第9部 遙か遠く、


「本当に良いんですか?」



 不安そうに見上げる涼平を見下ろし、イヅルは首を縦に振った。戦争も終わり、軍隊も解体された。もう鹿屋にいる理由もないので、里帰りする連中は大勢いた。涼平もその一人で、身寄りのなくなった煉を連れて愛媛へ帰るらしい。同じく当てのないイヅルに「一緒に来ないか」と提案したのだが、彼はそれを拒否した。イヅルには、兵庫へ行く用事があった。


 大阪行きの列車を岡山で途中下車し、今は港にいる。ついていくと言って聞かなかった百合恵と銀とで、連絡船に乗り込む二人を見送っている所だった。



「しつけぇぞ涼平。岐山さんは外せねえ用事があるんだって言ってんだろうが」



 ごつ、と拳で涼平の涼平を叩いたのは煉で、痛がる彼を全く気にせず、イヅルを見て不敵に笑った。その姿に、在りし日の恭二と和樹がダブって見える。ひどく懐かしい気分になったイヅルは、柔らかく微笑んだ。


 煉は三日程で退院した。火傷も快癒しつつあり、目にも特に障害は残らなかった。凄惨な姿になりゆく恭二を目の当たりにした経験は彼にトラウマを与えたけれど、それにもめげずに前を見て生きている。戦中よりもずっと強そうに見える彼は、誰よりも心強かった。



「二人とも気をつけて。無事に愛媛へ辿りつけよ」


「あんたこそ、気をつけてな。戦争が終わったとはいえ、あんたにはまだまだ敵は多いんだ」



 煉は、列車内でのことを思い出して眉間に皺を寄せた。白人の遺伝子が色濃く形成されたこの少年は非常に見立ち、周囲からはみだりに注目され、一部からは睨まれてさえいた。その一方で、恐れ慄き目を合わせないようにとひたすら俯いている者もある。当事者でなくても、正直この処遇は不快だった。


 終戦と同時に「極東に仇なす憎き敵」という認識こそなくなったが、上陸した占領軍があれこれ問題行動を起こすものだから、このように反感を持たれることもしばしばある。それに加え彼は一度、戦犯として逮捕された経歴がある。そのせいで彼を批判し、悪意を持って「罪人」のレッテルを貼りたがる連中に対峙したこともあった。


 しかし本人はさほど気にしておらず、列車内での件も「犬を連れているから」程度に解釈していたと判明し、心底驚かされたものだ。それらに慣れて強い耐性が出来上がっているからなのか、それともはじめから図太い神経をしているからか。あれこれ考えてみたけれど、途中でどうでもよくなって思考を中断させた。理由なんてどうでもいい。ただ、彼がなに不自由なく暮らせればそれでいいのだ。


 陸地が、どんどん遠くなっていく。波に揺れ動く船の上、未だ手を振り続けている隣の涼平に笑い、もう一度港の方を見た。


 必ず、生き延びよう。生きてさえいれば、イヅルにも百合恵にも、銀にも会える。だから、この別れは少しも哀しいものではない。煉は自身に言い聞かせる。今更脳内にフラッシュバックした、恭二との死別の瞬間のせいで今にも涙が溢れそうだ。


 哀しい、怖い、痛い。表に出たがっているマイナスの感情を無理やり飲み込み、煉は空を見上げた。無限に広がる空の青を見ると、不思議と心が穏やかになる。いつしか空を見ることが、煉の気持ちを静める最終手段となっていた。



「저기、여러분……나는 열심히 합니다,(ねえ、皆。俺……頑張るよ)」



 自分の大切な人たちが大好きだった空。ここが再び戦場にならないようにしたい。そんなことが俺に出来るのか。いや、成し遂げる。煉は決意を胸に、静かに瞼を閉じた。強く手摺りを握り締めた手を、涼平の手が徐に握る。彼の手は、泣きたくなるほど暖かかった。




           ※




 久しぶりの山道は、さほど苦ではなかった。それでも若干歩きづらかったのは、銀と自身を繋ぐ綱のせいだろう。目が見えない癖にわさわさ動き回ったり飛び跳ねたりするものだから、あちこちぶつかったり転げていったりとかなり面倒くさい。彼の姿は世に言う馬鹿犬そのものだったが、活き活きしていて楽しそうなので良しとしよう。



「平気か? 百合恵」



 少し後ろを歩く百合恵を見ると、頬を上気させ、息も少し荒かった。なだらかと言えど、延々と続く坂道は女の子には辛いだろう。だから来るなと言ったのだが、この子もなかなか頑固な子だとイヅルは思う。


 百合恵も百合恵で、イヅルは頑固な男だと思っていた。こちらが「何があっても大丈夫だから」と言っても「危ないから」の一点張りで、遂の終まで許可してくれなかった。だからこうして、こっそり出ていこうとしたイヅルをこっそり追いかけてきた。彼らの前に出ていったときの、鳩が豆鉄砲を食らったような顔は今でも鮮明に覚えている。


 こんな私を、彼は心底呆れてしまっただろう。百合恵はそう思ったが、それでも構わなかった。吾妻榛名の死を、心の片隅で喜んでしまった卑しい私だ。性悪は性悪らしく、徹底的に厚かましくいてやろうと心に決めいている。


 目指していたのは、イヅルの生家があった山の頂上だ。そこからは神戸の港から大阪まで広く展望できる。いつか見た模型のように小さな町並みに百合恵は感動したが、同時に戦禍の惨たらしさを目の当たりにし、胸が痛んだ。



「ここには、」



 銀を繋ぐ綱を百合恵に手渡し、イヅルはすぐそこにある大きな岩に軽々昇っていく。ぐいぐい引っ張る銀をどうにか抑えながら、百合恵はイヅルを見上げ、彼の言葉に耳を傾けた。



「ここには、あの人たちと来るはずだった」



 生前の彼らにこの山からの眺めが良いと話したら、「いつか皆で行こう」という流れになった。ある程度の計画も練られていたけれど、もうその約束が叶うことはない。だからせめて遺品だけでも連れてきてやりたいと思ってここに来た。生家に戻る気など、毛ほどもなかった。


 じゃれつく銀を適当に構いながら、黙ってイヅルの話を聞いてきた百合恵だが、彼が取りだした紙包みを開くのを見て息を呑んだ。姿を現したのは白い粉、それはまさか――青酸カリ?


 未だ、青酸カリを所持している人は少なくないと思う。本土決戦だどうだといっている時分に自決用に支給されたので、百合恵も持っていたことがある。万が一辱められるようなことがあれば飲めと言われていたけれど、なんだか馬鹿馬鹿しくて早々に捨てた。それを彼は、今の今まで後生大事に保持していたというのか。そしてそれを今……。


 最悪の事態が脳裏を過り、得体の知れない寒気が背筋を撫でる。つい先程話してくれた内容は、「自分も後を追って逝く」という意味合いがあったのかも知れない。


「ついて行く」というこちらの申し出を頑なに断ったのも、ここで自身を終わらせるつもりだったからだろうか。今の彼に限ってそんなことはないと思うのだけれど、百合恵はこの嫌な予感を払拭することができなかった。『彼に限って』と思っていた兄も深田恭二も石田和樹も、揃って自決してしまっているのだ……


 肌を粟立たせながら悶々とする百合恵の気も知らず、イヅルは紙包みを持った手を前方に伸ばした。山風に浚われて、白い粉は瞬く間に散開する。


 白い粉は、遺骨と遺爪を粉々に砕いたものだった。和樹は敬見が手厚く弔ってくれるだろうが、恭二は自分が引き取ったとはいえ十分に弔えている気がしないし、榛名に至ってはばらばらに弾けて海に沈んだきりだ。


 まともな供養もされないままではあまりに気の毒だしこちらの気も晴れないので、こうして散骨することに決めた。元々空みたく高いところが好きな人たちだ、土に埋めてしまうよりも、こうした方が良いに決まっている。イヅルはそう高を括りながら、岩場から降りようと振り返った。



「ゆ……百合恵?」



 見下ろしたそこにいたのは、銀を抱きしめながらぼろぼろ涙を溢す百合恵で、イヅルは面食らった。大してフェミニストではないと自負しているが、やはり女の子の涙を見るのは心苦しいものだ。そういえば、彼女の泣き顔は初めて見た気がする。百合恵は長めの付き合いの中で、涙を決して見せなかった。兄の称壱が亡くなったときも、義姉のリヲナがその後を追ったときも、彼女は終始気丈に振る舞っていた。



「どうした、何があった?」



 膝をついて百合恵と目線を合わせて問うと、「自殺されるかと思った」としゃくり上げながら言う。あの白い粉を青酸カリと錯覚したらしく、今ここで服毒自殺すると思ったのだとか。


 確かに、自決用にと青酸カリは持たされていた。けれどそれは、焼却命令の出た設計図と共に燃やしてしまった。仄かに紫に色づいた炎を見て、甘酸っぱい臭いを感じると同時に気分が悪くなったから、そのことは良く覚えている。可愛い奴だと思いながら間近に見た彼女の顔立ちは、特に目のあたりが称壱にそっくりだ。今までの俺は、この子の顔さえも良く見ていなかったか。



「大丈夫、俺はまだ死なない」



 やらなければならないこともしたいことも、まだまだ山のようにある。それまでは死ぬわけにもいかないし、それに――生きて可愛いこの娘を守ってやりたい。それが義理なのか愛なのか分からないが、とにかく。


 必死に涙をこらえようとしている百合恵の頭に手を添えて抱きよせ、胸に預けさせた。しがみつくように抱き返してきた百合恵の背中を、あやすように撫でる。本来の姿に戻った銀を抱きしめたときと同じように、心の底から暖かくなった。




           ※




「それじゃあ、後は頼む」


「構わないが……本当にいいのか? 黙って行って」



 まだ夜も明けきらない薄暗闇を目の前にし、イヅルは大阪で久々に会った同志の声を聞いていた。昼間はまだ暖かいというのに、日が昇らないうちは肌寒い。戦後になってようやく世話になることになった国民服ではなく、もう少し厚着してくるべきだったかと頭の片隅に考えるイヅルの決心に、揺るぎはない。


 こちらを見ようとせず、薄ら色の変わり始めた空ばかりを見るイヅルの横顔を見た大記は、一人苦笑した。こういった我が道を行く姿勢は変わらないけれど、暫く見ない間に彼は随分と丸くなった。昨日、夕暮れ時の闇市通りで偶然見かけたのだが、左手に落ち着きのない犬、右手にすすり泣く百合恵という、あまりに和やか……というか愉快な雰囲気だったのでかなり驚いた。以前はもっと警戒心むき出しで、一切人を寄せ付けさせないギスギスした雰囲気を醸し出していたはずだ。



「鹿屋はお前を成長させたか……」



 ぼそりと小さく呟くと、「何か言ったか」と短く返してきた。額に手を当てて遠くを見る姿勢のまま、やはりこちらは見なかった。やっぱり、彼は変わった。あの野良猫のようなイヅルに会えないのは寂しい気がするが、今のこの状態のほうが随分と生き易いだろう。だがそのマイペース過ぎるとこは何とかしろよ。相変わらず空を見ながら、伸びたり揺れてみたりしているイヅルを見て、大記は笑った。



「なんでもねえよ」


「そうか」



 なぜか笑いだした大記を振り返り、イヅルはその理由を考えてみたが、「まあいいか」と思考をやめた。理由なんてどうでもいい。人が笑っていられるのはいいことだ……ということには最近気付いた。東坂邸にいた頃には全く気にも留めていなかったそれに目を向けるようになったのは、あの兄貴分たちのお陰だ、絶対にそうだ。


 皆死んでしまったのは非常に残念だが、かといって沈み込んでいてはきっと彼らに怒られてしまう。出来る限り前向きに生きていくつもりだ。在りし日の、彼らのように。


 欲を言えば、もっと彼らのことを知りたかった。その欲求を少しでも晴らすために、これから故郷巡りをするつもりだ。無事に神奈川や……特に和寧に辿りつけるか見通しもつかないが、鹿児島から大阪まで進行できたのだ。きっと大丈夫だと思っている。



「で、本当に黙って行っていいのか? あいつ絶対怒るし後追うぞ」


「言った方が、着いてくる可能性が高くなる。この際、嫌われても構わない」



 初めから、この自己満足の旅に百合恵を連れていくつもりはなかった。だがついてきてしまっては仕方がない。大阪にいるという大記に無理やり預けてしまって、後は銀と進もうと岡山あたりで決めた。これからはもっと過酷になるだろうし、未だに民衆の反感を買っているらしいカメリアの血を持つ自分と共にいては、きっと生きづらくなってしまう。疎外を感じるのは、馴れている自分だけで十分だ。



「大記も。行き先は黙っていてくれよ」


「……分かったよ。お前、昔っから頑固だしなあ。まあ、死なない程度に頑張れよ」


「ああ、ありがとう」



 苦笑しつつ見送る大記に笑顔を返し、イヅルは薄暗闇の中を進む。今はこれまでの十六年の中で、最も清々しい気持ちだ。故郷巡りの旅が終わったら、今まで通りに設計を続けるつもりだ。兵器ではなく、何か世間に役立ちそうなものを造ってみたいと思っている。


 まだ漠然としたイメージしか出来ていないし、実績もないので出来るかどうか正直不安だ。しかし――俺には見守ってくれる人がいる。イヅルは胸の御守り袋を握り、大きく深呼吸した。


 もう大丈夫。これから先、どんな困難が降りかかろうと、逃げずに戦う覚悟は出来ている。目標を達成するまでは、挫けず生き残ってやる。



「行くぞ、銀!」



 吠えて返答した銀の赤い目を見つめ、繋ぐ綱を引く。目は見えなくても相変わらす意識をこちらに向けてくれる彼がいれば、まあ挫けることはないか。心強い相棒の存在を感じながら、イヅルは薄ら光の射す方へ駆けだした。




                  【完】


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青春議事録 志槻 黎 @kuro_shiduki

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