第二章
定時で退社した愛里は、同じ職場の女子社員ら三人とともに駅に向かって歩いていた。
残暑が厳しいとはいえ、日没は日に日に早まっており、この日もすでに、西のビル街の輪郭が夕焼けに彩られていた。
駅ビルの前で三人と別れた愛里は、夕食の惣菜を買うため、地下街の出入り口へと向かった。地下街に入ればこの暑さを回避できる、と思うと、つい急ぎ足になってしまう。
スマートフォンの呼び出しが鳴ったのは、雑踏のまっただ中、地下街の出入り口に差しかかったときだった。ショルダーバッグの中のスマートフォンを取り出した愛里は、行き交う人々を避けて歩道の端に寄る。
画面に「流海」と表示されているのを確かめ、通話ボタンをタップした。
「はいはーい」
いつもの調子で愛里は電話に出た。
「もしもし……ねえ愛里、今、どこにいる? 職場?」
流海の声は、落ち着きを失っていた。
「今は駅ビルのそばだよ。買い物があるし、いつもの地下街へ行こうとしていたの」
「なら、ここに近いね。わたし、拓也と一緒にいるんだけれど、今すぐ会おう」
堀口が一緒である――と知り、愛里は逡巡した。仕事帰りに当てつけられるのは、どうにも気が進まない。ましてや、時間に余裕がないのだ。
「けど、買い物を済ませないと」
「買い物だなんて言っている場合じゃないでしょう。……もしかして、ニュース、見ていないんだ?」
「え、何?」
「とにかく、会ってから話すよ。駅ビルの東に文化センターってあるでしょう。そこの一階ラウンジにいるよ。急いで来てね」
言い立てた流海は、一方的に通話を切った。
「なんなの?」
これではあまりにも横暴だ。流海の言葉に従ってばかりの愛里でさえ、さすがに憤りを感じてしまう。
だが今の流海の様子では、ただならぬ事態の可能性がある。
愛里はスマートフォンをショルダーバッグに入れ、文化センターへと足を向けた。
五分とかからず、愛里は文化センターの一階に入った。多目的ホールや会議室などが詰め込まれたビルだが、一階のほとんどのエリアはラウンジで占められている。
急ぎ足で辿り着いた愛里はじっとりと汗をかいていたものの、冷房が効いているのが救いだった。
それほど混んではいなかった。ソファーで新聞を読んでいるサラリーマンや立ち話をしているOL風の二人組など、仕事帰りらしき姿がちらほらと窺える。
ラウンジの奥に、流海と堀口が立っていた。どちらも職場から直行したらしく、それぞれスーツ姿である。
堀口は百八十センチほどの身長で、凛々しい顔立ちだ。シャイでおっとりとしているが、そんな性格は昔と変わっていない。もっとも、社会人となった今の堀口は、常に流海をリードしていた。流海の恋人たる男ならば、優しいだけでは役不足のはずだ。それなりの気概は身につけたのだろう。社会の荒波が彼を成長させたのかもしれない。彼も都心の企業に就職し、アパートで自炊しているものの、最近は流海の高級マンションに寝泊まりすることが多いらしい。とにかく、流海と堀口、美男美女のこの二人は、どんなに斜に見ても、お似合いのカップルなのだ。愛里の入り込む隙などあるわけがない。
流海が愛里に気づいて右手を振った。
それに応え、愛里も右手を振る。
堀口は電話をしていたらしく、愛里が近寄ると、話を打ち切ってスマートフォンをビジネスバッグに入れた。
愛里が堀口と会うのは先月の暑気払い以来だった。密かな思いは胸に秘め、友人としての笑顔で堀口に声をかける。
「お疲れ様。堀口くんと会うのは、一カ月ぶりだね」
「ああ、そう……だね」
浮かない口調だった。
「愛里」
青ざめた表情で、流海が愛里の前に立った。
「どうしちゃったの?」
二人の顔を交互に見て、愛里は空気の重さを実感した。
「
瞳を潤ませながら、流海は言った。
「えっと……坂田くんって、あの坂田くん? 坂田くんが……え、どうしたの? 坂田くんって、坂田骨董店の、あの坂田くんでしょう?」
親しい友人の顔を思い浮かべるが、話の要点が吞み込めなかった。
「ぼくが話すよ」堀口が流海の横に立った。「ぼくたちがよく知っている坂田だよ。今日の午前十時頃、坂田は彼の自宅の店で死んだ……いや、殺されたんだ」
「うそ」
返せる言葉はそれだけだった。
堀口は続ける。
「昼休みに、社員食堂のテレビでニュースを見ていたら、坂田が刺殺された、って報道されていた」
「人違いじゃないの?」
にわかには信じられず、愛里は堀口の顔を見たまま眉を寄せた。
「人違いじゃないよ。坂田
「柿沼って……柿沼
「ああ。坂田の両親が目撃したんだ。柿沼は店に入ってくるなり、坂田に何やら怒鳴りつけて、挙げ句の果てに刃物で坂田の胸を刺したそうだよ」
「そんな――」
突然の衝撃で声を詰まらせてしまった。
小学生の頃から、坂田茂雄と柿沼大輔は、愛里や流海、堀口らと付き合いがあった。坂田と柿沼はともに地元の商業高校に進み、坂田は卒業後に自宅の骨董店の手伝いを始め、柿沼も高卒で地元の工場に就職した。しかし、盆や暮れなど、都心に出た三人が帰省するたびに、坂田と柿沼は飲み会などのイベントを催してくれた。そんな二人だったのだ。
「今も」堀口が言った。「電話で父さんに訊いていたところだったんだ。やっぱり、事件は本当らしいよ」
「どうして柿沼くんがそんなことを……」
愛里は声を震わせた。
「わからないわ。何しろ、柿沼くんは逃亡しているらしくて」
うつむき加減に流海が答えた。
「逃亡? ……とにかく、柿沼くんが坂田くんを殺したなんて、何かの間違いよ」
どうしても得心がいかず、愛里は堀口を見た。
「しかし、坂田の両親がすぐそばで見ていたんだよ」
そんな堀口の言葉に流海が付け加える。
「そのとき、骨董店には、なじみの客が一人いたそうなの。だから、目撃者は三人。おそらく警察は、居合わせた客に柿沼くんの写真を見せて、確認は取っているはず」
「だって……先月、五人で暑気払いをしたばかりじゃない」
愛里が訴えると、流海はショルダーバッグからスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
「愛里、見て」
スマートフォンの画面が愛里の目の前に突き出された。
インターネットのニュースだった。見出しに「骨董店で殺人・逃亡した容疑者は被害者の友人か?」とある。被害者の顔写真が掲載してあった。えらの張った吊り目の男は、紛れもなく坂田茂雄である。
「坂田くん……」
事件の真相は差し置いても、坂田が死んだのは間違いないらしい。
小学生や中学生の頃の坂田は、少々やんちゃではあったが、仲間たちをいつも笑わせてくれる陽気な少年だった。大人になってからはさすがに落ち着いたが、大人なりに場を盛り上げる力量があり、仲間たちにとっては欠かせないムードメーカーだったのである。
サイトには記事の詳細も記されてあるが、愛里は顔を背けた。
「わかった、もういいよ」
「ショック、だったよね。大丈夫?」
スマートフォンをショルダーバッグに戻しながら、流海は尋ねた。
「うん……ちょっと休ませて」
愛里は眩暈を感じ、目の前のソファーに腰を下ろした。
「柿沼はぼくたち三人のうちの誰かにコンタクトを取ってくるかもしれない」
堀口が言うと、愛里は目を剝いて顔を上げた。
「なら、あたしのところに来るかもしれない」
「宮下さんのところへ行く、って決まったわけじゃないよ」
なだめるように堀口は加えた。
「だって柿沼くんは、先月の暑気払いで……」
言いかけた愛里の顔を覗いた堀口は、察した表情で口を閉ざした。
柿沼大輔こそ、愛里に言い寄ってきた男なのだ。
柿沼が初めて愛里に告白してきたのは、小学五年生のときだった。愛里はその申し出を断った。柿沼はよい友人ではあったが、坂田以上にやんちゃな性格――というより同期の中では最も荒っぽく、愛里の恋人としての理想とは、ほど遠かったのだ。
互いに別の高校に進むと、柿沼本人から愛里に連絡が入ることはなくなった。柿沼が飲み会などを催したときでさえ、連絡は必ず流海を介して届いた。もう諦めてくれたのだ、と愛里は受け取っていたのだ。
しかし先月の暑気払いの席で、柿沼は仲間たちの前で愛里に二度目の告白をした。乾杯の直後だったため、酔った勢いでないのは明白だった。
愛里はやんわりと断った。そのときばかりは柿沼もしつこく食い下がったが、流海と堀口、坂田らが愛里の味方になってくれた。友人たちの手前ということもあったのか、柿沼はなんとか諦め、暑気払いの席を楽しく盛り上げてくれたのだ。
「暑気払いでね」愛里は言った。「あたしは柿沼くんの告白を断ったじゃない。あのあと、柿沼くんは楽しそうにみんなと飲んでいたけど、本当は恨んでいたんだよ。告白を断ったあたしや、あたしをかばったみんなを」
「ありえないよ。柿沼くんもみんなも、楽しくやっていたじゃない」
否定した流海が、愛里の横に座った。
「けど、柿沼くんにとっては、みんなの前で恥をかかされたようなものよ」
床を見つめながら、愛里は反論した。
「ぼくも、流海と同じ考えだな。宮下さんが柿沼を振ったことは原因ではない、と思う」
そう言いきる堀口を、愛里は見上げる。
「じゃあ、どうして柿沼くんは坂田くんを殺したの?」
「あの手鏡――」
「ちょっと拓也!」
流海が堀口の言葉を遮った。
「手鏡」という一言を聞き逃すわけにはいかず、愛里は流海の顔を見る。
「流海、どうしたの?」
「なんでもない。大丈夫だよ」
流海は愛里の肩を片手で抱きながら答えた。
「宮下さん、すまなかった。君には関係のない話だった」
ばつが悪そうに、堀口は目を逸らした。
「それより」愛里の肩を抱いたまま流海が堀口を見上げた。「柿沼くんがわたしたちの誰かに連絡をしてきたら……助けを求めてきたら、どうする?」
「説得して、自首させるべきだろうな。仮に柿沼が真犯人ではなかったとしても、これ以上の逃亡は不利になるだけだ」
堀口が答えると、愛里の肩を抱く流海がその手に力を込めた。
「けれど、柿沼くんは興奮しているはずだわ。いきなり目の前に現れたら、どんなふうに対処すればいいのか……」
流海の言葉を聞いて、愛里は息を吞んだ。
「それも憂慮すべき問題だろうな。もともと気性の荒い男だし、十分に気をつけないといけない。柿沼が目の前に現れたら、とにかく落ち着かせることだ」
そう告げる堀口に愛里は尋ねる。
「堀口くんは、柿沼くんに連絡を取ってみたの?」
「ああ。彼のスマホに何度も電話してみたんだけど、電源を切っているみたいなんだ」
「そうよね」遠くを見る目で、流海は言った。「電源を入れておいたら、警察に居場所を教えることになるものね。柿沼くんは車を持っていたけれど、自宅に置きっぱなしらしいわ。徒歩や電車、バスなどで逃走したみたいよ。もしくは、地元のどこかに潜伏しているのかもしれない」
「柿沼くんは……」愛里はつぶやいた。「本当にあたしのことを恨んでいないのかな」
流海と堀口は否定していたが、思い当たる節はそれだけなのだ。
ふと、愛里は気づいた。愛里の肩を抱く流海の手が、わずかに震えている。常に颯爽としている流海でさえ、容疑者となった柿沼に対しては脅威を抱いているに違いない。
だが、違和感があった。
堀口の発した言葉が、愛里の心にへばりついている。
あの手鏡、とは何か。
アパートに帰宅した愛里は、買ってきた惣菜で簡素な夕食を済ませ、すぐにシャワーを浴びた。しかし、熱いお湯で体を洗い流しても疲れが取れない。
パジャマに着替えてベッドの上の目覚まし時計を見ると、まだ午後九時前だった。とはいえ、テレビを点ける気にもなれない。バラエティー番組で気晴らしなど期待できないし、ニュース番組は怖くて見る気になれないのだ。無論、何も映っていない黒い画面にさえ、顔を向けないようにする。
流海に誘われるまま彼女のマンションに泊まりに行けばよかった、と悔いてしまう。しかも愛里が断ったおかげで、堀口が流海の部屋に泊まることになったのだ。二人が肌を重ね合わせている光景が、脳裏をよぎる。もっとも、堀口が流海のマンションに泊まるのは習慣だ。今さら煩悩に振り回されても、惨めになるだけだろう。
そんなことより気になるのが、文化センターの一階ラウンジで堀口が口にした「あの手鏡」という言葉だ。鏡恐怖症の身であれば気になるのは至当である。事件に関連している可能性があるのなら、なおさらだ。
愛里の関知していないなんらかの事情があるということだ。疎外感はある。だが、仲間たちが愛里を気遣い、「鏡」というキーワードを伏せている可能性はあった。仲間内で愛里の鏡恐怖症を知らぬ者はいないのだから。
寝てしまえば少しは気が楽になるかもしれない。愛里はベッドで横になった。
固定電話の呼び出しが鳴ったのは、その直後だった。
心臓が飛び出すかと思うほど喫驚した愛里は、ベッドから起き出し、おそるおそる電話機のディスプレイを覗く。「母」と表示されていた。
「もしもし、愛里?」
受話器を耳に当てると、母の声がした。
なんと切り出せばよいのかわからず、愛里は戸惑う。だが、事件に関しての話であるのは察しがついた。
「お母さん、坂田くんの事件……聞いたよ」
精一杯の言葉だった。
「大変なことになっちゃったね」
不安げな声音で母は言った。
「本当に柿沼くんが坂田くんを刺したの?」
尋ねるまでもなかったが、自分の気持ちを抑えられなかった。
「坂田さんご夫婦が目撃していたしね。ニュースで言っていた、もう一人の目撃者、っていうのもこの近所の人だったのよ。でね、内容までは聞き取れなかったらしいけど、坂田くんと柿沼くんは何か言い争っていたんだって。昭和のなんとかをよこせ、とかって柿沼くんが坂田くんに怒鳴っていたとか。それだけは聞き取れたみたいよ」
「昭和の? 昭和の骨董品か何か、かな……」
愛里に心当たりはないが、坂田と柿沼はなんらかの品物を奪い合っていたらしい。
「それに」母は愛里の疑問を無視して続けた。「うちの隣の奥さん……
という母の言葉を聞いて、愛里は肩を落とす。
「そうなんだ」
「凶器のナイフは現場に捨てていったらしいけど、なんだか普通に持っていたら違法になるほど大きな刃物なんだってね。ダガーナイフとか言ったかな? それはそうと、坂田くんと柿沼くんって、仲よしな二人だったんでしょう? 愛里だってあの二人とは仲よしだったじゃない」
「そうだけど、二人の間で何があったのかなんて、わからないよ」
「柿沼くんは逃亡中らしいけど、気をつけなさいよ。匿ってもらおうとしてあんたのところへ行くかもしれないし」
憂慮していた問題だけに、愛里は暗然とした。
「やめてよ。本当に怖いんだよ」
「だから、気をつけなさいって言っているの。なんだったら、しばらくはこっちに戻っていなさいよ」
「通勤が大変だよ。片道で一時間半もかかるんだよ」
「事件が解決するまでは、仕事なんて休んでいればいいじゃない」
なんの躊躇もなく告げられ、愛里は顔をしかめた。
「簡単に言わないでよね。何度も就活に失敗して、やっとありついた仕事なんだよ。クビになっちゃうじゃん」
「命と仕事のどっちが大事なの。まあ、こっちはこっちで警察はうろうろしているし、報道関係もごちゃごちゃしているけどね。……あ、お父さんがお風呂から上がってきたよ。お父さんに代わるね」
電話の向こうで「愛里か?」と父の声がした。
「お母さん、明日は仕事の都合で早く出社しなきゃいけないんだ。もう寝るね。お休みなさい」
父は母以上に偏執だ。話を長引かせたくなかった愛里は、思いついたままに出任せを言った。
「愛里、えっと――」
母の返事を聞かずに受話器を置いた。
今度こそは寝よう――とベッドに向かおうとした愛里だったが、この機会を待っていたかのように、玄関のチャイムが鳴った。
「……うん、わかった。とにかく今日は早く休んだほうがいいよ。……え? 確かに拓也のアパートはわたしの職場に近いけれど、部屋が狭いんだもん。……うん、愛里も気をつけてね。お休み」
ブラジャーとショーツだけ、という姿の流海は通話を切ると、スマートフォンをテーブルに置いた。
「宮下さんのところにも警察が行ったか」
トランクス一枚でベッドの端に腰を下ろしている堀口が、流海を見上げた。
「愛里のところへ行ったのも、ここに来た
「ぼくがここに泊まらなかったら、君も一人で、二人の刑事を相手に受け答えをしなければならなかったんだよ。しかも、こんな時間にさ」
「本当は愛里が泊まるはずだった、っていうのを忘れないでね。あの子、わたしたちに気を遣って……」
「今日に限らず、週に四回くらいは泊まっているもんな。宮下さんが気を遣うのも仕方がないか」
堀口は苦笑した。
「わたしは刑事二人からの質問攻めを一人で受けても、まったく問題ないわ。けれど愛里は引っ込み思案だし、ましてやあんな事件があったばかりでしょう。相手は刑事なんでしょうけれど、見知らぬ男を二人も前にして、とても緊張したらしいわよ」
「それで、心細くなって流海に電話してきたわけか」
「ねえ」
流海はブラジャーを外し、堀口をベッドの上に押し倒した。自分の胸を堀口の胸板に押しつけ、じっと堀口の瞳を見つめる。
冷房が効いているためか、堀口の肌がやけに熱く感じられた。
「どうして、愛里の前で手鏡の話を持ち出そうとしたの?」
できるだけ穏やかに尋ねた。しかし、言い逃れやごまかしを聞くつもりはない。
「どうして……って、坂田と柿沼とのもめごとに原因があるとすれば、手鏡以外に考えられないだろう。柿沼が宮下さんを口説き損ねたことは、それほどの問題ではないと思うんだ。とはいえ、坂田が殺された事件のことを宮下さんに話さないわけにはいかないよ」
「わたしが訊きたいのは、そういうことじゃないの。愛里の前であの手鏡の話はしない、ってみんなで約束したじゃない。わたしのお父さんにだって口止めしているんだよ。それ、忘れちゃったの?」
「忘れたわけじゃないけど、今回の事件の原因が手鏡だとしたら、避けては通れないだろう。もしかして……今の電話で、宮下さんは手鏡のことを尋ねてきたのかい?」
「一言もふれていなかったよ」
目を逸らさずに、流海は首を横に振った。
「とにかく」堀口は言う。「柿沼の狙いは手鏡だ。ならば柿沼は、君のところに来る確率が高い。もし柿沼が君の前に現れたら、絶対に手鏡を要求してくるだろう。そのときは、ためらわずに、手鏡の所在をあいつに伝えるんだ」
「だめよそんなの。拓也に迷惑がかかる。それに柿沼くんに渡してしまったら、高額で売り払おうとするに違いない。けれどね、柿沼くんが逃げきれるわけなんてないし、警察に押収されるのが落ちよ。どちらにしても、手鏡は第三者の手に渡るわ。そうなれば再び、恐ろしいことが起こってしまうのよ」
流海は必死に訴えた。
「十年前のあれは、みんなで同じ幻覚を見ただけさ」
「幻覚なんかじゃなかったわ。だって、拓也はいろいろと調べて、あの手鏡……呪いの手鏡に名前までつけちゃったでしょう」
「便宜上、名前をつけただけだよ。超常現象とか呪いとかを、信じているわけじゃない」
「なら、信じなくてもいい。信じなくてもいいけれど……柿沼くんに渡さないで」
切なる願いだった、が――。
「だめだ」堀口は首を横に振った。「いいか、柿沼は坂田を殺しているんだぞ。君にだって何をするかわかったものじゃない。今の柿沼は、追い詰められているんだ」
一歩も譲らない堀口を、流海はじっと見つめる。
「全部、わたしが蒔いた種だもの」
「何を言うんだよ」
堀口は焦燥の色を露わにした。
そんな堀口を見つめ、流海は笑みを浮かべる。
「だから、わたしがなんとかしなくちゃ」
「君一人でどうにかできる問題ではないんだって」
「そうかな? 一人じゃできないかな?」
「そうだよ。考えるまでも――」
「大丈夫よ」流海は堀口の言葉を遮った。「さすがの柿沼くんも、わたしには逆らえないわ。今までと同じく、おとなしくさせてみせる」
「君は、まだそんなことを言っているのか」
呆れ顔で堀口は流海を睨んだ。
それでも流海は目を逸らさない。
「拓也は変わったよね。強くなったよ、拓也」
「ぼくは何も変わっちゃいないさ。強くもなっていない。だからこうして心配しているんじゃないか」
「わたしだって柿沼くんは怖いよ。高校生のときの事件。わかる……よね?」
「それは、もう言わなくていいよ」
理解したらしく、堀口は顔をしかめた。
しかし、流海は続ける。
「高校生のときの事件は、とてもつらかった。それに、もっとつらい事件……手鏡の事件があったわ。どれもわたしが蒔いた種だけれど、手鏡の事件が一番つらかった。あんな事件がなければ、柿沼くんが坂田くんを殺すことなんてなかったし、拓也だって……」
「呪いの手鏡に振り回されてしまったな」堀口が繫いだ。「確かに、柿沼が逮捕されて自供すれば、手鏡を巡る悶着が世間に露呈されるかもしれない」
「呪いの手鏡なんて……そんなもの、信じる人はいないかもしれない。けれどあの手鏡は、もう表に出してはいけないわ。愛里にだって見せたくはない」
「わかるよ。君が最も恐れているのは、手鏡を宮下さんに見られてしまうことだ。あんな出来事がまた起こるかどうかは別としても、手鏡が警察に押収されたら、いずれは宮下さんの耳にも昔の話は伝わるだろう」
堀口が言うと、流海はそっと視線を逸らした。その視線の先に、堀口の左肘がある。堀口の左肘は、醜くただれていた。火傷の痕だ。いつもそうだ。愛し合えば愛し合うほど、必然と目に入ってしまう。
堀口の火傷の痕は、流海の古傷でもあった。二度と消えることのないこの火傷の痕が、今宵も、無慈悲に流海を苦しめる。
「手鏡の事件やそれ以外の昔のことまで、掘り返されちゃうのかな」
悔恨の渦巻を胸に感じた流海は、上半身を起こしてガウンを羽織った。怏々とし、とても甘い気分にはなれない。
「拓也には悪かった、とずっと思っているよ。後悔しているよ。だから……だからね、思い出すのがつらくて」
うつむくと、やにわに涙がこぼれ落ちた。抑えようとしたが小さな嗚咽が漏れてしまう。
そんな流海を堀口が背中からそっと抱き締めた。
「忘れたいよな。みんなで、楽しく生きたいよな」
「なのに……坂田くんが……死んじゃっ……」
嗚咽が激しくなり、言葉にならなかった。
「もう休もう」
堀口に促された流海は、力なく頷く。
「うん」
流海は堀口の火傷の痕に、そっと自分の右手を重ねた。
「ごめんね拓也。本当に……ごめんね……」
嗚咽が言葉を吞み込もうとするが、流海は口にせずにいられなかった。
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