第27話
診療所では六人の男と、一人の女が思い思いに過ごしていた。よし乃はもう帰宅していた。理子をここに担ぎ込んだ二人も、飯尾秀太を担ぎ込んだ二人も、市川弥助に追い出されるように帰宅していた。秀太はしばらく診療所内で経過を診ていたが、やがて帰宅を認められた(鎮痛薬によって意識が混濁していた)。弥助は特に、理子を担ぎ込んだ二人には、緘口令(かんこうれい)を敷いた。彼らは本日、日下診療所で起こった一部始終を目撃していた。弥助は「もしも変な噂が広まったら、お前たちが流したとしか、俺は思わない。どうなるか、分かっているな?」。厳しく脅しをかけた。従って、診療所内にいるのは、幸作、良太郎、遼介、弥助、宗樹、巌老人(まだ意識を取り戻していなかった)、それから理子の七人だった。もっとも別室には朝美の遺体が安置されていたし、幸作は朝美の子を抱いていた。
すると診療所の扉が開いた。茶子が戻ってきたのである。茶子は「すみません」。頭を下げた。「遼介さんが何処を探しても見つからないのです」。申し訳なさそうに言うと、奥に遼介の顔が窺えた。あれ? 茶子は驚いた。幸作は茶子に水を差し出し、「謝るのは私です。ちょっとごたごたがありまして」と言った。茶子は「良かったぁ」。安堵すると、待合室の中心にへたりと腰を下ろした。茶子は幸作が赤ん坊を抱いているのに気が付いた。茶子は「まぁ、かわいい。理子さんのお子さまが産まれたのですね」。言って赤ん坊に顔を近付けた。「茶子おばちゃんでちゅよ」。言った。すると幸作は戸惑い、「この子は姉さんの子ではありません。しかし茶子さん、今日はもう疲れたでしょうから、自宅に戻ってお休みになってください。私は本日、診療所を離れることができませんので、帰らないと思います」。告げた。すると茶子は少し考えてから「嫌です」。きっぱり言った。「事情を聴くまで、わたくしは帰りません」。こう言い出したら聞かない。幸作は眉を八の字にした。そして今日、この診療所で起こったこと、現在進行形で進んでいることをすっかり説明した。茶子はそれを少なからず驚きながら聞いていた。すると「今日はわたくしが、その子を預かりましょう」。茶子は言ってくれた。
茶子はしばらく診療所に残り、茶を配ったり、夜食を準備したり、子をあやしたりしていた。時間はすでに深夜の一時を回ろうとしていた。そのとき、いきなり巌老人は魚が跳ね上がるように起き上がった。巌老人は「正平の野郎、ぶっ殺してやる!」。突然叫んで、診察室の出口を目指して、猪のように突進した。しかしその前に、幸作と市川弥助が立ち塞がった。弥助はすぐに巌老人を取り押さえ、羽交い絞めにした。老人は「離せ! ちくしょう、どけ、幸作、ちくしょう!」と悪態を付き始めた。弥助は「聞けよ、イワさん、話があるんだよ」。叫んだ。すると老人は「話もクソもあるかよ。あの野郎をなますにしてから話を聞いてやるよ!」。喚き散らした。するとその怒声に赤ん坊は泣き出した。巌老人はアホみたいに診察室を見渡した。すると茶子が赤ん坊をあやしていた。さらに診療所を見渡すと、そこには遼介と理子の姿があった。巌老人はすべてを理解した。遼介と理子のもとに肩で風を切るように近寄ると、遼介の肩に手を回した。老人は「俺はお前が種なしなんじゃないかと思って、憐れでよ、それで去年だったか、一昨年だったか、お前の家に水揚げされたばかりの牡蠣(かき)を大量に送ってやったんだ。トヨは顔をしかめてたけれど、お前らに子ができるなら、と、大量の牡蠣を買い上げたんだ。それで、お前らはめでたく子ができたってことよ。俺に感謝するんだな」。言った。すると老人は次に良太郎の肩に手を回した。老人は「やぶ、お前にも孫ができたんだ。けれどその仏頂面じゃあ、ガキがびびって近付けねぇぜ。キノコでも食って笑う練習をするんだな」。やはり言った。さらに老人は「おい、茶子!」と茶子を指さした。「茶なんか運んでねぇで、酒を持ってこい。あるだけ持ってこい。今夜は子作りにでも励むんだな」。高笑いした。
すると診療所の呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。老人は「こんなときに急患か?」。言って、「どうせアル中でぶっ倒れた馬鹿だろう」。玄関に顔を出した。
そこには槇(まき)村(むら)泰(やす)朝(とも)巡査が立っていた。その横に魚松のせがれ、雄一も立っていた。雄一は交番に駆け込み、彼を連れてきたのだろう。
槇村泰朝巡査はこの村に赴任してから三年の歳月が過ぎようとしている。村で「村の駐在さん」と言えば、槇村泰朝巡査のことを指したし、彼は村人に信頼されていた。村人は彼が公務以外のことで怒ったところを見たことがなかった。彼は制服姿で、腰に警棒と、ピストルを挿していた。もっともピストルの方は弾薬が込められているわけでもなく(そんな弾薬があるならとっくに戦地に輸送されていた)、はりぼてだった。
「これは駐在さん、何用があってこんなむさくるしい場所に?」巌老人が尋ねた。
真面目な顔をしているのは良太郎と幸作だった。
「中へ」と良太郎が言った。
良太郎が先導して、朝美の遺体が安置されている部屋へ槇村泰朝巡査を誘った。良太郎が「ここからは部外者は遠慮してもらおう」と言って、すでに好奇心に凝り固まった巌老人を退けた。槇村泰朝巡査は部屋に入ると、目の前の仏に合掌してから、朝美の顔にかかった布をまくった。朝美は安らかに眠っているように見えた。槇村巡査は白布を朝美の顔に戻した。幸作は「私が二十三時十七分に死亡を確認いたしました」と言った。
槇村泰朝巡査は診療所にいた全員を勝手に帰宅したりせずに、待合室で待機するように命じていた。良太郎、幸作、雄一は診察室の椅子に腰を下ろしていた(理子は寝台に横になっていた)。槇村泰朝巡査が最後に診察室に入ると、雄一は緊張した面持ちでいた。
槇村巡査は雄一と向かい合って「もう一度、君が目にしたことを、話してくれるね?」。柔らかく尋ねた。雄一は頷き、「僕は公園にいました」と答えた。槇村巡査は「公園とは、四宮公園だったね?」。言うと、雄一は頷いた。槇村巡査は続けて「君はどうしてあの公園に?」。尋ねた。雄一は「家に帰りたくなかったからです」と答えた。「どうして?」。再び槇村巡査が尋ねると、雄一は「話は長くなります」。言った。
雄一は昨日、松さんとケンカして辻を飛び出すと、行く宛てもなく、村を彷徨っていた。雄一はとりあえず漁港に行けば食いはぐれない、という根も葉もない噂を信じ、漁港に向かった。もちろん食い物が落ちているわけでもなく、漁港は翌日の豊漁祭のために綺麗に清掃されていた。雄一は郊外にある毘沙門堂へ向かった。そこで蛙がいないか探してみたが、いるのは食べられそうにもない小さな蛙ばかりだった。雄一は空腹を我慢し、毘沙門堂の中で眠りに就いた。翌日も空腹が続いた。午前中はその空腹のために、ほとんど虚脱したように過ごした。それから雄一は毘沙門堂を出て、諏訪町へ向かった。露店が立ち上り、食べ物の臭いが沿道のそこかしこから漂ってくる。雄一は生唾を呑んだ。雄一はたこ焼き屋の隣りに設置されていたゴミ箱が目に留まった。するとそれを無我夢中で漁った。人目なんて気にも留めなかった。するとたこ焼き屋のオヤジから「このガキが、商売の邪魔になるんだよ、目障りだ」。どやしつけられた。たこ焼き屋のオヤジはたこ焼きを一つだけ、雄一に投げてよこした。雄一の顔に当たり、地面に落ちた。雄一はそれを急いで拾って食べると、凄まじく美味だった。雄一はたこ焼き屋の屋台に隠れて、オヤジが席を外すのを見張っていた。このとき雄一は恐ろしく神経を尖らせていた。チャンスは一回あった。釣銭の補充のために、オヤジが他の店に両替に行ったときだ。しかし雄一は罪悪感から、たこ焼きを盗むことができなかった。オヤジが釣銭の補充を終えて、戻ってくると、雄一の姿を認めた。「まだいやがったのか、クソガキ」。オヤジは吼えて、雄一の頭に拳固を食らわせた。雄一はいわれのない暴力を振るわれたことで、一気に罪悪感が消し飛んだ。次にオヤジが消えたときにこそ、盗んでやる、と思った。チャンスがやってきた。オヤジが再び釣銭の補充のために席を立ったのだ。雄一は屋台に飛び込み、素早くたこ焼きをかっぱらった。そのパックを開けると無我夢中に貪った。そこへ「雄一」と声をかけられた。その声の主こそ坂内正平だった。盗みが悪いってんじゃねぇ――。
それから雄一は槇村泰朝巡査に促されて、その後のことも詳細に語った。正平の家でご馳走になったこと、議論があったこと、そして七時半に坂内宅を辞したこと。
槇村巡査は「その後、君は四宮公園にいたんだね?」。尋ねた。雄一は「その通りです」と答えた。それから「女性が一人で四宮公園を訪れたのは、二十二時三十分でした。女性は白いブラウスに暗い色のスカートを穿いていました。僕は中学校の卒業記念に父から懐中時計をもらい、それを見たから間違いありません」と雄一は証言した。雄一は「それから女性はしばらく公園のベンチに腰を下ろしていました。そこへ男性がやってきたのは、二十二時四十分から二十二時四十五分の間だったと思います」。言った。槇村巡査は「思う?」と聞き返した。雄一は「はい」と答え、「僕自身、すごく疲れていたので、眠っていましたし、面倒くさくて時計を確認しなかったからです」。言った。槇村巡査が「女性とか、男とかじゃなく、固有名詞を使って話してくれないかな?」と言った。しかし雄一は「それは無理です」と否定し、「ご存知の通り、四宮公園には街灯が一つもありません。従って見えるのはせいぜい2メートル先がやっとです。そんな中で、それが誰であったか判断することは不可能です」。断じた。槇村巡査は「そこでは、何か会話とかはありませんでしたか?」。尋ねた。しかし、それについても雄一は首を振った。彼は「僕が隠れていたのは二人から17、8メートルも後ろのお堂の影でした。声はほとんど聞き取れませんでした。僕に盗み聞きするつもりはありませんでしたし、声は祭りの音と混じって、聞き取れませんでした。男と女性はそれから二、三分ほど話していましたが、そのときです。女性の悲鳴が聞こえたのは。僕は驚いてお堂の影から外を覗き込みました。すると白いブラウスを着ていた女性が崩れ落ちたのです。男はしばらく、そう一分ほど女性の傍にしゃがんで、何かをしていました。恐らく『確認』していたんだろうと思います。すると男は立ち上がり、そのまま公園から去ってゆきました。僕は倒れた女性のもとに恐る恐る近付きました。そのときに初めて女性が朝美さんだということに気付きました。朝美さんはぴくりとも動きませんでしたが、僕が朝美さんを抱きかかえると、朝美さんは吐血しました。それから激しい咳をしました。息を吹き返したかのようでした」。
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