第29話
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待合室では巌老人が親指の爪を噛んで、貧乏ゆすりしながら、幸作たちが診察室から出てくるのを待っていた。幸作たちが診察室から出ると老人は弾丸のような勢いで、槇村泰朝巡査に駆け寄った。槇村巡査は反射的に一歩後ずさったが、老人は槇村巡査の肩をがっしり掴んだ。老人は「朝美が殺されたって言うのは本当か? 嘘だったならただじゃおかないぞ」。脅しみたいに言った。槇村巡査は「皆さんが正平さんと会っていたのは、聞いています」と言った。すると老人は「会ったも何も、あのバカにぶっ殺されそうになったんだよ!」。頭の傷を指しながら喚いた。巌老人は「そんなことよりも、朝美が殺されたってのは、本当か? 嘘なんだろう?」と半信半疑で問い質した。槇村巡査はやや困惑した表情を浮かべて、「それは本当のことです。坂内朝美さんの死亡は我々によって確認されています」と答えた。老人は床にへたりと座り込んだ。老人は「じゃあ、あれか? この村には殺人鬼がうろちょろと潜んでいるって言うのか?」。市川弥助が「イワさん、落ち込むなよ」。励ました。巌老人は「いったい、誰がそんな惨いことを?」。つぶやいた。槇村巡査は「それをこれから捜査します」と答え、「皆さんからも伺わなければならない点がいくつかあります」と言った。巌老人は急にはっとなり、「正平のやつ、あいつは何しているんだ? こんな大変なときに。早くあいつを呼んでこいよ」。言ったが皆が示し合わせたように沈黙した。「早く呼んでこい、弥助、お前が呼びに行け」。老人は命じたが、弥助は「イワさん、事情があるんだよ」と思わし気に答えた。
「何だよ、事情って? 気持ち悪いぞ、お前ら」
「茶子さんが今、抱いている子どもがいるだろう?」弥助は言った。
「理子の子じゃねぇか」
「実は違うんだ。あの子は朝美さんの子どもなんだ」
巌老人はこめかみに血の管が一瞬にしてめきめきと走った。「ばかやろう!」と老人は弥助をどやしつけ、「世の中には言っていい冗談と、悪い冗談があるんだ。うらなり君みたいな顔をしやがって、バカも休み休みに言え!」。続けて老人は「おい、やぶ! 俺はお前が冗談を言う男じゃないのはよく分かっているつもりだよ。そのバカに朝美の子どもじゃないってことを説明しろ」。唾を飛ばしながらがなり立てた。弥助が「さっき手術で――」と言いかけると、老人は「てめぇは黙ってろ、俺はやぶに聞いているんだ」。ぴしゃりと言った。良太郎は「その子は朝美くんの子どもだ」と重く口を開いた。
巌老人は床にへたり込んだまま肩を落とした。弥助が「だからイワさんが落ち込んでどうするんだよ」。言った。すると巌老人は「正平くんは、朝美さんと結婚していました。正平くんは満州で暮らしておりました。なのに、朝美さんは妊娠をしました。ぼくにはさっぱり意味が分かりません」。言い放つと糸が切れた傀儡人形のように虚脱し、ぷっつりと黙り込んでしまった。弥助は「イワさん、よく聞けよ。だから正平が犯人かもしれねぇんだ。朝美さんの妊娠を知って、切れてしまったのかもしらないんだ」。弥助が説明したが老人は、塞ぎ込んでいた。
「その正平さんのことでお伺いしたいのですが」槇村巡査は横から口を挟んだ。「正平さんは話によりますと二十三時三十分頃、諏訪様の境内に乱入し、暴力沙汰を起こしたと聞きましたが事実ですか?」
この件に関しては渡辺宗樹が一部始終を目撃していた。彼は諏訪様で正平が巻き起こした醜態をすべて話した。巌老人もその話を聞き、溜息を吐いた。正平は少なくとも十人以上は殴り飛ばしている。中でも飯尾秀太に加えた暴力は凄まじいものであった。
「そのときに、正平さんは何かを話しておられましたか?」槇村巡査が巌老人に尋ねた。
巌は尋ねられたが愚牛のように、口を開いていた。
弥助が「ほら、イワさん、聞かれてるぜ」。促したが、巌老人はやはり糸が切れたままだった。弥助は肩を竦め、半分呆れながら「本当に手の焼ける爺さんだな」。言った。代わりに渡辺宗樹が「俺の知っている限り、正平さんは一言も言葉を発しなかった」と口にし、「正平さんは笑いながら秀太を半殺しにした。あれは尋常ではなかった」。言った。すると遼介が「私も今日の夕方、正平と会っています」と告げ、「彼は挨拶のために我が家に寄り、六時半頃、家を辞しました」。言った。槇村巡査が再び鉛筆を取り、また正平の足跡は一つ埋まった。槇村巡査が「正平さんに関して、もう少し、詳しく話して頂けないでしょうか?」。尋ねた。
槇村泰朝巡査は村に赴任してから三年を数えていることは触れているが、彼と正平の接点はあまりなかった。正平は遡ること三年前には満州に旅立ってしまったのだから。従って槇村巡査は正平がどのような人物かほとんど知らなかった。噂は聞いていた(河田重治巡査部長から)。「この村には悪の権化のような男がいた」ことを。そして「やつは牛肉を貪り、大酒を欲し、下品なことがたまらなく好きだった」ということ。「やつと拘わるとロクなことがない」こと。「あいつはいつか人を殺すよ」ということ。とにかく河田重治巡査部長は正平をまるで親の敵(かたき)にでもしているように呪い倒していた。槇村巡査は村の巡回中にも正平の噂を聞いたことが、一、二度ばかりあった。彼らは「恐ろしい男がいなくなった」と声高に噂していた。他方で、正平を良く知る漁師の間からは「海の男が陸に上がって生きてゆけるものかよ。悔しいよなぁ」とまるで正平を悼むような声が、絞り出されていた。
なので、槇村巡査は、坂内正平のことを詳しく知らなければならなかった。
先に口を開いたのは弥助だった。弥助は正平に対して同情的だった。妻が裏切った挙句、殺された(・・・・)、あるいは殺した(・・・)のだ。しかし弥助は考える。やつは本当に人を殺せるような人間なのか、と。バカなこと考えちゃあいけねぇよ、あいつは昔から「人を殺す」っていわれていたじゃあないか。でも正平が憐れだ。あの大酒を飲んで、実に気持ちよく笑う、正平の笑顔は眩しい。弥助は目を細めた。
弥助は口を開き、「あいつから酒を取ったら、暴力しか残りませんよ」と言った。続けて「それでやつから暴力まで取り上げたら、立派な人非人ができ上がると、こういうワケなんです。でもそれが悪いって言ってるワケじゃあねぇんです。悪いやつじゃないんですがねぇ、面倒見も良かったですし、男っ振りが良かった。頭は切れたんですが、試験でわざと点を落としたりするようなこともありましたっけねぇ。正平が満州に旅立ったのも、朝美さんを気遣ったためでしたっけ。実際に正平が満州に行くと、朝美さんへの悪口もぴたりと止まった次第でして。あいつは虐げる者の気持ちも、虐げられる者の気持ちもすべて分かっておりまして。俺はそのことを良く分かっている」。言葉を結んだ。
遼介は思わし気な顔をして、口を結んでいた。しかし槇村巡査の視線が遼介に留まった。槇村巡査は「大久保先生は、正平さんが留守の間、朝美さんの後見人のような立場だったと伺っておりますが、先生は朝美さんの妊娠を知っていましたか?」。尋ねた。遼介は思わし気に「いいえ」と答えた。続けて「私がもっと親身になって、相談に乗ってあげるべきでした」と苦渋の表情を浮かべた。遼介は「このような結果になって、私も責任を痛感しております」と言った。
さらに遼介は、「正平は正義感の強い男です」。続けて言った。「喧嘩にめっぽう強く、曲がったことが大嫌いで、嘘を吐くことはできない。素行も悪いし、言葉使いも極めて汚い。しかし彼は正義だった。勧善懲悪の正義の執行人でした。彼は権力みたいなものを毛嫌いしていました。彼は国家権力を愚弄し、それに服属しない男でした。彼は憲法を持ち、法律を持っていた。それは成文律ではなかった。心の中にはもっと大切な何かがありました。彼は幼いときから弱い者を守る人間でした。ときに大きな相手にも戦いを挑み、あるいは勝利しました。しかし彼はその正義のために居場所を失った。時代はすでに彼を求めなくなっていた」。
「槇村さん」と遼介は呼びかけた。「正平に居場所を与えてやってください。それがどんなところだっていい、例え独房でも構わない。彼に居場所を与えてやってほしい。私は正平の無実を確信しているけれど、彼を彼のまま放っておくのは危険極まりない。そこを汲んであげてほしい」
市川弥助が、「これから正平の家に行くんですか?」と尋ねた。槇村巡査は「すべからく」と答えた。すると弥助は「俺も連れて行ってくれねぇでしょうか?」。不意に真面目な顔をして提案した。「俺も……」とつぶやいたのは渡辺宗樹だった。宗樹は「正平さん、あれは魔王だ。槇村さんが行っても返り討ちに遭うだけです」。言った。槇村巡査は「でも、渡辺さんは怪我をしていらっしゃいますよね?」。尋ねたが、宗樹は「ここで、男を見せないで、何処で男を見せるって言うんです? 渡辺宗樹は坂内正平を恐れて、指をくわえて震えていた、とは言わせない」。名を誇った。
槇村巡査は少し考えた。正平は祭りの力自慢の男衆が、六人かかりでやっと取り押さえたほどの尋常ならざる力を持っている。人手は多いに越したことはなかった。
弥助が「俺は正平と喧嘩をして、三回勝って、三回負けてる」と言った。それから「組めれば、俺はやつに負けない。けれど、初っ端をもらうとやつには勝てない。俺は酒に関しても、やつと飲み比べして、十一回勝って、十一回負けてる。やつとはケリをつけなければならねぇ」。言った。
槇村巡査は不意に思わし気な顔をして「分かりました」と答え、「お二方には正平さんの家に付いてきていただきましょう。ただしあくまで、民間の協力者ですし、我々の指揮下に入ってもらうことが絶対条件です。くれぐれも勝手な言動だけは慎むようにお願いします」。それから「皆さんも思うことは多々あるだろうとは思いますが、今夜、ここで起こったことについて、くれぐれも軽率な言動は控えてください」。特に『村の伝言板』との異名を持つ、巌老人に向かって言った。しかし巌老人は先ほどから押し黙り、何かをひどく考え込んでいた。すると老人は「お前ら、余計な気を起こすんじゃないぞ」と脅しみたいに言った。「いいか、殴られた連中にもそう伝えておけ」。一言、釘を刺した。
槇村泰朝巡査と、市川弥助と、渡辺宗樹は診療所を出て行った。
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