第32話

 村人の噂が質を変えたのは、事件から五日後の九月一日であった。

「理子ちゃんが大変なんだって言うぜ」

「子を堕ろさなければ、命に拘わるらしいじゃないか」

「ようやく理子ちゃんにも子どもができたのに、残念な話だよな」

 個人情報なんて概念はあって、ないような時代だった。この小さなムラ社会では、すべての情報が隅から隅まで共有される。正平の噂があれだけ短期間で一つの定説に辿り着いた背景には、このようなムラ社会特有の情報網が張り巡らされていたからだ。

 さらに遼介の病名が発覚した。「結核」である。こちらも九月一日に病理検査の診断用紙が日下診療所へ送付されてきた。良太郎は検査用紙に目を落とすと、眉間に深い皺を寄せた。幸作たちの母は結核によって大正十三年に亡くなっていた。彼女の時代には結核菌に対する、有効な薬剤の開発は追い付いておらず、結果として良太郎は最愛の妻を失った。しかしあれから二十数年を数えた今日において、結核菌に対する有効な薬剤の開発も日進月歩で進み、臨床試験での推計もまとめられていた。

 ストレプトマイシン。数年前にアメリカのラトガース大学の研究室で単離することに成功した薬剤の名前だった。この抗生物質が感染病の治療に著しい進歩をもたらせたのは、医学史に燦然と輝く功績である。この薬剤の開発によって、結核は不治の病である宿命から逃れられることになるのだが、それはもう少し先の話である。昭和二十年九月の段階でストレプトマイシンの薬名はまだ一部の医学者にしか知られていなかった。しかし遼介が「結核」の診断を受けると、良太郎の脳裏に、このストレプトマイシンの薬名が稲光のように轟いた。彼はすぐに医科専門学校時代の教授に手紙を書き、帝國大学の権威に対する推薦状を書いてもらう手筈を整えた。

 九月二日(日)は宿命的な日だった。幸作によって理子の堕胎手術が行われる日だった。折しも太平洋沖のミズーリ号では日本が太平洋戦争の無条件降伏文書に調印をする日に当たっていた。その日は朝から篠突くような雨が、屋根を打ち、窓を打ち、あるいは路面で砕けて飛沫を散らしていた。理子は診療所の二階にある個室に入院していた。彼女はベッドに上半身を起こして、窓の外を眺めていた。傍らには大久保家の、正毅、トヨ、もちろん遼介が侍(はべ)っていた。トヨは理子を抱き締めながら涙していた。トヨは「理子さん、ごめんなさいぃ。わたくしがくだらない意地悪で理子さんを苦しめてしまったから!」。喚いたが、理子は「お義母さんのせいでは決してありませんから。わたくしが妊婦として、もっと自覚を持つべきだったのです」。普段の甲高い理子の声とは違い、落ち着いたしとやかな声で言った。理子はここ数日間ですっかり衰え、瞳も何処か虚ろだった。唇はかさかさに渇いており、饒舌だったはずの彼女の舌も、今は重い。なかなか泣き止まないトヨを見兼ねて、理子はまた子を授かり、元気な子を産むことを誓った。それを聞いたトヨはさらに涙を流した。「わたくしを赦していただけるんでしょうか!」。理子は「赦すも何も、お義母さんに恨みを抱いたことなど一度もありませんもの」と言った。

 遼介が「理子と二人きりにさせてください」と言った。正毅とトヨは心配そうに理子を何度か振り返りながら、廊下へ出た。幸作が足の悪い正毅のために椅子を持って廊下に歩いてきた。正毅はその椅子に巨躯を埋めた。幸作は何も言わずに踵を返したが、その背中にトヨの「幸作さん、赤ちゃんを諦めれば、理子さんは助かるんですよね?」。声がぶつかった。幸作は一瞬、足を止め、「ええ」と一言した。さらにトヨは「理子さんはまた、妊娠できる身体に戻るんですよね」と幸作の背に言葉を投げ付けた。幸作は再び「ええ」と口にすると、階段を下って行った。

病室で二人きりになった理子と遼介は、しばらく言葉を探していた。理子は窓を打ち付ける雨を眺めていた。窓の外には滝のように上から下へ雫が滴っていた。遼介もやはり椅子に深く腰かけ、外の様子を眺めた。遼介の結核は、しばらく良太郎と幸作との間で固く秘匿することが決まっていた。少なくとも理子の堕胎手術が終わり、彼らの精神状態が落ち着くまでは、明かさない方針を固めていた。

「なぁ、理子」と遼介が口を開いた。「私たちは九月二日を忘れない」

「分かっているわ」理子は答えた。「でも心が許さないの。わたくしは母親になれなかった。わたくしの記憶のお母さんは、優しくて柔らかで、毛布みたいにわたくしを寒さから守ってくれたの。わたしくしはそんな母親になりたかった」

「君は立派な母親だった」

「子どもを見殺しにするような母が立派なものですか!」

「理子、再び子どもを作ろう。そして今度こそ三人で幸せを掴み取ろう」

 理子は遠い眼差しをして、目に入るものを次から次へとじっと見つめていた。その瞳は涙に湿っていた。理子は目に入るものを目に入るままに任せていたが、それは映像として理子の脳裏に決して焼き付くことはなかった。ただ彼女の目に見える世界はすべて色褪せていて、モノトーンの世界が広がっていた。それは見慣れたはずの診療所の風景ではなく、全く知らない場所にいるような錯覚を覚えた。

「神様は」と理子は口にした。「何故、わたくしから赤ちゃんを奪うの?」

「理子、神なんてこの世にいないさ。そこには現象があるだけさ」

 遼介は言って、子どもは神に奪われるんじゃない。子癇という病気のために、日下幸作という医師によって奪われるんだ。言おうとしたが、言葉には出さなかった。

「遼介さんは、それで割り切れるの?」

「割り切れるワケが……ないじゃないか……」遼介の語気は弱かった。「でも、理子……、ごめん……私も……」

 それから二人はまた中空に漂う言葉を掴みあぐね、言葉を失っていた。



 そこによし乃が病室に入ってきた。遼介は「よし乃さん?」。言うと、すぐによし乃に椅子を譲った。よし乃はそれに大儀そうに腰をかけた。よし乃は着物の袂から何やら小瓶に入った丸薬を取り出し、「理子ちゃん、これをお飲みなさいな」と勧めた。その小瓶の中には桂枝茯苓(けいしぶくりょう)丸(がん)という、血脈を整える漢方薬が入っていた。理子はよし乃の顔を見るといきなり涙がとめどなく流れ出してきた。よし乃の胸に飛び込み、きつく背中に手を回し、抱き締め、わーっと声をあげて泣いた。理子は「お婆ちゃん! お婆ちゃん!」。と泣きじゃくった。それは次第に嗚咽に変わった。よし乃は皺くちゃな顔に笑顔を浮かべると、「おやまぁ、理子ちゃん、綺麗なお顔が台無しですよ」。言った。それから「婆がいつも傍におるからね。怖くないからね。大丈夫だからね」とよし乃は理子の頭を愛撫しながら言った。理子は幼くして母が亡くなり、寂しくなるといつもよし乃の家で過ごした。よし乃は理子をいつも温かく迎えてくれた。よし乃に膝枕してもらって眠ると、母の夢を見ることもあり、理子は泣いた。けれどもよし乃はいつも理子を温かく抱擁してくれた。涙が止まるまでよし乃はそうしてくれた。本日もよし乃は理子を抱擁し、泣き止むまでずっとそうしてくれた。

 そこへ無情な足音が病室に近付いている音がはっきりと理子には聞こえた。それは紛れもなく、死神である幸作の足音だった。扉を三回ノックする音が聞こえた。幸作が病室に入ってきた。「姉さん、そろそろ」。幸作は促した。理子は、びくりとし重くベッドから降りた。遼介が複雑な表情で幸作を睨んでいた。理子は幸作に先導されて、よろよろと廊下を歩き、階段を下り、手術室へ入った。手術室には術具が整然と並び、鋭く光っていた。理子にはそれらが殺人術の禍々しくも艶めかしい凶器に見えた。理子は服を脱ぎ手術台に横になった。シートがかけられた。麻酔を注(う)たれ意識が朦朧としてきた。よし乃が理子の手を握っていた。

 幸作は術式を宣し、メスが握られた。幸作は刃先を確認した。それをゆっくり下腹部に当てると、そこが柔らかくへこんだ。幸作が力を入れると、そこからさっくり裂けてゆく。幸作は定規を使って直線を引くように、鼠径部の筋肉に沿って右から左へと、理子の腹にメスを走らせた。血がぷつぷつと滲み出す。すぐに赤茶けた子宮を確認することができた。子宮は時々、うごめいた。のっぺりとした腹膜をつまみ上げ、それを開創器で固定し、子宮壁の下部から再びメスを走らせる――。

 ――臍の緒。これが理子と赤ん坊を結ぶ命の紐帯だった。これを断ち切ってしまえば、たちまち赤ん坊は息を引き取るだろう。心肺機能が自立活動できるまで育っていない未熟児なのだ。今ならばまだ間に合う。もう一度、理子の子宮に子を戻し、縫合すれば、この子の命は奪われない。しかし幸作は重い気持ちで、臍の緒をつまみ上げた。ふと理子の顔に目をやり、それから臍の緒にゆっくりと鋏が入れられた。その命は子宮の海から、地上のあまりに眩しすぎる光を一瞬だけ感じ取って、目を力強くぐっと瞑った。幸作ははっとして赤ん坊に目をやった。やがてケットに包み、その子は静かに、息を引き取った。

 横殴りの雨が建物に吹き付け、窓を叩いていた。幸作は無感情な表情で理子の腹を縫合していた。機械的に素早く、狂いがなかった。やがて幸作は針と糸を置き、「これで全術式を終了します」と宣した。よし乃が理子の赤ん坊を産湯に浸からせていた。よし乃は愛しげな眼差しをしていた。よし乃は赤ん坊を綺麗に拭き取ると、再び真っ白なケットに包んだ。よし乃はその子を抱いたまま、手術室を出た。

 そこには大久保家の面々が固唾を呑んで待っていた。よし乃の抱くそれが、紛れもないそれであると彼らは瞬時に分かった。「残念だよう」とよし乃は言った。遼介が一歩、歩み出て、よし乃からその子を預かった。小さな塊は悲しいほど重みがあった。正毅とトヨは遼介を取り囲んだ。遼介の手の中に眠る、小さな塊を覗き込んだ。正毅はこの子が、笑ってくれるのではないか、と思った。じっと見つめながら少し待ってみた。安らかな顔は眠っているだけのように感じられた。よし乃が「この子は世界一、浄(きよ)らかな魂です」と言った。遼介は「その通りです。なのに……、何故不義の子が栄える」。涙をぽろぽろこぼしながら言った。

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