第28話
雄一はそこまで一気に話すとお茶を欲した。茶子がすぐにお茶を運んで持ってきてくれた。雄一はそれを飲むと再び槇村泰朝巡査の質問に答える姿勢を取った。
槇村巡査は「その後、君は坂内朝美さんをここ、日下診療所まで運んだ。これで間違いないね?」。雄一は「はい」と答えた。続いて槇村巡査は「君はその男の顔を見ることができましたか?」。尋ねた。しかし雄一は「いいえ」と首を振った。槇村巡査は身を乗り出して「男は坂内正平さんだったという可能性はありますか?」。尋ねた。すると雄一は再び「いいえ」と答え、「正平さんにしては身体が小さかったように思えるからです」。言った。槇村巡査は「他に気付いたことなどはありませんか?」。尋ねると、「君は事件の唯一の目撃者なんだ」と言った。雄一は思わし気な顔をして「それは厳密に言うと、正確ではありません」と答えた。雄一は「僕は『悲鳴』を聞いたのに過ぎません。そして女性に近付くと、それが朝美さんであることを確認し、事件を目撃したわけじゃなく、包丁が刺されていることを目撃したのです」。雄一はさすがに中学校を卒業しているだけあって、その受け答えも、正確で要領を得ていた。最後に槇村巡査は「明日、君の立ち合いのもと、現場検証が行われる。それまでに何か気付いたことや、思い出したことがあるならば、遠慮なく言ってほしい。また、明日の現場検証でも気付いたことがあるならば、それを正直に話してほしい。今日は夜遅くまで付き合わせてしまって、ご協力に感謝します」。礼を述べ雄一は帰宅を許された。その際に槇村巡査は「君のご両親には、私から経緯を述べ、遅くなることを説明しておいたから、今日は真っ直ぐに家に帰るんだよ」。言われた。
雄一は診療所を出ると暗澹とした気持ちになった。面倒なことに巻き込まれてしまったな。正直、今日も親の顔(松さん)なんて眼にしたくなかったが、雄一はひどく疲れていた。時間はもう深夜の二時を回ろうとしていた。昨日同様、四宮公園で乞食のように眠ることも考えたが、四宮公園の入り口には警官が立っていた。証拠隠滅を防ぐためだろうな。雄一は思った。雄一が自宅(つまり魚松)に帰ると、松さんと母が、彼の帰宅を待ち侘びていた。松さんは文句を言うわけでもなく、叱責するわけでもなかった。ただ雄一に向かって「本当のことを、正直に話せ。自分が不利になることが分かっているとしても、真実を曲げるな。父ちゃんはお前をそんな風に育てたつもりだ」。言った。
日下診療所では良太郎と幸作が尋問を受けていた。
「――では、雄一くんが診療所に坂内朝美さんを運んだのは二十三時三分だったわけですね?」
槇村泰朝巡査が言うと、良太郎は「然り」と答えた。槇村巡査は「そのときに朝美さんに息はありましたか?」。尋ねた。幸作が「息はありました。意識もありましたし、何か言葉を発していたようです。私が聴き取れたのは『あか、しょう、り、う、ら』という言葉です」。答えた。槇村巡査は「それから手当てをしている間に、朝美さんは亡くなってしまった」。言った。幸作が「はい」と答え、「私が二十三時十七分に、坂内朝美さんの死亡を確認しました」。幸作は言い、さらに付け足すように「時計に狂いはありません」と言った。それから、槇村巡査と良太郎と幸作の三人で、朝美の検死を行った――。
その検死で分かったことは、朝美には左頬をぱっくり割る裂傷があり、顔面打撲によって、鼻骨が陥没していた。菱形筋(りょうけいきん)から広(こう)背筋(はいきん)の間にかけて裂傷痕があり、それは刃渡り23センチの柳刃包丁が突き刺された裂傷痕だった。その柳刃包丁には坂内家の屋号である「坂新」が彫り込まれていた。他に爪と指の間に皮膚らしきものが挟まっており、それを幸作は、朝美が殺される直前に抵抗した証だと断じた。下腹部の傷口を指摘したのは槇村巡査だった。それは幸作が手術を施した痕である。槇村巡査は「何故、こんな場所の手術をしたんですか?」。問うと、幸作は朝美の妊娠出産の話をした。それには槇村巡査も少なからず驚いていた。雄一が交番で話したところ、この情事が抜けていたらしい。
槇村巡査は良太郎に向かって「日下先生は朝美さんが妊娠していることを知っていましたか?」。尋ねた。良太郎は「知らなかった」と答え、「中太りの女性に稀に見られることなんだが、妊娠していても外部からは、全く見分けがつかないことがあるのだよ。坂内朝美くんは、まさにそうだった」。言った。「朝美さんは誰かに恨みを抱かれていましたか?」。槇村巡査が尋ねると、良太郎は「分からない」と一言した。補足するように幸作が「朝美さんの性格を考慮すると、恨みを抱かれるようなことはないでしょう。むしろ朝美さんは世間に恨みを抱いたことはあるかもしれませんが、世間から恨まれることはないように思われます」。言った。槇村巡査は思わし気に、「そうですか」とつぶやいた。続けて「朝美さんと最後に会ったのはいつですか?」と尋ねた。
良太郎は「本日の十六時頃である」と答えた。もっとも現在、時刻は深夜の二時を回っていた。それから幸作と良太郎は朝美と正平が家に訪れた経緯を語った。朝美に特に不審な点はなかったし、正平にも同様のことが言えた。槇村巡査は手帳に時間系列を整理しながら、正平と朝美の足跡を書き込んでいた。まるでパズルのピースを埋め込むような作業だった。しかしまだ空白の時間は残っている。正平と朝美が日下宅を出た五時頃から、雄一と出会う六時半までの、一時間三十分。雄一が坂内宅を出た七時半から、朝美が四宮公園に訪れるまでの三時間。特に後者の時間帯に起こったことは重要だ。
「他に何か気付いたことなどはありませんか?」槇村巡査は尋ねた。「どんな些細なことでもいいので、気付いた点をお話しください」
良太郎は「特にない」とにべもなく答えた。
すると幸作は思わし気に「正平さんは宗教的な人物であった可能性が高いと思われる節があります」。言った。槇村巡査は「と、言いますと?」。尋ねた。幸作は再び思わし気に記憶を辿るように、「ここから先は、私の推察であり、何の根拠もありません。従って記録を取るようなことはしないでもらえないでしょうか?」と断りを入れた。槇村巡査は鉛筆を机の上に置き、「分かりました」。言った。すると幸作は重い口を開き、「正平さんは、現人神思想を『祭祀』であると口にしました。『現人神なんて祭祀は、非人道的ではないか』と、おっしゃったと記憶しています」。言って、それから「正平さんは現実主義者です。従って日本にやってきた渡来神も、欧米の絶対神なる存在も認めません。それは何故かというと、目に見えないから、それらは『いない』のです。しかし日本には現人神がいらっしゃられた。現人神は目に見える神であり、正平さんは現人神を信仰しました。しかし日本は天佑神助の国でありながらも、戦争で負けを取りました。これは正平さんからしてみれば、裏切りであり、即ちその心の中では、『超常的存在の否定』が行われたのであり、『超常的能力の否定』が行われたのだと思われます。そして正平さんは人知では計り知れない厄災を現実的に目の当たりにすることになりました。それは『長崎』です。このときの衝撃を正平さんは『人間は人間ではなくなる。人間に近いものになる』という表現を取り、私たちに説明しました。それはどのような存在であるのか、我々は想像するしかありませんが、少なくとも、口に出してもいいような存在ではないでしょう。では人間が超常的な存在を否定したときにはどんな心理になるのか、それは心理学の分野であり、私の専門とは違いますが推察することはできます」。幸作は言って呼吸を整えた。
「日本人は、超常的存在のことを、ごく自然な状態で認めています」幸作は続けた。「例えば、御先祖様の眠る墓石を単なる石だと言って、足蹴にする人はまずいません。そこには『何か』が宿っていると思うからこそ、足蹴にはできないのです。そして我々は言葉に呪力があると思っています。それもやはり、そこに『何か』が宿っていると思うからこそ、滅多なことは口に出しません。しかしそれらの超常的な存在を完全に、人間の心が否定したとき、その心の中には『罪』も『罪の意識』もすべてが消し飛んでしまうのではないでしょうか。人間は虫けらや、家畜を殺すことに罪の意識を感じません。しかし人間が人間を殺す場合に限っては、罪の意識を感じます。それを理路整然と説明できる人は、実はほとんどいないのです。何故ならば、それは常識だからです。しかし常識ほど、説明するのが困難なものはありません。人間はわかっていることを学習しないからです。そして常識から逸する人のことを日本では、『非国民』や『人非人』と呼びます。正平さんは超常現象をすべて否定し、その結果として、『人に近いもの』に進化、あるいは退化してしまったのです。従って、正平さんの心の中では『近親相姦』も、『殺人』も、『人肉食』も欲求であり、現象であり、それは決して罪になり得ないのです。正平さんは『神』を否定した瞬間から、自分の心の中にある枷(かせ)を引きちぎりました。正平さんは自由を得たと同時に、混沌の世界を創造しました。そして日本は現在、限りなく混沌に近い状態にあります。実は人々が法律と呼ばれるものを守るのは、それが権威に裏付けられたものであるからです。欧米社会では権威とは『神』であり、『教会』でした。日本では権威とは『血筋』であり、『国家権力』でありました。しかし今の日本を見ると、その一柱である『国家権力』は地に失墜している状態にあります。つまり、『法律を破ってもいい状態』になっているのです。私は終戦の詔が、『日本の権威を落とさない』ように、『日本が敗北したことを告知』せざるを得なかったのは、日本の混沌化を防ぐためであったと、あるいは考えています。私はこれまでこれに類似した例の人々を数人、目にしたことがあります。それは死を目前にした人々です。結核と診断された人が、死ぬ前にあらゆる快楽、暴食、強盗、強姦等を極め尽くそうとしました。だから私は彼を病院内に拘束し、彼を監視下に置き、彼の自由を奪わざるを得ませんでした。そのときは深く考察しませんでしたが、現在の正平さんの心理状態は、極めて危うい状態にあるというのが、私の所見であり、推察であります」
槇村巡査は「少し規模が大きくて理解できませんね」と言い、「しかし正平さんの人間像に少しは近付けたように思います」。思わし気な顔をした。幸作は「日本には悠久の大義があり、それが人々に道徳を守らせてきました」。言った。すると槇村巡査は「と言いますと、聖典は教育勅語といったところでしょうか?」。鉛筆を取って、にこりと笑った。幸作は槇村巡査の機知に感心し、微笑を漏らした。槇村巡査は「それでは私は本来の職務に戻ることにします。待合室に待機している方々からも、事情を聴かなければなりませんので」。言って、席を立ち診察室から出た。良太郎と幸作も後に続いた。
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