過去の残響

 昔の話だ。


 あれは雨の日だった。当時はまだ空に煤が蔓延していて、空気は劣悪だった。煤が付着して黒くなった雨が、剥き出しの地面を叩きつけていた。

 カシェルは泥の上にひざまづかされ、両手を拘束されていた。武器を取り上げられ、六人の男に銃を向けられたカシェルの身を震わせたのは、帝国軍の兵士に捕まった屈辱でも、迫る死の恐怖でもなく、目の前に立つ男に対する激しい怒りだった。


「――裏切り者」


 恨み言が思わず漏れた。銃を向ける帝国軍の下っぱなど眼中にない。ただ彼らを仕切る、大尉とやらが憎くて憎くて仕方がない。


「この、嘘つき! 私を捕まえるために、姉さんに近付いたの!?」


 どんなに腹立たしいことがあっても、声を荒らげることは滅多にないカシェルだったが、このときばかりは声をあげずには居られなかった。抵抗軍の一員であったカシェルを捕らえたこの男――ミハイルが、姉の恋人でさえなければ、どうしてこれほど怒る理由があるだろう。

 激情に顔を歪めて身を捩り、睨み上げるカシェルとは対称的に、彼女を見下ろすミハイルは無表情。何を考えているか、何を感じているのか、全く判らない。


 ――裏切ったことを少しでも後悔する素振りを見せるなり、この男を信じたカシェルたち姉妹の愚かさを嘲笑うなりしたならば、きっとカシェルもここまで恨まなかっただろう。


「俺も残念だよ、カシェル」


 ようやく掛けられた囁くような声も冷たかった。


「でも、もう終わりだ」


 連れていけ、と部下に命じ、踵を返す。肩が抜けるかと思うほど容赦ない力で引っ張りあげられるのに抵抗しながら、義兄になったかもしれない男の背に向かって叫ぶ。


「あんたがっ!」


 一度言葉を切り、呻く。帝国軍に捕まる前に見た光景が脳裏に蘇った。血を流し、床に踞って震えていた姉の姿。片方の手で腹を抱え、もう片方の手で頭を抱えて噎び泣いていた声が今も耳に残っている。


「あんたの所為で、姉さんがあんなことに……っ!」


 振り向いた彼がどんな顔をしていたのか、カシェルは覚えていない。

 その瞬間に、“神”が現れたのだから。




「――はい」


 柔らかい声をかけられ、カシェルは現実に返った。突っ伏したテーブルの上から顔を上げると、目の前にブリキ製のマグカップが置かれていた。立ち上るココアの芳香。手を伸ばしてみれば、金属の容器が中の熱を伝えてきた。

 カップを抱え込むように引き寄せる。水面には僅かに膜が浮いていて、なんと牛乳を使っているらしい。地方から仕入れるしかない畜産物は貴重だ。野菜は環境さえ調えば機械設備で育てられるが、広大な大地と人の手による細かな世話が必要な動物はそうはいかない。


「何かあった?」


 ココアをすすり、姉の質問を黙殺する。ミハイルに会ったなどと言えるはずがない。あのような目に遭って、それでもなお姉の心に棲む男の話など、どうして。


「――元気だった?」


 よほど念入りに温めてあったようだ。舌の先を火傷した。

 黙っていても、姉にはすべてお見通しらしい。オードリーが予想より早く帰ってきた時点で、看破されることは覚悟していた。カシェルは感情を表に出すのは不得手なのだが、親しくなるほど付き合いができた者には、何故かいつも“わかりやすい”と言われる。生まれたときから一緒に暮らす姉が、そんなカシェルの隠し事を見通せないはずもない。


「忘れたら、あの男の事は」


 思わず辛辣な台詞が出た。感情の制御がまだ上手くいかないらしい。そうね、と姉は寂しげに微笑む。でも、そうするとは一度も言ったことはない。カシェルもこれ以上強く言うことはできない。


 オードリーが足に後遺症を残すような酷い目に遭ったのは、ミハイルの所為だけではない。カシェルにも原因の一端があった。

 カシェルは元抵抗軍の一員だった。テロリズムなど起こさない、帝国軍との揉め事のときにだけ顔を出し、闘争よりは牽制のために武力を示す、一応穏健派に位置付けられる立場であったが、帝国軍側にとっては穏健だろうと過激だろうと同じ反逆者。そこそこ名を知れたカシェルは煩わしかったのだろう、軍は執拗にカシェルを追い回していたが、次第に面倒になったのか、姉に目を付けた。


 そして、襲った。足の後遺症はそのときのものだ。


 姉は、カシェルと違って一般市民だった。それなのに、妹が反政府運動に加わっていたという理由だけで襲われ、一生残る傷を負った。憎きは帝国軍。鬼畜の所業だ。だが、カシェルが早いうちに足を洗っていれば起きなかった事態だった。家族に危険が及ぶ可能性はいつも頭の片隅にあったのに。


 それでも、姉は何も言わない。カシェルが抵抗軍に参加していなければ傷を負うことはなかった、恋人に裏切られることもなかった、そう責められても仕方ないのに、彼女は相変わらずカシェルを可愛い妹として扱い、傍に居て微笑んだ。仲違いとならなかったことに安堵する一方で、姉の胸のうちがわからなくて、時折不安になる。いつか溜まりに溜まって爆発してしまうのかもしれないと思うと怖いのだ。たった一人の家族だ、嫌われたくはない。だから、つい溢してしまうことはあっても、強く姉を咎めることはできない。


 気まずい沈黙に耐えられなくなる。だから、自分の気持ちを消化するための時間が欲しかったのに。ミヤビが余計な気を回した所為で――。逆恨みであることは分かっていても、少し恨めしい。


 唐突に、金属を叩く音が部屋中に鳴り響いた。頭が痛くなるほど耳障りなこのベルは、巨兵がどこかに現れたことを告げる警報だ。ここに住む者は昼夜を問わずこの音に苛まれるが、今のカシェルにとっては救いの音だった。これで逃げ出せる。

 立ち上がり、右手を振る。少し痛むが、これなら出動しても大丈夫だろう。


「帰って来たばかりなのに」


 オードリーは、けたたましく鳴るベルを見ながら残念そうに溜め息を吐く。


「……気を付けてね」


 カシェルを見上げる瞳は本当に心配そうで、まだ姉に見放されていないのだ、と安堵する。まだ安心できるのであると判れば、自然と力も湧いてくるというもの。


「大丈夫。絶対帰ってくる」


 オードリーに嫌われようと恨まれようと、恋人がいない今、彼女を守れるのはカシェルだけなのだから。




 巨兵が現れたという場所は、都の東側にある廃工場だという。都心の瓦礫の山とはまた異なる荒廃の地には、三体の鉄人形が聳え立っていた。上半身が大きく角ばった黒い巨体が一体。シンプルな形状で丸い肩に炉が見える灰色の巨体が二体。遠目だが、どちらも先ほどの弐式とは違う。カシェルが初めて見る個体だった。

 ――それにしても、何故神の巨兵はどれも例外なく白い仮面を着けているのだろうか。南中の月明かりに浮かび上がる顔は不気味だった。


「重量型伍式が一体に、中距離型陸式が二体、か……」


 スコープで敵を観察したアレックスが呟く。どうやら彼女はあの巨兵たちのことを知っているらしい。


「三体か。どうしよっか」


 カシェルたちは全部で五人。一体につき、一人か二人で対処する形になる。数の上では勝っているが、相手は巨兵、大きさも攻撃力も段違いだ。その上、狙撃手アレックスと補助のエスメラルダは後方に回るので、前線に立つのはカシェル、ミヤビ、バーバラが一人に一体ずつ巨兵を相手にすることになる。

 それは、些か苦しい状況だ。


「なら、一体こちらに譲るっていうのはどうだろう?」


 いい方法はないものかと頭を悩ませていると、背後から声を掛けられた。振り返ったその先には、さっきからカシェルを苛んでいる男が立っていた。


「なんでここにいるの」

「帰り道に見かけたから、来てみただけさ。偶然だよ」


 本当だろうか。カシェルは胡乱な目つきでミハイルを睨んだ。さっきすれ違ってから、ゆうに二時間ほど経過している。その間ずっとうろうろしていたとは考えにくいし、そもそもこちらは宮殿とは反対方向。帰り際のはずがない。

 ミハイルは食えない笑みを消し、真剣な表情でカシェルを見つめた。


「今回ばかりは、君たちだけでは無理だ。察しがついているんだろう? 意地を張っている場合じゃないと思うんだけど。……その腕も不調みたいだしね」


 指摘されて、とっさに右手で手首を覆った。弱味など見せたくなかったが、袖のない腕に白の湿布は夜目にも目立つ。剣は握れる。問題なく振れる。だが、いつも通りに、とはいかないのも事実。

 本当に癪だが、カシェルの不調は他の四人にも響く。意地を通すために彼女たちを犠牲にするわけにはいかない。


「――一つあげるから、さっさと行って」

「そうこなくちゃね」


 恨めしそうに願うカシェルに、彼は片目を閉じてみせた。そして、


「無茶は駄目だよ、カシェル」


 そう言い残して、部下を連れて伍式の方へと向かった。片方の弱点が見えている陸式をカシェルたちに宛がったのは、わざとだろうか。


「あげちゃっていいの?」


 憮然と押し黙るカシェルに、エスメラルダが声を掛ける。獲物が一つ減るということは回収できる素材が減るということでもあるのだが、彼女はとくに不満はないようだ。


「そうでもしないと、いつまでもうるさいから」

「そういうことにしておきましょ」


 含みのあるミヤビの台詞は黙殺し、アレックスに目を向ける。彼女はカシェルの意を汲んで銃を構えた。


「いくよ」


 発砲と共に、カシェルたちは前を飛び出した。

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