堀口に言った。不安の余り、動悸が鎮まらない。

「うん。警察官に訊いてみる」

 答えた堀口が、野次馬をかき分けた。

 鎮まらない動悸を気にしている場合ではない。愛里は堀口の背中を追う。

 そんな愛里を伴い、堀口は、警備につく警察官の一人に近づいた。

「ぼくたち、関係者なんです。中に入れてもらえませんか?」

「関係者? どういった関係なんです?」

 三十代とおぼしき警察官が、堀口を怪訝そうに見た。

「ああ、待て。おれが応対する」

 と言いながら、スーツ姿の太りぎみの男がロープをくぐって出てきた。

 愛里には覚えのある顔だった。アパートに聞き込みに来た二人組のうちの一人、佐々木警部補である。

 愛里と堀口は佐々木に先導され、野次馬の後方へと移動した。

 路地の端で立ち止まった佐々木が、定年間近とも思える風貌を愛里と堀口に向ける。

「えーと、堀口さんと宮下さん、でしたね」

 堀口が「はい」と答えた。

「事件があったのをご存じで?」

 佐々木は少なめの髪をなで上げながら、なめらかな口調で尋ねた。

 流海を貶めたくはなかったが、愛里は割って入る。

「流海から……野島流海から電話があったんです。柿沼くんを殺してしまった、警察には通報した、と言っていました」

「その直前には、ぼくが流海と電話していました。流海は、ぼくにも同じことを言っていました」

 堀口も事情を説いた。

「なるほど」佐々木は頷いた。「飛び下りる前に、あなたたちと話していたんですね」

「飛び下り……って?」

 堀口が佐々木に詰め寄った。

「野島流海さんはね、自分の犯行を警察に通報し、そしておそらく、あなたたちに連絡を入れたあとに、自分の部屋から飛び下りたんですよ」

 仕事柄慣れているのか、佐々木は淡々と事情を説明した。

「じゃあ」愛里は佐々木の顔を見つめた。「流海は?」

「残念ですが……」

 ため息をつき、佐々木はうつむいた。

「流海は……」

 続く言葉を、愛里は見つけられなかった。


 流海の遺体の身元確認には、流海の家族と堀口が立ち会った。遺体の損傷が激しいために、愛里は遺体安置所に入れてもらえなかったのだ。一方、柿沼の遺体の身元確認は、柿沼の家族の到着が遅れるという理由で堀口一人に任された。

 流海と柿沼、双方の遺体を確認した堀口は、精神的にかなりのダメージを受けている様子だった。しかし、そんな堀口を慰めてやることさえ、愛里には不可能だった。坂田や柿沼が命を落としたのも衝撃だったが、もう二度と流海に会えない、という悲しみがあまりにも大きすぎたのだ。


 その夜、愛里はベッドで泣きじゃくった。

「流海……流海……流海……」

 うつぶせになり、枕に顔を押しつけて、一再ならず流海の名前を呼んだ。

 なぜ柿沼が坂田を殺害し、なぜ流海が柿沼を殺害せねばならなかったのか――今はどうでもよいことだった。たとえ原因が判明しても、流海は帰ってこないのだ。

 愛里にとって流海は姉のような存在とも言えた。何事においても常に愛里の先に立ち、愛里を導いてくれたのである。

 そして、流海はいつでもそばにいてくれた。


 愛里は何も悩まなくていいんだよ。

 嫌なことなんて忘れちゃいなさい。

 大丈夫、わたしがついているからね。


「もっと言ってよ。優しい言葉を、もっとたくさん言ってよ。あたしを守ってよ。いつも一緒にいてあげるよ、って言ってくれたじゃない……」

 慟哭が止まらず、哀惜で胸が張り裂けそうだった。自分の人生のすべてを失ってしまったかのような、そんな気さえした。

「あたしも彼氏を作って、たくさん自慢したかったのに。こんなのって……こんなのってないよ。あんまりだよ……ひどすぎるよ……」

 どうにもならないとわかっていても、感情の嵐が収まらない。

 夢であってほしい、と願った。

 うそであってほしい、と願った。

 スマートフォンと固定電話、個々の呼び出しが何度か鳴ったが、愛里は無視した。誰とも話したくなかったし、たとえ電話に出たとしても、まともな会話はできなかっただろう。

 やがて、泣いているうちに、愛里は眠りについた。

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