第34話
この頃、大久保正毅の政治活動は熱を帯びざるを得なかった。何せ時代が鳴動しようとしているのである。巷ではいよいよ次期村長には大久保正毅しかいないとまで言われるようになっていた。また理子の堕胎も知れ渡り、一人息子である遼介もどうやら結核らしいという噂が持ち上がり、同情の声が聞かれた。しかし一部の村人は、正毅が今年の夏祭りで神社にほとんど乱入し、神を愚弄するような数々の言動をしたことへの、諏訪様の罰(ばち)が当たったという話も聞かれていた。
正毅の政治活動の沿革を見てみると、彼は大正後期に村議会議員に選出され、まず村に海軍工廠の誘致を推し進めようとしていた。しかしこれは新山喜助議員(当時はまだ村長ではなく、彼は一有力議員だった)の反対により、実現を見なかった。喜助議員は「海軍工廠など誘致してみろ。たちまちこの村は、世界帝国から狙われる恐れのある村に変貌してしまう。ソ連が真っ先にこの村に目を向けるよ。英国だって何を考えているのか分かったもんじゃない」。反対派の議員を掻き集めて熱弁を振るった。このときの喜助の判断は、実に真を穿っていて、海軍工廠など誘致していたら、この村は昭和十八年から、昭和十九年くらいまでに、ほぼ確実に空爆の対象となったのにちがいなかった。喜助が村長に就任すると(この頃の彼は、実に政治というものが見えていた)、正毅は婦人参政権の擁護者になった。正毅は、婦人参政権なんぞに興味は全くなかったのだが、現段階で新山政権を覆すには、婦人の支持を取り付けることが急務であると打算していたのである。正毅は頻繁に婦人会に呼ばれて、そして婦人にも政治に参与する権利があることを熱弁し、この国を正しく全うな方向へ舵を取るため、婦人も勉学に勤しみ、政見を持たなければならないことを説いた。この活動はあくまで正毅の個人的な議員活動だったので、新山喜助村長の邪魔が入ることはなかった。しかし喜助村長は婦人参政権の強硬な反対論者であった(正毅もこのことを知っていた)。喜助村長は「婦人参政権など、実現してみろ。この国はたちまち諸外国から愚民政治の代表国として、笑止されてしまうじゃないか。考えてもみろ、女は少し頭が弱い程度の方が可愛いくらいなんだ。もしも家でも政治云々の話でもされて、口を出してきたらば、うるさくてかなわんよ。だいたいこんな村の一議員が婦人参政権などと訴えても、中央には遠く届かんのだよ。滑稽じゃないか。所詮、政治家は国と国民を結ぶ仲介役程度の仕事でちょうどいいんだ。誰も新しい政策を打ち出してほしいなどとは思っておらんのだよ」。やはり愚痴った。
敗戦し、祭りを終えてしばらく経つと、新聞には「民主的改革」等の文字がいちいち目に付くようになった。何処の新聞社でも、「民主的改革」という文字をまるで振りかざした。これまでの日本は言うまでもなく大日本帝国憲法(明治憲法)に裏付けられた、「天皇主権」の国家であった。新聞社はそれを否定するような言葉を躍らせたのである。もちろん彼らは「民主的改革」が「天皇主権」と真っ向から相反する言葉であることを知らずに使用していた。時代に迎合していただけの、イエロージャーナリズムだった。社説は何処の新聞社も「民主的改革」という中身なき改革の中身を探るように、それぞれの新聞社が持つ政見とこの国の将来の形に付いての標榜を掲げ、それを模索し、混沌とした様相を呈していた。社説は様々な形を取っていたが、天皇の在不在を問うことが最も大きな課題として浮き彫りになるのは、もう昭和二十年も暮れになる頃を待たなければならない。
敗戦から二ヶ月以上が経過した今日において、村人の意識も変容を見せ始めていた。日本の将来の展望に興味を抱かなかった者などいなかった。村のあちらこちらで村議会議員を含めた寄り合いが開かれていたし、懇談会なるものもそこかしこで開かれていた。その中には無論、新山喜助村長の姿もあったし、大久保正毅議員の姿もあった。
そこで公民館において三人による政見演説会が昭和二十年十月三十日に行われることになった。この政見演説には新山喜助村長、大久保正毅議員、それに在野ながら卓越した政見を持っているとされた、榊原満治の三人がそれぞれ演説することが決まっていた。
榊原満治は、上越を代表する商家の生まれで、坂内(柿崎)朝美が東京で路頭に暮れているときに、彼女を女中として雇ってくれた人物だ。榊原は戦争に関しては、一貫して反対の態度を表明していたが(日中戦争からも足を引くように内閣参謀に提言していた)、日本は太平洋戦争へと転がり落ちた。榊原は「愚かな!」。一喝し憤怒したが、ことここに至っては、止む無しとして、国に個人の名義で三十万円もの莫大な金を寄贈した。
やがて空襲が本格化し、東京大空襲に見舞われると、榊原の麻布にある家も、彼が不動産として所有していた物件の数々もほとんどが焼け落ちた。榊原は財産をほとんど失ったのである(しかし有価証券は持っていた)。榊原は全国各地に別荘を持っていたが、敗戦当時は、我が村にある別荘に一家で疎開しに来ていた。我が村は冬の寒さは身に沁みたが、風光明媚な村として知られ、榊原の目に留まるほど、空襲とは無縁な鄙びた村だった。
榊原はこの村の政治なんぞに全く興味を示さなかったが、村人の達ての希望ということでこの政見演説に加わらざるをえなくなった。イエローモンキーと言えば欧米諸国が用いる日本人の蔑称のことであるが、榊原にもこの村の住人がほとんど猿に見えた。村民は愚直なまでに榊原の演説に期待を寄せていた。こんな田舎村にありながら、欧米で培われた最先端の思想(民主主義)を聴くことができるものだと思っていた。榊原は十年以上前から、大久保正毅と密につながっており、ほとんど有志と言えるまでに関係を温めていた。榊原は村人の愚直なまでの希望と熱い要望を受けて、つい失笑し、正毅に向かって「馬の耳に念仏、豚に真珠」と漏らしたという。アインシュタイン博士(当時はお役所務めだった)が、1905年、三月を皮切りに「光量子論」、「ブラウン運動」と共に、「特殊相対性理論」を発表し、1919年、エディントン観測隊によるアフリカ、ギニアでの日食観測が行われるまで、相対性理論は半信半疑の物議を醸していた。当時のオランダ物理学者ローレンツは相対性理論を厳しく批判した。それと同じである。どんなに卓越した政見でも、受皿が悪ければ、その質の純度を保てなくなるのである。榊原にとってはマルクスの「資本論」こそが、彼の聖典であった。そして榊原はアメリカという超資本経済大国に留学し、資本論の本質をつぶさに実見してきて、その聖典の論拠がより明らかになったと確信した。その資本論を村人に理解させることは猿に芸を仕込むよりも難しいとさえ思われた。
榊原は公民館に何かを期待して足を運ぶ住人たちを目の当たりにし、やはり失笑を禁じ得なかった。村人は良く言えば質素、悪く言えば小汚らしい服に身を包んで、公民館を訪れていた。公民館の大広間(八十人収容)が本日の会場であった。大広間には所狭しと、座布団が碁盤のように敷き詰められ、すでに何人かの村人が群れをなしていた。演説が開始されるのは三時からであったが、六十人ほどが大広間に入り、入りきらない者も廊下で佇み、演説を待っていた。恐らく百名を超える人々が集まっていた。榊原はこの服を着ている人々が日本の将来に憂いを抱くなど噴飯ものに思われた。自分の生活にさえ汲々としている村人が日本の将来に大志を馳せているのである。榊原は、反福沢諭吉派であったが、ふと「学問のすゝめ」の説くように、国家の独立は、個人の独立に基づくものである、という言葉が妙に腑に落ちた。
会場の上座に三脚の椅子が用意され、そこに本日の演説者が座ることになっていた。中央に演壇が用意され、マイクが用意されていた。まず初めに新山喜助が紋付き袴(新山家の家紋は鷹の羽紋だった)をまとって、会場に姿を見せた。その後に大久保正毅が会場入りし、彼もやはり武田菱が染め抜かれた紋付き袴を着用し、足を引きずるように会場に姿を現せ、ずっしりと椅子に腰を沈めた。最後に(演説の開始時刻である三時のちょうど五分前に)会場に現れたのが榊原満治だった。彼は上質なグレーのスーツに身を包み、シルバーのネクタイを巻いていた。シャツは皺ひとつ認められないダークグレーのものを着用し、村人の度肝を抜かせた。村人は「まるでエゲレス人のようじゃ」と言った。無論、彼らは「エゲレス人」なる存在を一度も見たことがなかった。
司会を務めたのは村でも厳粛公正無私で知られる服部という村議会議員だった。服部は良太郎の数少ない友人の一人だったが、良太郎(もっとも幸作も)はこの演説会に足を運ばなかった。服部は多くを語ることはなく、実務的な政治を得意としており、村人から最も敬われる議員の一人でもあった。彼は今回の政見演説についても多くを語らなかった。しかしいよいよ三時になり、定刻通りに会場も演説者も温まっているのを見届けて、彼は語り出した。
「本日は、此度の政見披露演説会に御多忙を極める中、御足労いただき、誠にありがとうございます」と服部は慇懃に始めた。「皆様も御存じの通り、本日は皆様が良く知る三名の方に登壇していただくことになっております。それでは本日の演説者を紹介させて頂きます。まず初めに我が村の村長である新山喜助氏を御紹介致します。新山氏は――」
紹介されると新山喜助はびしっと立ち上がり、皆に向かって申し訳ない禿げ頭を下げた。彼の頭の横にはまだ遠慮するみたいに毛が残っていて、それを椿油で後ろに流し、鮪の赤身のようにてらてら光っていた。
「続きまして」と服部は言った。「在野ながらも、米国に留学経験を持ち、この日本の経済基盤を支えてきたと言っても過言にはならない、榊原満治氏であります――」
榊原は「私は足が悪くてね」。言った。かの二・二六事件の折、榊原は監禁され軍事資金の「借款」もとい、「献納」を求められたが、金で命を買った「売国奴(ばいこくど)」呼ばわりされるよりは、硬骨派の財界人として名を遺すことを誓った。その際に榊原は拳銃で足の小指ともも肉を撃ち抜かれる重傷を負わされた。それでも榊原は一文たりとて、「賊軍」に献金などしなかった。その榊原の堂々とした振る舞いは、時の内閣総理大臣岡田啓介首相の耳元まで届いたという。榊原の名は一躍有名になり、彼は古風ではあるが「憂国の志士」として名を馳せた。村人はそのような事情も評価もすべて知っていて、やはり榊原がどんな演説をするのかに期待を膨らませたのである。
榊原は起立することもなく、杖を自分の前に立て掛け、それに身体を預けていた。榊原は紹介されると、鼻から大きな息を吐き、椅子の背もたれにぐっと寄り掛かった。
「最後に登壇いただくのは」と服部は言った。「日露戦争の兵役に身を投じ、政治家に転身した後も、様々な政策を打ち出し、村人の尊敬を一手に集める大久保正毅議員です――」
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