終篇


 拾った岐山イヅルは、驚くほどに三笠兼吉だった。目つきや価値観が特に似ていて、容姿は全く似ていないのに見間違うほどだった。イヅルも所謂「馴致不能」で、世間に流通している価値観を共有しようと努力している節はあったのだが、結局理解しきれぬままに一年が過ぎた。


 けれど、これで良いのだと思っている。伯父の手から逃れた称壱はもう、皇国教育を強要する気がなかったし、兼吉である彼にとって、それが正しいのだと信じて止まなかった。


 兼吉が遂行できなかった岐山イヅルの養育は、称壱が引き継ぐことになった。贖罪のために名乗り出た、というわけではない。敵国の血を受け継いだ少年を引き取ろうという者が兼吉以来現れず、それでもこの子が欲しいからと、動かしやすい称壱に鉢が回ってきただけのことだった。


 別に嫌ということはなかったが、なぜ自分なのかと思ったことはある。あの事件の後に精神病と診断され、座敷牢に幽閉されて過ごしていた頃に回ってきた話だ。声だけになった兼吉や上巻と会話をする度に鎮静剤を打たれ、薬の影響で足元が覚束ない自分に何ができると思ったのかと、少し落ち着いた今となっては疑問が残る。


 外になんて出ず、ここで兼吉や上巻と暮らしていたいという気持ちが強かったが、その願いも叶わなかった。抵抗したら鎮静剤を打たれ、朦朧としている間に無理やり牢から引きずり出された。その後一週間程度の『調整』を行われてから、単身兵庫へと向かわされたのだ。


 この『調整』という名の洗脳がまた恐ろしいもので、あれだけ出たくないと思っていたのに、今では出られてよかった、もう二度と戻らないようにしなければと思っているのだから不思議だった。きっと何事にも毒されやすい、単純で残念な頭をしているのだろう。称壱は自身を下卑し、嘲笑った。



 イヅルの保護をしたのは暗殺事件から二ヶ月後のことだったが、その間に戦局は急激に悪化していた。独自の情報収集と戦略を担っていた軍令部第一部七課が、壊滅状態にあることが一番の原因だった。兼吉が死に弓敦が死に、その責任を問われて岡崎が腹を切った。残った宮名と駒田が懸命に務めているが、軍令部に配属されて一年目の新人には荷が重く、更に圧倒的な経験不足も否めず正常に機能しているとは言い難かった。後任の将校たちも空いた席を埋めるためだけに宛てがわれたようなもので、思想や手段を引き継げない彼らが役に立たないことも、言うまでもないことだった。


 優秀な人材は死後に評価されるというが、あの二人もそうだったのだろう。生前はあれだけ煙たがられ、非国民だ軟弱者だと散々非難されていたのに、今は大袈裟なほどに死を悼まれている。そして「誰が殺したのか?」という話題になり、主犯そっちのけで実行犯として名を挙げられた称壱は地方に飛ばされたところだ。


 主犯が誰かという追求は、今後一切行われないのだろう。貴族連中が自分の手を汚さず、たとえ汚れたとしても権力を駆使して揉み消し、清廉を装う生き物だということは、もう嫌というほど見せつけられた。だからこそ、一つ格上の貴族だった弓敦はそんな家を見限ったのだろう。怒りや憎しみといった感情は湧かず、呆れと諦めばかりが称壱の心を埋めた。


 東京から離れて移り住んだのは、九州の鹿屋だった。リヲナと百合恵とイヅルの四人で暮らしている。大記はついてこなかった。貴族の生活が肌に合わないと早々に自立して、今は整備兵として立派に勤め上げている。弓敦を髣髴とさせるような、しっかりとした気丈な少年だった。


 東京にいた頃に比べれば生活の質は格段に下がったが、それでも今のほうがずっと良いと言い切れる自信があった。西洋人に近い容姿と混血というだけで虐げられてきたのだろう、自分と同じように精神を患っているらしいイヅルの様子も、鹿屋に来てから随分と良くなった気がしている。


 彼が抱えた疾患要因の大部分が自分だと称壱は気付かなかったが、彼の人生を大きく捻じ曲げてしまった自覚はあった。俺は、イヅルをイヅルと認知しきれていない。彼を連れ帰るために兵庫へ出向いたのに、連れ帰ったのは三笠兼吉だと思い込んでいた。動揺で声を震わす百合恵に指摘されるまで気付かず、岐山少年と対面したまま兼吉と話し続けていたのだ……。


 大変申し訳ないと思っているが、称壱はイヅルと兼吉を区別することが難しかった。良いことも悪いことも教え、馴致不能を咎めず、好きなことを好きなだけやらせてやったからか、イヅルは称壱によく懐いた。称壱も称壱で、弟のようでも我が子のようでもあるイヅルをよく可愛がった。


 関係は良好だったと思う。警戒心剥き出しの野良猫のような、誰にも触れさせず誰も信じない手負いの少年が心を開いてくれたのは本当に嬉しかった。けれど彼自身を愛し抜いてやれない。彼を彼と認知してやれもしない。「貴方は誰と話しているの?」と問うてきた時の、怪訝で寂しげな青い眼が今でも忘れられない。


 またイヅルを認知していないということと、兼吉はもういないのだということを同時に思い出して精神不安に陥り、過呼吸を起こしてからはイヅルもそれを問わなくなった。気を遣わせた挙げ句に寂しい思いをさせている罪悪感に兼吉への歪んだ感情が上乗せされ、解放された今でも、世界は着実に称壱の精神を蝕み続けた。



 兼吉が死んで一年と半年が経つそうだが、称壱はそこに疑念を抱いていた。彼は本当に死んだのか? 葬儀にも出席できず、いつも近くに兼吉を感じている称壱にはそれすらよく分からなかった。


 声は聞こえる。会話もできる。それでも人は、彼を故人だという。真相を訊ねることはできなかった。頼りになる人はいないし、リヲナや百合恵は辛そうに顔を背ける。「精神異常者が身内にいる」と散々迷惑をかけている彼女らにこれ以上の苦痛を与えるわけにもいかず、早い段階で訊ねるのをやめた。


 答えが出ない疑問にやきもきしながら、称壱は倉庫で手榴弾を弄ぶ。患って以来、妙な蒐集癖がついてしまったお陰で倉庫も随分と荒れてしまった。思い立っては片付けているものの、物品はいつの間にか増えているような状況だ。集めるときのことはよく覚えていないのだが、この手榴弾もどこかから拾ってきたものなのだろう。



――そんな物騒なものを。元のところに戻しておけよ?


「ああ、分かってるよ。そのつもりだ」



 いつものように兼吉と話しながら整理を進める。しかしこれはどこのものだろう。まず手始めに、鹿屋基地の帳面を確認してみようか。そう思ったところで目線を手元の手榴弾から離し、顔を上げた称壱は、目に映るものに息を呑んだ。



「――兼吉?」



 不自然に真っ白な景色の中に、佇んでいるのは三笠兼吉だった。幻覚か? 妄想か? 称壱は一瞬だけ疑ったが、そんなはずはないとすぐに打ち消して現実と判断する。


 兼吉は生きている。死んでなんかいない。称壱の声に反応して笑んだ彼が酷く懐かしくて、ぼろぼろと涙が溢れた。それが精神的な負荷に耐えきれなかった自身が見せた幻覚だと遂に気づけなかった称壱は、差し出された兼吉の手を取ろうと腕を伸ばした。その手から手榴弾がこぼれ落ち、指に引っかかった安全ピンが抜けた状態で、カツンと床を跳ねた――。



『またいつか、キャッチボールしような』



 体を持っていた兼吉が最期に残した言葉は、まるで呪いのように称壱の脳内に繰り返し響く。けれどそれを苦痛と感じたことはなく、寧ろ心地よいくらいだった。そうだな、必ずしよう。お前とキャッチボールを、野球をしているときが一番楽しかった。続けることは時代が許さなかったが、今ならきっと……。


 轟音が響いたのと声を聞いたのは同時だったが、前者を称壱は聞いていない。ようやくあの約束を果たせそうだ。実に八年振りの安堵を感じながら、兼吉を掴む既で東坂称壱の精神と体は完全に崩壊した。




 よく晴れた夏の日、緑が目に痛い昼時。煩いくらいの蝉時雨の中、パン、と革を叩く小気味良い音が響く――。


 

     

                                                   【完】


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兼吉 志槻 黎 @kuro_shiduki

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