熱帯夜

灰崎千尋

「夏は、眼鏡が曇らないすばらしい季節のはずだったんだ」


 そう祐也が言い終えるか終わらないかのうちに、ドラッグストアの自動ドアが背後でゆっくりと閉まる。さっきまで全身を包んで寒いほどだった冷気を、サウナのように湿気を帯びた熱が容赦なくひっぺがす。

 隣を見れば、夜の闇の中に白く曇った眼鏡がぼんやりと浮かんでいた。

「うわぁ」と思わず声に出ていた。

「うわぁ、とか言うなよな。俺の方がうんざりしてるんだから」

 祐也はけだるげに両手で眼鏡をはずすと、ぷらぷらと上下に振った。レンズの曇りは数秒でなくなり、ため息をつきながら彼は眼鏡をかけ直した。

「湯気の出るようなものなんか食べないし、息が白いわけでもない。夏の間は、この曇りから解放されるはずだったんだ。それなのに」

 じわじわと滲む汗で、Tシャツが肌にぺたりと吸い付く。わかった、もうそれ以上言うな。

「どうしてこんなに暑いんだ!」


 この田舎町で唯一、夜十時まで開いているドラッグストアに行って祐也とばったり出会ったのは、ついさっきのことだ。最初に相手に気づいたのは俺だったのだが、久しぶりのことで何と声をかけていいか迷っているうちに向こうも気づいて、屈託のない笑顔で駆け寄ってきたのだった。

 久しぶり、といっても三月の高校卒業以来なので、せいぜい五ヶ月ほどなのだけれど。

「俺たちがちっちゃい頃ってさ、こんなに暑くなかったよな?」

「確かに、お前の眼鏡が夏に曇るの初めて見たかも」

 だよなー、と空を仰ぐ祐也と俺は、並んで自転車を押している。例のドラッグストアは、一部の飲み物やお菓子はコンビニより安く手に入るものの、長く急な坂を下った先にあるのだ。行きはよいよい帰りは、というやつである。そのため、ここへの買い出しは若い男が使われることが多い。今の俺のように。

「修ちゃんは東京どう、そっちも暑い?」

「……天気予報見ればわかるだろ、一緒だよ。暑いよ。というか久しぶりに『修ちゃん』て呼ばれたから反応が遅れた」

「えーじゃあなんて呼ばれてるの?」

「木下くん、とか修司くん、とかそのへん」

「うわーなんかサブイボでる」

「サブイボもこっちでは言わない」

「こっちとか!もう完全にシティボーイ気取り!」

「そんなんじゃないけど」

 若干苛つきつつも、祐也との会話の勘を取り戻してきた気がする。そうだ、こいつとはこんな感じだった。眼鏡をかけて黙っていれば真面目に見えるのに、いつもへらへらふざけているので色々と台無しなのだった。


 祐也と俺は同い年の幼馴染で、小学校入学あたりからの付き合いだ。坂の上にある団地の一画、同じ住宅メーカーの建売住宅、それが五軒ならぶうちの両端がそれぞれの家だったのだ。近所で同じ年の子供がいる家同士、すぐに家族ぐるみの付き合いが始まった。俺は人見知りする方だったのだが、祐也が割と強引にこっちのつくった壁を壊してきた気がする。そこからは「祐ちゃん」「修ちゃん」と呼び合う仲になって、祐也の妹も混ぜて遊んだりしていた。

 小学校、中学校までは同じ公立で、一緒に登校はするけれど校内で仲の良いグループは別だった。そのうちに俺はなんとなく「祐ちゃん」ではなく「祐也」と呼ぶようになって、高校で初めて違う学校になった。しかし朝乗る電車の時間は近かったので、家から駅までは自然と一緒に通っていた。

 そしてこの四月から、祐也は県内の、俺は東京の大学へ通うことになり、それなりのお別れをして五ヶ月ほど経ち─今に至るのだった。


 そんなことを一つ一つ思い出しながら坂道を上っていて、「なぁ聞いてる?」と言われるまで、祐也の話を全然聞いていなかった。

「ごめん、何?」

「だから、俺何か変わったと思わない?」

「髪切ったとか」

「そりゃ先月くらいにも切ってるけどさ。そうじゃなくて」

 期待を込めた目で見られているようなので、ちゃんと考えることにする。今更背が伸びているわけでもないし、もともと色素の薄い茶髪も、同じように薄い色の瞳も同じ─

「ええと、眼鏡変えた?」

「そう!やっと気づいてくれた」

 祐也は柴犬のようにへらりと笑った。

 確か高校までは、この顔にはなんの変哲もない量産型の黒いセルフレームが乗っかっていたはずだ。しかし今は、シルバーの太めのツルでなんだかシュッとした縁無しの眼鏡をしている。そこそこ似合っているのがなんだかむかつく。

「母さんと妹がさぁ、大学デビューだっつって選んでくれたんだよね。俺にはよくわかんないんだけど、これが効果てきめんでさ。真面目でデキる人に見られるみたいでモテモテよ」

「でも喋るとバカがバレるだろ」

「バカとはなんだ。でもそうなんだよなー、初対面にしかきかない」

 祐也は悔しそうに言うが、真面目キャラでいくのは無理がある。そもそも祐也が小学生のうちに近視になったのは、夜中に隠れてゲームをやったり漫画を読んだりしていたせいだったはずだ。

「まぁ似合ってるってことでいいんじゃないの」

 俺はちょっと投げやりに言ったつもりだったのだが、祐也は嬉しそうだった。


「なぁ、久しぶりにパンダ公園行かない?」

 ようやく坂を上りきって自転車のサドルにまたがろうとする俺に、祐也が言った。

「はぁ?今から?」

 パンダ公園は、団地よりももう一段高い山の上にある。さっきまでの坂よりマシとはいえ、まだ上ろうというのか。

「このクソ暑いのに……だいたい祐也も買い出しで来たんだろ。いいのかよ、それ」

 俺は祐也の自転車のカゴを指差した。中にはドラッグストアでキンキンに冷やされた缶ビールが入っているはずだ。

「いいんだよ。逃げてきたようなもんだから」

 そう言うと、祐也はさっさと自転車で先へ行ってしまった。


 山の中は暗く、わずかだが気温も低い気がした。けれど体にまとわりつくような湿気は増しているし、暑さで時差ボケした蝉が夜だというのに鳴き散らかしていてうるさい。この先にあるのはパンダ公園くらいなので、他に車や人影もなく、街灯はぽつり、ぽつりと最低限の間隔で並んでいる。俺は先を行く祐也の背中と自転車のライトを追うばかりだった。

 公園の入り口にあるポールの前に自転車を停めて、中へ入っていく。伸びた雑草の先が足首にチクチクと刺さる。短パンで出てきたことを後悔したが、そもそもここへ来る予定ではなかったのだから仕方ない。あいつのせいだ。

 そのうちに踏みしめるものが草から砂に変わる。公園の中心は小さなグラウンドのようになっていて、ぽっかりと禿げ頭のように砂が敷き詰められているのだ。そのグラウンドをさらに突っ切っていくと開けた場所に出て、団地一帯を見渡せるようになっていた。

 そうして公園の端っこで下界を見下ろすように鎮座しているのが、パンダの遊具なのだった。

「パンダさん、久しぶり」

 祐也がパンダの背を叩くと、ポンポン、と妙に小気味良い音が鳴った。どれくらいここにある遊具なのかわからないが、白黒の塗装も剥げてきていて、ところどころに穴も空いている。背中を撫でると砂も混じってざらざらとしていた。

「祐也はいつでも来られるだろ」

 そう俺がつぶやくと、

「一人じゃ来ないよ」

 と祐也もつぶやいた。


「今日おばさん……父さんのおねーさん?夫婦が来ててさ。めちゃくちゃよく喋るおばさんなんだけど、母さんと妹とずうっとなんか話して盛り上がってて。父さんとおじさんはなんかしんみり酒飲んでるし、面倒くさくなって出てきちゃったんだよね」

 パンダの背に腰掛けながら、祐也が言った。

「修ちゃんは?」

 問われて急に恥ずかしくなった。あまりにしょうもないので。

「……別に」

「ふぅん、そっか」

 事も無げに返されたが、どうも見透かされている気がする。それに、こいつには言ってしまったほうがたぶん楽だ。

「この四、五ヶ月で結構一人暮らしに慣れてたみたいで、帰ったは良いけど父親と母親をなんて呼んでたかも一瞬わからなくなって、夕飯食べた後の居間に三人座ってるのもなんか妙な感じがして」

「あー、修ちゃんそういうところあるよね」

 祐也は団地を見下ろしながら言った。つられて俺も目を向ける。

「自分ちなのになぁ」

「……なぁ」

 正確な位置はわからないけれど、明かりのついた、それぞれの家のある辺り。

「こうやって独り立ちってしてくのかねぇ、やだやだ」

 祐也は片手で眼鏡を少し持ち上げると、もう片方の手で肩にかけたタオルの端をとり、額から鼻筋に流れる汗を拭った。やけに芝居がかった台詞や首のタオルはオヤジくさいが、意外と形の良い鼻をしていることに気づいた。喉仏、こんなに出ていたっけ。こいつに背を抜かされたのはいつだったか。

 ぷしゅり、という音がそんな俺の物思いを打ち消した。祐也はいつの間にか缶ビールを手にしている。さっき買ったやつだ。

「お前、未成年飲酒─」

「いいじゃんいいじゃん、どうせ大学でそこそこ飲んでるし?」

「そりゃ、まぁ、そうだけど……」

 ん、と祐也が蓋の開いた缶を差し出してくる。それを仕方なく受け取ると、缶の冷たさが心地よく、罪悪感を曖昧にする。祐也は躊躇なくもう一本もぷしゅり、と開けた。

「かんぱーい」

「乾杯」

 ほんの少し温くはなっていたけれど、炭酸と苦味が喉を駆け抜けていくのは爽快だ。汗も一瞬引いた気がする。どちらからともなく、ぷはぁ、とCMのように息を吐く。

「夏はやっぱりこれだよなぁ」

 やっぱりオヤジくさい。顔に出ていたのか「そんな目で見るなよう」と祐也は頭をかいた。


 今年知ったビールの味は嫌いじゃない。けれどロング缶を短時間で飲み干す勇気はない。ちびちびと飲む俺の缶には、まだ半分は中身がある。対して祐也は、コーラを飲むような勢いで缶を傾けている。大丈夫なのか。

「修ちゃんてさぁ」

 とりあえず呂律はまわっている。

「ずっと目いいんだっけ」

「うん?まぁ、裸眼で免許とれるくらいには」

「じゃあ、修ちゃんはこの景色知らないんだな」

 裕也はそう言ってビール缶を足元に置くと、おもむろに眼鏡をはずした。

 焦点の合わない目、というのはこれのことか、と思った。たぶん本当に、裕也の脳には像を結んでいないんだろう。目を開いてはいるけれど、遠くも近くも見ていない。団地の方へ向いた目は、何かを探すように何度か細められていた。

「目が悪いのは色々面倒だけど、ちっちゃい頃からこの景色は好きなんだ」

 夢の話でもするように、裕也はふわふわとつぶやいた。

「目が悪いとさ、カメラのピントが合わない感じ、あのぼやけた感じが普通になっちゃうわけだけど。夜になって、その目で街の灯りを見るとすっごく綺麗なんだ。ただの信号や街灯がイルミネーションみたいにキラキラして。何もかもぼんやり溶け合って。万華鏡みたいで」

 そこまで言うと、祐也は再び眼鏡をかけた。二、三度レンズの奥の目が瞬く。

「まぁあんまり長く見てると疲れちゃうし、ときどきなんだけどね」

 俺は衝動的にぐっとビールを飲み干して、地面に缶を乱暴に置いた。軽くなった缶はころりと倒れて、底に少し残っていた中身をしゅわしゅわと吐き出した。祐也に歩み寄り、今かけたばかりの眼鏡を取り上げる。多少レンズが汚れてはいるが、物の扱いが雑な割には、傷もあまりない。この眼鏡がなければ、俺と祐也は同じものを見ることすらできないのだ。至極当たり前のことなのに、それが無性に悔しかった。

 眼鏡を自分の顔にかざしてみる。レンズの奥の景色は歪み、綺麗などころかこちらに襲いかかってくるようだ。数秒で頭が痛くなってくる。こうなるのはわかっていた。幼い頃にも同じことをした記憶がある。でもあの頃は、こんなに眼鏡の幅が余ってはいなかったと思う。

「修ちゃん、結構眼鏡似合うよね」

「お前また適当なこと言って」

 祐也の顔に眼鏡を戻してやった。適当に突っ込んだら、ツルが耳の変な所にひっかかってしまった。いてて、と言いながら祐也が眼鏡をかちゃかちゃとかけ直す。そうして何が嬉しいんだか、へへ、と笑った。

「帰ろっか」

 祐也は自分のビールをあおって、最後の一滴までずず、と啜った。そうしてパンダの背から立ち上がり俺の転がした缶を拾って、歩きだした。俺はその後を追い、追い抜きざま二本の空き缶をひったくり、公園のゴミ箱へ放り込んだ。

「お前のせいで自転車押して帰らないといけないんだからな」

「えー、修ちゃん細かいなぁ。この辺なら大丈夫だよ」

「飲酒はともかく飲酒運転は駄目だろ」

 俺は自分の自転車のカゴに入っている、コーラやサイダーと、それに紛れ込ませたチューハイの缶を眺めた。どれも結露で汗だくになっている。もう一度冷やさないと飲めたものではないだろう。どこまでもみみっちい自分に嫌気が差す。

「やっぱり暑いな」

 そう言いながら渋々自転車を押す祐也が今何を見ているのか、俺にはもうわからなかった。

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