第一章
九月の半ばを過ぎたというのに、依然として猛暑は続いていた。黄道の頂点に達した太陽がコンクリートジャングルを容赦なく炙る中、人々は蟻の行列のごとく歩行者天国を往来する。日傘を差す姿もちらほらと窺えた。ハンカチで額の汗を拭きながら先を急ぐ、サラリーマンらしき姿もある。
三階の窓際の席から見下ろす景色は、都会の夏――ヒートアイランド現象が当然となっている日常だった。
「もう終わり?」
出し抜けに声をかけられ、
「うん。お腹いっぱい」
愛里は答えると、テーブルを見下ろした。皿とボールはどちらも空になっている。
「まだ十分も経っていないよ」
ショートヘアが麗容な
「なんだか、夏ばてみたい」
苦笑しつつ、愛里は皿の上にボールを重ねた。
「夏ばて? せっかくのビュッフェなのに」
困り果てた表情が、愛里の正面にあった。
「あたし自身の体調管理がなっていなかったんだね」
身に覚えはあった。スマートフォンでファッション関連のサイトを手当たり次第に閲覧する、というブラウジングを、ここ一カ月の夜の習慣にしていたのだ。おかげで、就寝時間は常に午前二時を過ぎていた。
「独り暮らしをしているんだし、自分の面倒くらいはちゃんと見ないと」
そんな小言に愛里は頷く。
「反省している」
「しょうがないな。まあ、それはよしとして……そろそろデザートにしちゃう?」
流海は提案したが、愛里は首を横に振った。
「流海はお目当てのイカスミパスタをまだ食べていないじゃん。イカスミパスタ、ちょっとだけ食べてみたけど、おいしかったよ。あたしはこれでも飲んでいる」
そう告げて、ジンジャエールがなみなみとついであるグラスを右手に持った。
しかし流海は、戸惑いの表情を見せる。
「うーん」
「それに、もう少し、ここで涼んでいたいの。職場の冷房が弱くて」
窮状を訴えた愛里は、冷房の効いた店内を見渡した。このイタリアンレストランはランチタイムにビュッフェスタイルとなるため、平日ではあるがほぼ満席だった。
「ああ、そういうことか」
得心したらしく、流海は頷いた。
愛里は続ける。
「クールビズでね、職場ではジャケットを脱いで半袖のブラウスにしているんだけど、暑さに弱いあたしは、それさえつらいの」
「じゃあ、お父さんにちゃんと言っておく。暑がりの愛里が可哀相だから、あんまりけちけちするな……って」
流海が真剣な面持ちで言った。
「だめよそんなの。あたし、クビになっちゃう」
思わず取り乱すが、そんな愛里に向かって流海はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「冗談よ。さーて、わたしもイカスミパスタで最後にするか。そうしたら、デザートにしようね。ゆっくり飲んでいて」
古い皿を端に寄せた流海は、おもむろに立ち上がり、パスタコーナーへと歩いていった。
ジンジャエールを飲みながら、愛里は流海の後ろ姿に見とれてしまう。
流海は愛里と同様にスカートスーツであるが、それが彼女のスタイルのよさを際立たせていた。事実、客や店員を問わず、男どもの視線が流海の姿を追っている。
上流の家庭に育った流海は、お嬢様なだけでなく、誰もが頷く才色兼備だった。愛里が小学生の頃から憧れているほどだ。
愛里と流海は同郷だった。出身地は都内だが、都心から電車で一時間半ほどの片田舎だ。そんな街で、二人は小学校から中学校までが一緒だった。
平凡な家庭に育った愛里だが、流海とは相性がよかった。いつもともに行動し、互いに支え合った。中学卒業後はそれぞれ別の高校、大学へと進んだが、付き合いの途切れることはなかった。
愛里は留年することなく地元の私立大学を卒業したが、就活には失敗した。九社の入社試験を受けたにもかかわらず、すべてが不採用だった。とはいえ、ふさぎ込んでいても仕方がないので、地元のコンビニエンスストアでアルバイトにいそしんでいたのである。
そんな愛里に救いの手を差し伸べたのが流海だった。流海の父は帝都交易株式会社の社長である。流海はその父に、愛里の採用を請うたのだ。いわゆる縁故採用であるが、愛里にしてみれば背に腹は替えられなかった。大学を卒業した年の夏に、中途採用という形で今の会社に就職したわけである。もっとも、縁故採用の件は社長と人事部の一部のみが把捉するだけで、愛里の職場には知らされなかった。
一方の流海は、進学校から国公立大学を経て大手物流会社の企画部に採用された。父が社長を務める企業には、就職したくなかったらしい。その意気込みで毎日の仕事に取り組んでいるのだろう。流海は平日も休日も常に快闊だった。
愛里が就職して、一年が経つ。
勤め先は違えど、二人は今でもこうして会っていた。偶然にも職場が近かったため、月に一度は平日のランチをともにするのである。
それにしても、流海に比べると自分はなんと冴えないのか。
再び、愛里は歩行者天国を見下ろす。
行き交う人々のどれほどが自分の人生に満足しているのか、愛里は知る由もない。だが、満ち足りた毎日を送っている人間など、そう多くはないだろう。自分も、流されるだけの日々を鬱々と過ごす人々の一人に違いない――と自覚するが、変わろうとする意欲が、なかなか湧いてこないのだ。
「ふう」とため息をつき、視線を水平に上げた。歩行者天国を挟んだ向かいのビルを何げなく見つめる。
ふと、このレストランの窓ガラスに目の焦点が合った。
物憂げな表情の自分がそこに映っていた。セミロングヘアとスーツとの組み合わせだが、流海の持つ華麗さが、ない。しかも、ガラスの中の愛里は、深い闇に包まれている。
迂闊だった。
呆然としていた自分を悔いる。
見てはならない。かろうじて覚醒していた理性が、警鐘を鳴らすが、深い闇の中で出口を見失ってしまった。
強い憎悪を感じた。何者が何者に対して放つ憎悪なのかは、わからない。その憎悪に縛められ、愛里はもがくことさえできなかった。人ならざるもの、吐き気を催すほど醜悪なものが、闇の奥から這い寄ってくる――そんな光景が脳裏に浮かんだ。
「どうしたの?」
流海の声で我に返った愛里は、ガラスに映った自分から正面に視線を戻した。
「流海」
「流海、じゃないわよ。何か怖いものでも見ているような表情だったわよ」
流海が椅子に腰を下ろしながら言った。彼女がテーブルに置いた新しい皿には、黒々としたイカスミパスタが盛りつけられている。
「そうだった?」
悟られまいとしてしらを切るが、イカスミパスタの色によって、愛里の中に今し方の闇が広がりそうになった。
「あ……」察した目で、流海が愛里を見つめた。「ガラスに映っていた自分を見たんでしょう?」
「うん」
素直に認めた。それ以外に選択肢はなかった。雰囲気が損なわれるのは気が進まないが、流海に隠しても意味がない。
「ねえ愛里、奥のほうに二人用のテーブルが一つ空いているんだ。そっちに変えてもらおうよ」
流海の目に憂いが表れていた。
「大丈夫、気をつけるよ。ごめんね、面倒臭いやつで」
この場の雰囲気を取り繕うとし、自嘲の笑みを作った。
「面倒臭いやつだなんて、思っているわけないじゃない。いったい、何年付き合っているのよ」
呆れ顔で流海は返した。
「ありがとう。けど、窓際の席って初めてでしょう。せっかくなんだし、このまま楽しもうよ」
「愛里が言うのならそうするけれど、無理はしないでね」
「うん」
答えた愛里がジンジャエールを口に含むと、安堵した様子の流海はイカスミパスタをフォークで絡め取った。
「あ、なかなかイケる」
賑やかな店内で、流海のつぶやきがかすかに聞こえた。
愛里はグラスをテーブルに置き、感慨にふける。
自分の容姿に劣等感を抱いているわけではなかった。流海とは比ぶべくもないが、顔立ちは悪くない、と自負している。恋愛の経験がないのは、言い寄ってきた男が自分の好みに合わなかったためだ。とはいえ、自分が恋心を抱いた男とは、よんどころない理由で友人以上の関係には至っていない。
とにかく愛里は、鏡やガラス、水面、それらに映る自分の姿が怖かった。画像や動画など、そういった類いに表示される自分の姿には、何も感じない。徹頭徹尾、恐怖の対象は、面に反射して映る自分の姿なのだ。左右を反転させない合わせ鏡でさえ、そこに映る自分の姿には、やはり恐怖を感じてしまうほどである。ならばと、鏡の中の自分を画像や動画に映して確かめたことがあったが、気持ちがわずかに沈んだものの、反射した姿を直接見たときほどの恐怖はなかった。
どんなきっかけがあってこの恐怖症に悩まされるようになったのか、愛里に心当たりはなかった。とはいえ、少なくとも小学生高学年の頃には、鏡を長時間は見つめていられないことに気づいていた。そのため、社会人になった今でさえ、常に薄化粧で済ませているのだ。
「あたしね」愛里は言った。「今のままでいいのかな、って思うの」
「今のまま、って?」
イカスミパスタを平らげた流海が、ナプキンで口元を拭きながら尋ねた。
「この恐怖症よ」
どうしても訴えたかった愛里は、単刀直入に答えた。これは甘えなのだ、と自省するが、話題をすり替えられるほど強くはない。
「そうだね」流海は頷いた。「鏡恐怖症……確かに弊害はあるよね。洗面所では正面を見ていられないし、服装をチェックするときだって大変そうだし。姿見とかで、首から下だって見るのが嫌なんでしょう? 言うまでもなく、手足とか、直接見るのは大丈夫みたいだけれど」
「そう。だからね、この恐怖症を克服したいの。鏡に映る自分の姿を見られなくなった原因を思い出せば、治せるかもしれないじゃない。たぶん、遠い昔……小さい頃にあった何かが原因なんだよ」
「ねえ」畳んだナプキンをテーブルの端に置いた流海が、じっと愛里を見つめた。「原因なんて思い出さないほうがいいよ」
「どうして?」
「どんな原因かは知らないけれど、恐怖症になってしまうほどインパクトがあることだったんじゃないかな。だからそれを思い出したら、症状が今以上にひどくなってしまうかもしれないよ」
「今以上にひどく……」
愛里は声を忍ばせた。
真剣な面差しの流海は、愛里から目を逸らさずに口を開く。
「たとえば、職場での何げない会話の中に、鏡、って出てきただけで、動揺して仕事が手につかなくなっちゃったり」
「聞いただけで動揺、っていうのは、今のところはないよ。けど、仕事に差し支えるようになったら、嫌だな」
本音を漏らした愛里は、わずかに顔をうつむけた。
「だからね」流海は言った。「少しずつ慣らしたほうがいいよ。鏡の中の自分を見る時間をちょっとずつ長くしていく、とかさ」
「慣らす、か。原因を探るよりも、そのほうがいいのかな……」
顔を上げ、愛里は思案した。
「そうだよ。過去にあったネガティブなことなんて、思い出さないほうがいいに決まっている」
そう告げると、流海は笑顔を見せた。
愛里は頷く。
「わかった。流海の言うとおりにする」
愛里は何も悩まなくていいんだよ。
嫌なことなんて忘れちゃいなさい。
大丈夫、わたしがついているからね。
判断しかねたときは、流海の言葉に従う。これですべてが丸く収まるのだ。甘えるだけの弱い愛里は、そうせざるをえなかった。
しかしこのままでは、冴えない自分――弱い自分を変えられそうにない。
「そういえば」愛里は続けた。「就職試験に何度も落ちたのは、メイクがいまいちだったせいかもしれないよね。毎回、面接がだめだったじゃない」
「違うよ。どの面接官も、面接官としての力量が足りなかったんだよ」
と言うなり、流海は噴き出した。
「面接官のせい?」
「うん。それに、面接前のメイクは、いつもわたしがチェックしてあげたじゃない。隅々まで抜かりなく、ね」
「そうだったね」
思い出した愛里は、軽く頷いた。
「愛里はすっぴんでいても十分にかわいいよ」
「美人の流海に言われてもなあ」
愛里は頬を膨らませた。
「美人、と来たか」
二人は笑った。
残暑でばてているに違いなかった。昼食を軽めにしたにもかかわらず、夕食を取る気になれない。
アパートに帰った愛里は、速攻で冷房をかけた。スーツのジャケットを脱いだだけで、着替えもせずにソファーにふんぞり返る。
就職して一カ月ほどは自宅から通勤していたが、片道で一時間半もかかるため、都心の片隅にアパートを借りたのだ。1Rの間取りだが、一人暮らしの身には十分な空間が確保された物件である。
ベッドの上の目覚まし時計を見ると、午後七時を過ぎた頃だった。
愛里は半身を起こし、カーペットの上にほうり出しておいたショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。確認してみるが、電話やメッセージは一件もなかった。
寂寥とした空気が漂う。
こんなときに限って、実家の両親のうっとうしい電話さえかかってこないのだ。流海に至っては、恋人とよろしくやっているに違いない。それを承知で流海に連絡を入れるのは無粋だろう。とはいえ、インターネットを閲覧する気にはなれなかった。
愛里はスマートフォンをテーブルに置いた。
そしてうつむき、つぶやく。
「
愛里が恋心を抱いた唯一の男とは、あろうことか、流海の恋人である堀口
堀口も、小学校から中学校までが愛里や流海と一緒だった。そればかりか、流海と堀口は、高校と大学も一緒だったのである。
流海と堀口、この二人は中学一年生のときに恋人として付き合い始めた。しかし愛里は、それ以前から堀口に心を寄せていた。小学生高学年で芽生えた淡い恋である。一方通行の恋――かなわぬ思いだった。それから十年にも渡り、告白もせずにたった一人の異性を慕い続けてきたわけだ。無論、流海に相談するなど言語道断である。それでも今では単なる傍惚れにすぎないはずだ。ほかの誰にも悟られぬよう、その思いを心の奥にそっと封じ込めた――つもりなのに、ときおり、胸が苦しくなってしまう。自重すべきなのだ。愛里自身も心得ている。
だが愛里には、わだかまりがあった。堀口を好きになる資格など自分にはないのだ、という不明瞭な思いがあるのだ。この件に関しても、何ゆえにそんな思いを抱かなければならないのか、愛里には記憶がなかった。流海が言っていた「恐怖症になってしまうほどインパクトがあること」との関連の有無さえ、不明である。
いずれにせよ、堀口への思いをかなえるなど、夢のまた夢だ。
ならば、答えはおのずと決まる。別の男を好きになればよいのだ。堀口への思いを捨て去るのである。そのためにも、弱い自分を改めなければならないだろう。流海に甘えてばかりではいけない。
顔を上げると、テーブルの向こうのテレビに視線が移った。照明に照らされた部屋の様子が、電源の入っていないテレビの画面に反射して映っている。画面の中に、疲れきった表情の自分がいた。
愛里はとっさに目を逸らした。
徐々に慣らしていくのが賢明だろう。そう考えつつ、座っている位置を若干ずらし、テレビの画面に自分の姿が映らないようにした。
思えば、ドレッサーも置いていなかった。薄化粧であっても鏡は必要になるが、洗面台の鏡で事足りている。その洗面台の鏡でさえ、普段は覗かないのだ。
やはり、これでよいはずがない。鏡を覗いたところで、何かが起こるわけではないのだ。このままでは、鏡恐怖症を克服するどころか、弱い自分を変えることもできないだろう。
「よし」
愛里は奮起し、立ち上がった。
浴室の脱衣所に入り、照明を点けた。自分の顔が鏡に映らないように洗面台の斜め前に立ち、開いた右手を突き出す。顔をしかめながら、鏡に映った手のひらを見た。
わずかに全身が震えた。
洗面台の正面に移動し、勢いに任せて鏡を覗き込む――が、自分の強ばった顔を睨みつけると、鏡の中に深い闇が広がった。
またあの憎悪を感じた。
傲然たる憎悪にあらがいながら、鏡の中の自分を睨み続けた。至極順当ではあるが、こちらが口元を引きつらせれば、あちらも口元を引きつらせる。だが、画像や動画などで見る自分の顔とは確実に違っていた。左右が反対になっただけの違いではない。生きているもう一人の自分から生々しさが漂ってくるのだ。鏡の中の自分には魔性がある――そんな思いが、いつものごとく湧き起こった。
「あなた、いったい誰なのよ?」
鏡の中の自分自身に問いかけた。
不意に、酩酊するような感覚に襲われた。鏡から目を逸らそうとするも間に合わず、胃液を洗面台にぶちまけてしまう。
よくない何かが起こりそうな気がして、とりあえず、両目を強く閉じた。
醜悪なもの――孤独にあえぐそれが、まとわりつく闇を押しのけ、湿った体をくねらせて這い寄ってくる。そんな様子が脳裏に浮かんだ。
たまらず、洗面台に背中を向け、両目を開けた。
皓々たる照明が、醜悪なものの気配を蹴散らす。
息が乱れていた。
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