東京都

ハヤシ屋中野荘のオムハヤシ

 洋食を食べに行くときは、何歳になっても心が躍る。

 僕が小学生の頃は、よく家族で外食に行ったのを思い出す。


 僕には父親がおらず、三世帯家族だった。

 夕食はいつもお婆ちゃんが作ってくれていた。お婆ちゃんは看護師で、人一倍健康に気を使っていたから、超薄味の煮物がよく出た。お婆ちゃんは嬉しそうに僕に煮物を食べさせようとするんだけど、育ち盛りの小学生が煮物を食べて満足するわけがなかった。

 そういう背景もあって、外食は僕にとっては特別なものだ。

 家族全員で、美味しい洋食を食べに行く。それが僕の中の家族との食事だった。


 僕が社会人になって、家族との食事がなくなり、代わりに趣味の小説で繋がった同志ができた。


 僕は青森の弘前大学を卒業し、就職のために上京した。そして、何故か渋谷のお洒落なIT企業に営業職として入ることになった。

 一年目は周りのサポートもあって、何とかやれていたと思う。しかし、社会人二年目になり新人の肩書がなくなると、一気に仕事がきつくなった。

 まずは定時上りができず、夜中の零時近くまで残業することが増えた。だから休みの日は仕事疲れを癒すために寝てばかりだった。


 仕事に忙殺される一方で、限られた中でプライベートの時間を確保することに腐心してもいた。行き帰りの電車や休み時間に執筆し、カクヨムに投稿し続けていたのだ。


 趣味を続けて発信していると、同好の士に会うことができた。最初はTwitterとかでやり取りしていたが、RT企画で仲良くなり、実際に会うことになった。

 その人の提案で、その人が連載している小説に出てくる洋食屋に行くことになった。

 僕はオフ会が初だったので、遠足の日の前日並みに興奮していたのを覚えている。


 十二時に中野駅北口に集合した。初夏だったので、日差しが強かった。改札を抜けたあたりで合流し、そのままお店がある商店街へ向かった。

 中野の商店街は、地元の高岡や弘前と比べて活気がある。地元の店はほとんどシャッターが閉まっており、車社会なので歩いている人はほとんどいないからだ。

 中野はシャッターなんて閉まっていないし、若い子ども連れや女子高生、カップルが歩いている。最近話題(2019年8月時点)のタピオカや、たこ焼き、すし屋、ドラッグストアが立ち並んでいて、歩いているだけで楽しかった。


 中でも僕が惹かれたのは、ゆで卵入りのカレーパンだった。これからがっつりランチに行くのに、買い食いしたくなる魅力がある。

 ランチのために朝を抜いてきたので、スパイスの香りと油の香ばしい匂いが食欲を刺激した。さらに、サクサクとしたカレーパンがパン屋のショーケースに並んでいる様は余りにも暴力的だった。


 僕たちは、商店街を中野ブロードウェイ手前まで進み、右の裏路地に入る。人だかりをよけながら路地をしばらく歩くと、噂の洋食屋があった。

 同志行きつけの店。以前は週三で通っていたという洋食屋“ハヤシ屋中野荘”だ。


 丁度、ランチタイムで店内は満員だった。しかし回転は速いようで、一二分待つだけで中に入ることができた。

 僕たちは、素朴な雰囲気の女店員さんのいらっしゃいませを耳に入店した。どうやら、近くの大学生がバイトしているらしかった。


 中に入ると、昭和から長く受け継がれてきたような、木のカウンターテーブルがいい味を出していた。壁面にはコカ・コーラのタペストリーや、この店のキャラクターである男の子のイラストがヘタウマなタッチで飾られていた。

 店は一階と二階に分かれ、一階にはカウンター席が八席程度あり、通路は人一人が何とか通れる程度の狭さだった。


 入口に入ってすぐ右に食券機があった。どうやら前払い制らしい。

 食券機を見ると、ミートソーススパゲッティーやカレーライスなど、種類は多くないものの、ザ・洋食が目白押しである。僕はその中から、特にこの店の名物である八八十円のオムハヤシを選んだ。

 ついでに百五十円でルー・ライス大盛もできるようなので、迷わず小銭を追加投入し、発券した。


 同志のお気に入りのお店は、僕にとってもお気に入りになった。特に内装だとか雰囲気が僕好みだった。店主に聞こえるかどうかの声量で、同志とこの店の良さを讃えあった。そして、数分もしないうちに目当てのオムハヤシが運ばれてきた。


 テーブルの福神漬けをトッピングし、さて食べようとスプーンを入れてみた。しかしここで、違和感に気づき、僕の手が止まってしまった。

 

 僕は、中野荘のオムハヤシが普通ではないと気づいてしまった。

 普通はバターライスやケチャップ、もしくは白飯がベースとなっているところが多いと思う。

 だが中野荘のライスは、驚くべきことに茶色いデミグラス・ライスだった。カウンター越しに見える店主は、厨房で得意げに自家製のデミグラス・ソースとライスを混ぜている。


 そのデミグラス・ライスの上にスクランブル・エッグがふんわりと乗せられていた。

 そして極めつけは何といっても、スクランブル・エッグとデミグラス・ライスの上から豪快に流し込まれた、牛肉をホロホロになるまで赤ワインなどで煮込んだデミグラスベースのハヤシ・ソースだ。


 ふわっふわのスクランブル・エッグを、デミグラス・ライスとデミグラス・ソースで挟み込んだものが、昭和三十年のステンレス・カレー深皿に入って供されるのだ。

 この一品は、朝ご飯を抜いて期待に胸を膨らませた僕にとっては余りにも殺人的過ぎた。驚きで離してしまったスプーンを、再度デミグラスの海に着水させる。


 まずは米だ。ライス単体でも、少しスパイスの利かせたデミグラスの下地でしっかりと食べられる。そして、デミグラス・ソースとライスを一緒に口に運ぶ。


 口に入れた瞬間、僕は絶句した。長時間煮込まれた牛肉が入った途端、一瞬で消えてしまったのだ。

 さらに驚愕すべきは、ライスに付けられた下味と、デミグラス・ソースに溶け込んだ牛肉の主張である。濃い味付けがぶつかり合っているはずなのに、牛肉が一歩も引かない。それどころか牛肉が全体の味を調和し、一つの料理へとまとめ上げているている。ライスの下味に牛肉のうま味が加わり、後味で赤ワインの豊潤な香りが喉の奥を駆け抜けていく。牛肉は旨い。独り暮らしで長らく忘れていた事実をこのオムハヤシは思い出させてくれる。若い男は絶対ハマる。これは――脳みそを震わせる旨さだ。


 ――だが、忘れてはいけない。これはハヤシ・ライスではない。オムハヤシなのだ。僕は、充分な満足感に浸りながら、これ以上の幸福はないだろうと、スクランブル・エッグを含めた三重層を口に運ぶ。


 僕の目から一筋のしずくが落ちる。これが、完成されたオムハヤシなのだ。


 先程、すさまじいパンチでノックダウンしたデミグラスのコンビは、間にスクランブル・エッグという緩衝材を挟み込むことで、一つの芸術へと昇華してしまった。


 今まで濃い味付けだけだったものに卵の甘味が加わることで、重たい口の中が、一瞬ふわっと空に舞い上がるのである。


 確かに、牛肉が煮込まれたデミグラス・ソースは重く、強い。例えるならヘヴィ級のハードパンチャー。しかし、卵という軽いフェザー級の動きを挟み込むことで、味に奥行きが生まれる。


 仕事でも前に出ることだけを考えて息を詰まらせていた僕は、この卵のように、たまには息抜きも必要なのではないかとオムハヤシを口に運びながら思った。

 嘘である。実際は、美味しすぎて何も考えてはいなかった。


 オムハヤシを完食し終えた後、中野荘への賛辞をありったけ残して、僕たちは退散した。


 帰りは商店街にある珈琲屋でアイスコーヒーで一服した。こちらも昭和を思わせるホテルのエントランスのような内装が素敵だった。珍しく喫煙可の喫茶店で、同志が嗜んでいる囲碁も置いてあった。


 僕たちは創作談議に花を咲かせ、オフ会は終了した。

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