第26話

 診察室の中で二人になった遼介と理子はなかなか言葉を探り当てることができないでいた。しばらく沈黙が続いた。しかし理子が「遼介さん」。言った。「さっきの咳は何? あなた病気なの?」。尋ねた。遼介は無言だったが、やがて「心配には及ばない」と言った。理子は「でも幸ちゃんが、早く検査を受けろ、って」。言った。遼介は「大丈夫さ、医者は皆ああ言うものさ」。明るく言ったが、理子の顔色は冴えなかった。理子は「朝美さん……」とつぶやいた。「誰にも何も言えなくて」。つぶやくと、遼介が「私が力になってあげるべきだった」と眉間に皺を寄せた。理子は「そうだ! 正平さんは!」。はっとなって叫んだ。そして再びはっとなって息を呑んだ。「――まさか、正平さんが!」。言葉を口にしようとして再び呑み込んだ。理子は「まさかね。考えが飛躍し過ぎてるわ」。自分の逞しい想像力に対して無理に笑った。

「それより、理子」と遼介が言った。「私は君の身体の方が心配なんだ」

「もう何が、何だか分からない」

 理子はじわりと胸が痛くなった。今にも泣き出しそうな顔をしていた。遼介は理子をそっと抱いた。すると理子は嗚咽が漏れた。小さな肩が震えていた。

「どうして神様はわたくしたちにこんなひどい仕打ちをするの?」

 遼介は何も言わず、泣きじゃくる理子の頭を優しく撫でていた。

「わたくしには分からないの」と理子は言った。「神様がわたくしのお腹に命を宿らせて、神様がその子の命を奪うの。どうして?」

「神はもうこの世界にはいないよ」遼介は思わし気につぶやいた。「いや、初めからこの世界に神なんていないのさ」

「だとしたら、人が生きることに意味なんてあるの?」

「意味はないかもしれない。だけれど私たちが意味を与えてあげることはできる」

「本当に諦めなければならないの? 第三の選択があるんじゃないかしら?」

 遼介は顔をしかめた。このまま出産に漕ぎ付けたとしても、その赤ん坊が無事に産まれてくるとも限らなかった。最悪、母子ともに死んでしまう可能性だって少なからず考えられた。理子か子どもか、それともあまりにも危険な微々たる可能性に賭けるのか、その選択は容赦なく突き付けられている。

「理子」と遼介は言った。「今回は子どもを諦めよう」

 理子は「でも!」。叫んだが、遼介は冷静に「子は親を産むことはできないが、親は子を産むことができる」。言った。理子は「怖いのよ」とつぶやいた。「わたくしは子を見殺しにするような母親なんだってことが」。言った。遼介は咄嗟に「それは違う」。言って理子の肩を掴んだ。「それは違うよ、理子。仕方がないことってこの世界に、たくさんあるんだ」。遼介は理子の頬を伝う涙を拭ってやった。

 理子の良心はきりきりと痛んだ。理子は何も分からなくなっていた。これまで信じていたものが瓦解してゆくような気持だった。しかし理子は何かを決断し、その結果、何かを失うということだけは、はっきりと分かっていた。

 すると遼介は再び咳の発作に見舞われた。

「遼介さん、やっぱりその咳……」

 遼介は理子の顔色を窺って、もう隠し通すことはできないことを悟った。「恐らく、結核――だと思う」。遼介はつぶやいた。



 ふと気付くと、待合室の方が騒がしくなっていた。幸作が「落ち着いてください」と叫んでいる。「落ち着いてください!」。しかし罵声の中に様々な声が聞こえた。

 診療所に急患が運び込まれていた。

 幸作が「落ち着いてください。まずはお話を窺いますので」。言うと、一人の男衆が声を張り上げ「お話も何も、見りゃ分かるじゃないですか、殴られたんですよ」。叫んだ。

 渡辺宗樹が一人の老人を担いでいた。磯崎巌老人だった。老人に意識はなかった。もう一人の患者は、飯尾秀太だった。秀太は顔面の原型を留めないほど殴られており、顔中に生乾きの血がのっぺりとこびり付いていた。秀太には意識があり、男衆に肩を貸してもらって、何とか立っていた。秀太は口が利けないほどに顔面を損傷していた。代わりに男衆が「若先生、早く手当てしてやってくれよ。漁協長、頭を打ったんだ。きっと今頃、天国の扉を叩いてるよ」。喚き散らした。幸作は診察室の前に立つと、「姉さん、急患です。開けますよ」。断りを入れてから、診察室の扉を開いた。すぐに巌老人が渡辺宗樹によって診察室の中に担ぎ込まれた。

巌老人を幸作が担当し、飯尾秀太を良太郎が担当することになった。幸作は巌老人の瞳に光を当ててみる。それから頭を調べた。内出血している部分を認めた。そこを触診してみる。幸作はほっと息を吐いた。巌老人は気絶こそしていたものの、傷は浅く、骨も頑健だし、対光反射もあった。幸作は内出血している部分に湿布を張って、巌老人の手当てを終えた。すると幸作は渡辺宗樹に眼をやり「宗樹さんも怪我をしていますね?」。言うと、宗樹を椅子に座らせた。宗樹は目の上に切り傷があった。その切り傷はぱくりと割れていて、三針縫わなければならなかった。幸作が傷を縫っていると、渡辺宗樹は「漁協長の傷は?」。無骨に尋ねた。幸作は「巌さんなら大丈夫です。じきに意識も回復するでしょう。むしろ宗樹さんの傷の方がひどいですよ。痛くはありませんか?」。言った。

他方、飯尾秀太は良太郎が診療に当たっていたが、こちらは重傷だった。まず鼻の骨が折れていた。歯も三本折れていた。眼は開かないほどに腫れていたし、口の中は切り傷でぐちゃぐちゃだった。良太郎は「顔を洗ってきなさい」。命令すると、秀太は呻き声を上げながら洗顔した。再び良太郎の前に座ると、良太郎は飯尾秀太の折れている鼻の中に、次々と綿を突っ込み始めた。もちろん飯尾秀太は呻き、身体をのけ反らせた。すると良太郎は男衆に「押さえなさい」。命令した。秀太は押さえられ、また鼻の中に綿を突っ込まれた。切り傷には外傷薬をびたびた塗られ、腫れている箇所は血を抜かれ、湿布を貼られ、包帯が巻かれた。秀太は失神しそうなほど悶絶していた。

渡辺宗樹の処置を終えた後、幸作は男衆から事情を聴くことになった。男衆は興奮して声を大にして話した。事情は次のようなものだった。



 神輿は諏訪様の急坂を駆け上がり、最後の鳥居を前にしていた。その鳥居の下に、一人の男が佇んでいた。鳥居の奥には一の社がずっしり構えられており、社の周りには神主や、巫女さま、地元の有志たちが神輿を迎える準備をしていた。巌老人がその男の姿に気付いた。老人は「そこをどけ、この馬鹿――」。悪態を付いたが、そこにいたのは坂内正平だった。「正平じゃないか!」。老人は叫んだ。駆け寄って近くで見ると、なるほど坂内正平だった。この体格に、左目の眼帯――間違いようもなく坂内正平だった。老人は「お前、神輿担ぐ気か? 袢纏はどうした?」。尋ねたが正平は何も答えなかった。老人は「お前、村で漁師、続けるんだろう?」。言ったが、やはり正平は何も答えなかった。老人は「満州で日本語、忘れてしまったのか? お前は頭が弱いからねぇ」。言った。それから「朝美と二人で――」と老人が言った瞬間、正平の右拳が巌老人の左頬を振り抜いた。巌老人は瞬時に吹き飛ばされ、ぐるりと回転し、鳥居に強(したた)かに頭を打ちつけ、崩れ落ちた。神輿を担いでいた連中はあっと息を呑んだ。神輿の周りには数十人の男がいた。正平は神輿に向かって歩き出した。坂内正平と言えば、村人なら誰でも知っている。彼は村でも有名な荒くれ者として知られ、その種の伝説まで持っているほどだった。男たちは正平を止めようとする者と、逃げ出す者とに分かれた。止めようとする者たちは神輿を守る体勢に入った。正平はそんな男衆を一人ずつ殴り飛ばしていった。伝説では正平の拳は鉄のように固く、鉛のように重いと言われていた。まさにそうだった。殴られた者は大砲でも食らったかのように、吹き飛んでゆく。このとき、飯尾秀太は、やはり神輿の端を申し訳ないくらいに担いでいたが、目の前の男衆が次々と吹っ飛ばされてゆく。尋常じゃない。秀太は神輿を放り出して逃げようとした。しかし彼の茶袢纏の襟を、正平が掴まえた。神輿は五十歩ほど後退していた。秀太はふわりと宙に持ち上げられると地面に叩き付けられた。秀太は「お許しを!」。訳が分からないまま謝った。しかし正平は彼の上に馬乗りになると、一発、二発と、拳を叩き込んでいった。異常な光景だった。正平が拳を振り下ろすたびに、血しぶきが宙に散っているのだ。皆、酔っていたが、皆、青い顔をした。そこに渡辺宗樹が飛び込んでいった。正平の身体を思い切り蹴り上げた。正平は秀太からのけ反ると、ぬらりと立ち上がり、宗樹の顔面に鈍い一発をくれた。殴られた右のこめかみがぱっくりと割れて、血が噴き出した。宗樹は絶叫したが耐えた。正平の右拳を死にもの狂いで掴み、両手と全体重で押さえた。その一瞬の隙に、男衆たちが鬨の声をあげて、正平に飛びかかった。実に六人もの力自慢が、正平を取り押さえた。両手、両足、腰、後ろに一人ずつがしがみ付いた。正平は猛り狂った熊のように咆哮したが、その直後に身体から力がすっと抜けた。宗樹は右手を掴まえながら「正平さん、あんた、何をしたのか分かっているんだろうな?」。息を切らしながら、問い質した。正平は一瞬、笑ったような(自嘲したような)表情を浮かべた。その表情に宗樹が一瞬、怯むと、正平は自分を押さえていた男衆を一気に振り解いた。すぐに正平の周りには喧嘩自慢のような男たちが人垣を作った。正平は一歩、歩み出た。すると人垣は一歩後ずさりした。正平は歩き始めた。誰ともなく正平に道を譲った。正平はそのまま何処かへ歩き去って行った。

宗樹は巌老人を背負い、他に二人の男衆が秀太に肩を貸した。すぐに診療所に向かった。他にも殴られた者が十八人ほどいたが、彼らは診療所に行くほどの傷ではなかった。宗樹たちが急坂を下り、諏訪町を去ろうとすると、背後から大きな歓声が上がり、神輿が無事に神社に奉納されたことを知った。今頃、神主の手によって、祝餅が蒔かれているだろう。

宗樹たちは背後に一発の花火を聞き、祝い唄を聞いた。

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