第30話
槇村泰朝巡査と、市川弥助と、渡辺宗樹は交番にいた。そこでは河田重治巡査部長が煙草を吹かせていた。槇村巡査が戻ると河田巡査部長は煙草を灰皿に押し付けて、揉み消した。河田巡査部長と坂内正平は少なからぬ因縁を持っていた。河田巡査部長は、彼がまだ巡査の頃に、正平少年の悪戯に、散々悩まされていた。「俺の毛が薄くなったのは、あいつのせいだよ」。豪語していた。河田巡査部長は顕職ではないにせよ、公務員として働いていることに誇りを持っていた。彼の生まれは農家の三男だったが、一家から公務員になれたのは河田巡査部長だけであった。彼の母が危篤のときに、河田巡査部長は「ハハキトクスクニモトレ」と電信を受け取ったが、仕事に穴を開けられず、母の死に目には間に合わなかった。兄妹たちが重治のことを悪く言う中で、母は「シゲさんは、お国のために頑張っているんですもの」と言葉を遺したという。河田巡査部長はそれを兄妹から聴き、感動に打ち震えた。自分は警察官として、あらゆる職責を全うし、威厳のある警察官になることを誓った。我が村に河田重治が巡査として赴任してきたのは、彼が三十一歳の働き盛りの頃だった。折しも坂内正平は腕白盛りで、交番にはほとんど週に一、二度のペースで、正平少年の悪戯に関する苦情が舞い込んできていた。実際に正平少年と対面したのは、河田巡査が村に赴任して三週間が過ぎた頃だった。正平少年が私有地である、村の山に勝手に分け入って良からぬ悪戯をしている、ということで、河田巡査は交番に正平少年とその母親を呼び出し、注意を与えた。初見の正平は、河田巡査に利発な子どもを印象させた。正平少年は丸坊主で、左目に眼帯を巻き、右目はきらきらし、鼻が通り、唇は薄かった。何故、山に入るのか理由を聞いてやると、正平少年は「山の幸を独り占めする強欲の悪漢に鉄槌を下すためであります」。はきはきと答えた。河田巡査は「あの山には、シカやウサギや、イノシシを捕獲するための罠が張られている。それに君がかかったら痛い目を見るぞ。まず足は引きちぎれるだろうし、出血多量で死んでしまうんだぞ」と脅しをかけた。しかし正平少年は「その顔に付いている両の目は節穴でありますか。俺はそんな罠には引っかからない。見くびるな、警官」と怒鳴りあげた。河田巡査は激昂し母親の方に、厳重な注意を与え、警官を愚弄したことを謝罪させた。正平少年は気難しそうにやり取りを聞いて、帰らされた。しかし正平少年は交番を出るとき、ズボンを下ろし、尻をぷりんと出すと、そこを三回、叩いて見せた。河田巡査は顔を真っ赤にして「クソガキ!」。絶叫したが、母が少年に思い切りビンタを食らわせた。無論、少年は意に介することもなかった。
槇村巡査は交番に戻り、上司(つまり河田重治巡査部長のことである)に、殺人事件が真実であったことを一通り報告した。初めは半信半疑だった河田巡査部長も、槇村巡査が日下診療所から押収してきた、血染めのブラウスとシャツを見ると身を乗り出した。それから凶器である、柳刃包丁をつぶさに見分した。河田巡査部長は「今から正平の家に行くぞ」とぶっきらぼうに宣言した。しかし槇村巡査が「家宅捜索の令状を取りましょう」と言うと、河田巡査部長は青い顔をした。彼は令状なんて一度も取ったことがなかった。言うまでもなくこの村は平穏そのものだったからである。河田巡査部長は弥助と宗樹に正平の家を見張っているように命令を出し、槇村巡査と二人きりになった。すると彼は「槇村、書け」と高圧的に命じた。槇村巡査は令状を書き上げ、河田巡査部長に署名捺印を求めた。河田巡査部長は手をぶるぶる震えさせながら、それにようやく署名をした。すると、槇村巡査にも署名を求めた。つまり連名で令状を取ろうと言い出したのである。猜疑心に凝り固まった、河田巡査部長は本署の者に、「書類一つまともに書けやしない」とバカにされることを恐れたのだ。もしもそんな不手際があったら、河田巡査部長は割腹ものの屈辱を覚えるのにちがいなかった。平和な村は警官が暇なのではない、警官が忙しいから村は平穏なのだ! 河田巡査部長の心はいつもこう叫んでいる。
三十分ほどで所轄署から令状が下りた。河田巡査部長は槇村巡査と共に、諏訪町に構える正平の家に急いだ。時刻は三時を大きく回っている。正平の家は昭和十六年に新築された家であったが、ひどく質素だった。玄関には弥助が待機しており、勝手口には宗樹が待機していた。
河田巡査部長は弥助に「中の様子はどうだ?」。尋ねた。弥助は「静かであります」と答えた。河田巡査部長は槇村巡査に勝手口に回るように伝え、宗樹と一緒に三時三十五分に突入するように指示を出した。分針が時を刻み、三十五分を指した。河田巡査は弥助に向かって「行くぞ」と声をかけ、玄関の扉を開けた。がたぴしという音が諏訪町に響き渡るようだった。家の中は真っ暗だった。しかし圧倒的な何かが「いる」気配がした。
槇村巡査も宗樹と一緒に勝手口から正平の家に注意深く足を踏み入れた。一見すると普通の台所のように見えた。槇村巡査は懐中電灯で、闇を拭いながら奥へと進んだ。宗樹も拳を握り締めていたが、厭な汗が額、胸、背中をじっとり濡らした。
すると、そのとき、瓶が割れるような甲高く、鮮やかとも言えるくらいの雑音が鳴り響いた。同時に河田巡査部長の悲鳴が聞こえた。槇村巡査と宗樹はすぐに音のした部屋へ駈け込んだ。居間だ。すると入口の所に、頭から血を流した河田巡査部長がうずくまっていた。部屋の中が淡い月明かりによって辛うじて見える。槇村巡査はすぐに懐中電灯で居間の中を照らした。すると二人の大男が睨み合っていた。一人は弥助であり、一人は紛れもなく坂内正平だった。その姿が見えた瞬間、宗樹は独断で、部屋の中に突っ込み、正平に殴りかかった。正平は宗樹に向かって右拳を飛ばした。宗樹はそれを間一髪でかわし、素早く正平の顔面に渾身の右拳を叩き込んだ。しかし正平は鉄のようにびくともしなかった。首回りが太過ぎるのだ。すると正平は左の拳を宗樹の腹にめり込ませた。宗樹は身体を折り曲げ、悶絶し、胃の中のものをすべて吐き出した。しかしその瞬間、市川弥助が正平の腕を取り、背負い投げした。柔道の背負い投げではない、柔術の背負い投げだ。相手を粉砕するために全体重を乗せた殺人術としての背負い投げだった。正平は畳に叩き付けられると、反吐を吐いた。それは呼吸を奪うに値する衝撃だった。弥助はすぐに正平の襟首を取り、腕を取って、袈裟固めにした。弥助は「槇村さん、早く!」と叫んだ。槇村巡査は、すぐに腰に手をやり警棒を引き抜くと、正平の頭を渾身の力で殴り付けた。正平はぐるりと白目を剥き出すと、口をだらりと開けたまま気絶した。部屋の中では河田巡査部長が、呻いていたし、宗樹が腹を押さえながら、悶えていた。正平の力がするっと落ちたのを見計らって、弥助は袈裟固めを解いた。槇村巡査は手錠を取り出した。すると卒倒していたはずの正平が弥助の背後にぬっと立っていた。槇村巡査は「危ない!」。叫ぶと同時に、弥助を瞬時に横へ吹っ飛ばし、再び正平の頭に警棒を叩き付けたが、警棒は折れてしまった。すると河田巡査部長が「これを使え」と叫んで、自分の警棒を素早く引っこ抜くと、槇村巡査に投げ渡した。槇村巡査は慌てて受け取ると、正平と睨み合った。正平は頭からどろどろと血を流していた。槇村巡査は恐慌し、「こいつ、化け物だ」。つぶやいた。再び弥助が正平に技をかけるべく、じりじりと歩み寄っていた。槇村巡査も警棒を構えた。恐ろしく長い一分もの間、そうしていた。すると正平は「殺してやる」と呻いた。しかし彼は再び白目を剥くと、膝ががくりと折れて、うつ伏せに倒れた。槇村巡査は恐る恐る正平に近付き、頭を蹴ってみたが、正平はぴくりとも動かなかった。すぐに彼の太い腕に手錠をかけ、脚にも枷をはめて、身体をロープで五回、廻して縛り上げた。
槇村巡査は部屋の灯りをようやく点けた。部屋は八畳の和室だった。充満した殺気のせいでもっと狭い部屋かと思われていた。部屋には割れた一升瓶が三本転がっていた。その破片が散らばっていた。部屋は強烈に酒臭かった。座卓は半分に割られ、座布団は綿が飛び出していた。障子紙は破られ、あるいは桟(さん)も、まるで割箸のように折れていた。雨戸は庭側に外れており、そこにも穴が開き、木目の別を問わず割れていた。そして所々に血痕が付着していた。あるいは河田巡査部長の血痕であり、あるいは正平の血痕であり、あるいは第三者の血痕であるかもしれなかった。この部屋では一体、どのような暴力が振るわれたというのか。その激しい破壊の痕跡は河田巡査部長、槇村巡査、弥助、宗樹の目を釘付けにさせ、戦慄させた。
河田巡査部長は「ちくしょう、頭が」と呻いた。手拭いを取り出し、頭にきつく結び付けた。正平の頭からも血が流れ出ていた。槇村巡査は手拭いをやはり取り出し、正平のかち割れた頭にきつく結び付けた。河田巡査部長は「槇村、バケツに水を持ってこい」と命じた。しかし槇村巡査は「現場は保存しとかないとまずいのではありませんか?」。尋ねたが、河田巡査部長は「俺が持ってこいと言ったら、持ってくるんだ」。どやし付けた。槇村巡査によってバケツが運び込まれると、河田巡査部長はそれをひったくり、正平の頭にぶっかけた。正平はぴくりと動いたが、反応はそれだけだった。河田巡査部長は正平を仰向けにした。正平は白目を剥き、口を開けて、だらりと舌がはみ出ていた。
河田巡査部長は背を反って、威丈高に「坂内正平を暴行及び、坂内朝美傷害致死の容疑で逮捕する」と宣した。すると河田巡査部長の目が部屋の隅に放置された麻袋に留まった。河田巡査部長は訝し気に、それをおもむろに開けると、中を物色した。一冊の日記が麻袋の中に仕舞われていた。河田巡査部長はそれを手にして読んだ。他方、槇村巡査は部屋の中で一升瓶の破片が鈍く光る中で、異色の光を放っているものを発見した。それは真珠のヘアピンであり、螺鈿の簪だった。槇村巡査は日記を読んでいる河田巡査部長のところにそれを持ってゆき、「これを」と見せ、「朝美さんの遺体と共に荼毘に付しましょう」と言った。
すると河田巡査部長は「皆、聞いてくれ」と、その場にいた槇村巡査、弥助、宗樹に向かって語りかけた。「正平は馬鹿に違いない。しかしこんな結末しか本当に残っていなかったのだろうか。このヘアピンと簪は、正平が満州から土産として買ってきたものじゃないのか。朝美の笑顔を少しでも見たかったんじゃないのか」。河田巡査部長の目からは大粒の涙が溢れた。正平の清々しい笑顔が河田巡査部長の脳裏にフラッシュバックした。
こうして静寂と狂気の一夜は河田巡査部長の涙によって幕を閉じたのであった。
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