第25話 第六章 ――静寂と狂気――
理子は意識を取り戻すと周囲を見渡した。幸作の顔があり、良太郎の顔があり、よし乃の顔があった。理子は「幸ちゃん、わたくしは……」。つぶやいた。すると幸作が良太郎と眼を見合わせ、一歩前に歩み出た。
「姉さん、落ち着いて聞いてください」と幸作は言った。「重要な話なのでよく聞いてください。姉さんが発症したのは妊娠高血圧症からくる、子癇発作という症状です。この場合、出産に伴う負担に母体が耐えられない可能性が少なからずあります。高血圧症によって出産時の出血量が致死量に至る可能性があるのです。また痙攣を起こしたり、意識障害を発生したりして、お腹の中の赤ちゃんにも深刻な影響が出ます。なので、現段階では母子ともに非常に危険な状態であると言えます。最も恐れる事態になると、重責発作を起こし、脳浮腫を発症し、命を落としてしまう危険性も考慮しなければなりません」
「治るのよね?」理子は尋ねた。
幸作はゆっくりと眼を瞑った。眉間に一本の皺ができていた。
「治療方針としましては」と幸作は続けた。「まず帝王切開で胎児を取り出す必要があります。そして薬を投与して、姉さんの血圧を正常値まで戻す必要があります。しかし帝王切開によって未熟児で生まれた胎児が生存できる可能性は……0です。恐らく助かる見込みはないと思ってください。つまり、その……今回は赤ちゃんを諦めてください」
理子は咄嗟に「幸ちゃん!」と叫んだ。「一方的にそんなこと言って、あなたお医者さんでしょう? 違うの? そんなに簡単に諦めてなんて言える立場なの。あなたにとって命ってそんなに軽いものなの? なんとかできないの、しなさい、幸ちゃん!」。
「疫学的に見ても、この結論、治療方針は妥当なものです」幸作は言った。「しかし姉さん、私は安易に結論を導いたわけではありません。姉さんの症状はそれだけ切迫しているのです。分かってください。私だって助けたいのに決まっているじゃないですか」
「お父さん!」理子は良太郎を詰るように見た。
良太郎は眉間に深い皺を寄せて首を振った。
「お婆ちゃん……」理子はよし乃をすがるように見つめた。
「残念だよう、理子ちゃん」よし乃は言った。
しばらく診療所に沈黙の重い影が差し込んだ。幸作は椅子に腰かけ、視線を床に落としていた。良太郎は、その場に立ったまま、深く瞑想していた。よし乃は理子の寝台にもたれかかってうとうとしていた。理子は何かを思い詰めていた。十分くらいの沈黙の後、理子はさめざめとすすり泣いた。やがてしゃくり上げるように泣いた。「こんなの、ひどいよ。なんで。どうして」。理子は声を絞り出した。「いつ?」と理子は泣きながら幸作に尋ねた。幸作は「次に意識障害や、痙攣が起こるのを待てません。早ければ早い方が……と、しか」。答えた。
それから再び沈黙の帳が下りた。遼介の姿はまだ診療所に見えなかった。茶子もまだ遼介を探しているのだろう、姿が見えなかった。
診療所の観音開きの扉が開け放たれたのはそんなときだった。「日下先生、大変です。大変なんです。助けてください」。声が聞こえ、幸作と良太郎は玄関に出た。
そこには魚松のせがれ、雄一が立っていた。雄一の肩から人の手がだらりとぶら下がっていた。どうやら人を背負っているらしい。幸作は「どうしたの、雄一くん」。尋ねた。雄一は「朝美さんが大変なんです」。叫び、肩から「朝美」と呼んだ人物を下ろした。その背負われた人物は確かに坂内朝美だった。雄一は朝美をうつぶせにした。しかし異常だ。誰がどう見ても異常だった。朝美の背中には刃渡り20センチほどの柳刃包丁が突き刺さっているのである。幸作は「こ、これは!」。つぶやいて、すぐに朝美の意識を調べるべく、抱きかかえて呼びかけた。朝美の口にも鼻にも、生乾きの血がべっとりとこびり付いていた。朝美は口をわなわなさせて、小刻みに痙攣していた。朝美は「……あか……しょう……、り……、う、ら――」。ほとんど聞き取れない声で何かを喋った。朝美の目から涙がこぼれた。幸作はすぐに朝美を抱き上げて診察室の中に運び入れた。そしてすぐに彼女を横臥(おうが)させた。朝美のシャツとブラウスには血がのっぺりと滲み出ていた。幸作は「輸血、リンゲル モルヒネ、カンフル、あとペニシリン」。指示を出した。続けて「よし乃婆は朝美さんの脈を診ていてください」。言った。幸作はタオルを手に巻き付けて、それから朝美の傷口にもタオルを押し当てて、柳刃包丁に手をかけ、それをゆっくりと抜いてゆく。タオルが血をじっとり吸い始めた。幸作は「輸血、もっと!」。言ったが、良太郎は「予備はない」と言った。幸作は「誰かA型の人、いませんか?」。言うと、魚松のせがれが「僕はA型です」。言った。幸作は包丁を抜いた。すると刃渡り23センチの柳刃包丁が、赤黒く鈍い光を発した。雄一から血を抜いているときだった。幸作は朝美のからだのある身体的な特徴に気が付いた。「父さん!」と幸作は言った。良太郎は朝美の横臥する寝台の脇に立ち、覗き込んだ。良太郎が「これは」。つぶやいた。幸作が「妊娠?」。鈍く言った。すぐに朝美のブラウスを切って、シャツを切り裂き、スカートを下ろし、朝美を裸にした。やはりそうだ。間違いない。朝美は妊娠している。しばらく幸作の手が止まった。すると朝美の脈を診ていたよし乃が、「若先生」と言った。よし乃は首を振った。幸作もすぐに朝美の脈をとった。触れなかった。幸作はすぐに「カンフル」と言ったが、良太郎も首を振った。朝美の目を開き、対光反射を診てみる。朝美の瞳孔は開いていた。いくら光を当てても、ぴくりとも動かなかった。すると次の瞬間、幸作は「今から帝王切開術に切り替えます」と宣言した。幸作は「お腹の中の赤ちゃんだけは助かるかもしれない!」。言った。良太郎が「いいのか? 幸作?」、厳しく尋ねたが、幸作はすでに消毒液を彼女の腹にぶっかけ、重く頷いた。すぐに術具が用意された。良太郎も診察室の中を慌ただしく動き回っていた。それらが用意されると、幸作は厳しい顔をした。そしてメスを握り、朝美の下腹部にすっとそれを走らせた――。
診察室の扉が開いた。遼介が診察室に飛び込んできたのである。遼介は肩で息を吐いていた。さらしを巻き、茶袢纏を着用していた。遼介は「理子は? 理子は無事ですか!」と叫んだ。幸作は良太郎に眼で合図した。良太郎は「分かった」と言った。良太郎は待合室にいた雄一に、「警察に行ってくれるね?」。声をかけた。雄一は青ざめた顔をしていた。とんでもないことに巻き込まれてしまったな。しかし雄一は頷き、診療所を出て、駐在所へ向かった。それから遼介は良太郎によって別室に案内された。
一通りの説明を良太郎から受けると、遼介は「そんな……」。項垂(うなだ)れた。子癇発作のこと、堕胎しなければならないこと。遼介は「理子に合わせてください」。言ったが、診察室は今、手術中だった。遼介は「差し支えなければ、誰が手術を受けているんです?」。尋ねると、良太郎は「君には話しておいた方がいいな」と言った――。
「――まさか! ありえない!」
遼介は冷静な彼からは想像もできないくらいに取り乱した。遼介は正平の留守中、朝美の後見人のような立場に立っていた。その朝美が、妊娠していた? そして殺された? 遼介は「この診療所で一体、何が起こっているんだ!」。叫んだ。すると俄かに診察室の扉の向こう側が沸いた。赤ん坊の産声がけたたましく上がったのである。
診察室に飛び込むと、よし乃が産まれたばかりの女の子の赤ん坊に産湯を使っていた。幸作は背になってその表情は窺えなかったが、朝美の縫合術をしていた。やがてすべての術式が終わると、幸作は思わし気に手を洗った。
すると遼介が幸作に詰め寄った。
「幸作くん」と遼介は厳しい顔をした。「君はその子を救うべきじゃなかった。君はその子の命に対して責任を持てるのか。誰がその子が成人するまで責任をもって育てるんだ。正平がまさかその子を育てると思っているのか? いいか、この国には戦争によって家族を失った子どもたちが掃いて捨てるほどいる。彼らは住む場所も、食べる物もない貧困のどん底の中で、誰に教えられるでもなく、悪徳を身に付ける。あるいは彼らはそれが悪徳であるという判断すら分からぬまま、悪徳に身を染め、その小さな手に余りある罪を背負う。そして彼らは成人し、悪徳もまた生きるためには必要だったという正当な理論へと変質していくんだ。この国の不幸は農本主義から資本主義を国是として取り入れたところから始まった。資本経済が台頭した結果として、農作物の価値が下がる一方、貨幣価値は上がり、農村の貧窮は凄まじい。大人ですらこのように本日の糊口を凌ぐような生活をしているのに。それがましてや子どもだとしたら、彼らに一体何ができるというのか。そんな子どもたちの心を君が少しでも慮っていたなら。君はその子を助けるべきじゃなかった。答えろ。その子の父親は誰かも分からない。産まれてもその赤ん坊の誕生を祝福する人間は誰一人としていないんだ。それを分かっていて、その子を救い出したのか? 答えろ。誰がその子を育てる? 育てるだけじゃあない。誰がその子に愛を教える。誰がその子を幸福にする? さぁ答えるんだ」
「あるいは私が」
「君が? ふざけないでくれ。お人よしにも――」
遼介はそう言うと、激しい咳の発作に見舞われた。身体の軸がぐらりと揺れた。遼介は急いでハンカチを口元にあてた。すると遼介は血を吐き出した。
「義兄さん、それは」幸作は厳しい顔をして言った。「初めてじゃありませんね? すぐに詳しい検査をしましょう。そのハンカチは預からせていただきます」
「すまない」と遼介は言った。「理子と二人きりにさせてくれないか?」
遼介の願いを聞き、診察室から一人、また一人と出て行った。朝美は良太郎によって診療所内の別の部屋に安置された。幸作は朝美の子どもをケットに包み、抱いていた。
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