第24話



 雄一が坂内宅を出て行った後(それは七時半頃だった)、朝美は深い絶望に暮れていた。考えはまとまらずにパズルのピースのようにぐちゃぐちゃだった。――夫は今日、わたくしの身体を求める――それが朝美の最も憂慮している事態だった。朝美は遅い晩ご飯の準備に取りかかるべく、台所に立っていた。食事の用意は思ったよりも時間を潰せなかった。しかし朝美はできる限りその時間を引き延ばした。もちろん敗戦直後だし、並べるようなご馳走を用意できるわけでもなかった。用意できたものと言えば、茶碗に半分くらいの白飯(雄一に食わせてやった米の残りだった)と、味噌汁と、漬物だけだった。

 朝美は考えていた。わたくしは正平さんを愛していないわけじゃあない。むしろ彼の不器用な優しさを誰よりも知っているつもりよ。しかし、正平が満州に旅立ち、寂しくなった彼女に「彼」は優しかった。そして道ならぬ道を拓いてしまった。朝美は不倫をするような女性を心の底で軽蔑していたが、朝美自身がそれに成り果ててしまったことに、大きなショックを受けた。夫がわたくしの身体を求め、その恐ろしい瞬間が現実となったとき、夫は恐らく釈明など求めないで、わたくしを叩き殺してしまうだろう。朝美の心は悲鳴を上げ、激しい罪悪感に見舞われていた。後悔と自責の念は、朝美をとことん苦しめ、それは朝美に科せられた罰であるかのようだった。

 正平は満州滞在期間中、月に一、二度、朝美に手紙を書き送っていた。朝美もそれに返信を書いた。その手紙は正平の持ち物である日記に束になって挟まれていた。正平が世間から悪く言われ、朝美まで悪く言われるようになったとき、朝美は不平一つこぼさずに、正平に寄り添う態度を表明した。言葉ではない。態度で表明したのだ。わたくしは何があっても、あなたと連れ添います、と。正平はそれを痛いほど感じ取った。朝美を一生涯に懸けて幸せにしてあげようと思った。かけ替えのない存在だと思った。

 しかし朝美は悪魔の誘惑によって、すでに堕していたことを正平は知らない。

 朝美は晩飯の調理を終えた。

 すると突然、朝美の脳裏にあるアイディアが電撃的にひらめいた。朝美はすぐにこのアイディアに夢中になった。それはなんだかんだ家を出る口実を考えて、朝美は一人で家を出たらそのまま雲隠れしてしまうというものだった。つまり「失踪」するのである。一時的に「失踪」し、恐らく二日以内には生まれる我が子を産み落とし、それから「彼」に――。脳裏に恐ろしい言葉が去来した――「私はスマートに殺す」。朝美は激しい自己嫌悪に苛まれた。やはり親の都合で子どもは死ななくてはならないのか? しかしまさにそのとき、またもや朝美の脳裏に、ある奇抜なアイディアが浮かんできた。「養子」ということにしたらどうだろうか? 「失踪」し、子を産み落として、その子を「養子」と偽り、正平と二人で平穏に育てる。あるいは素性を明かさないという条件付きのもと、我が子が産まれたらそれをすぐに他家に養子に出してしまう。朝美は有頂天になった。完璧な発想だわ。初めから血を見る必要なんてなかったのよ。朝美は晩飯を持って茶の間に腰を下ろした。すると、どうだろう? またもや新しいインスピレーションが彼女の頭をずどんと打った。捨て子にしてしまえばどうか? ある良心的で、裕福で、篤実な家庭の家の前に、我が子をそっと置いてくる。まさかこの時期に凍え死んだりはしまい。その家庭は子どもを引き取り、無償で育ててくれるかもしれない。養子先を探す手間も省ける。あるいはそちらの方が、子どもにとっても幸せなのではないか? わたくしはそれを陰ながら見守る存在になれればいい。朝美は急に晴れやかな気持ちになった。

しかし何はともあれ、今は「失踪」しなければ始まらない。まずは正平と二人きりのこのふざけた修羅場をくぐり抜けなければならない。その策もすぐに思い付いた。買い物に出ると偽って、そのまま「失踪」。

 朝美は「ねぇ、あなた」と正平に声をかけた。「今日はせっかく、あなたが戻られたのに、ご馳走を用意できずに申し訳ないです。お金がないわけじゃないの。預金もまとまった額があります。だからこれから赤城精肉さんに行って牛肉でも買ってこようかしら。あなたは牛肉が大好きなんですもの。それから魚松さんに行って鯛でも売ってもらおうかしら。日本海で獲れた鯛は身が引き締まって、あなたも懐かしく感じることでしょう。まぁ、素敵。あなたはここでお酒でも飲んでいてください。ニ十分以内には戻りますから」。そう言うと朝美はすっと立ち上がり、踵を返して、着ていた割烹着を脱いだ。自分でもまさかここまで自然に言い出せるとは思ってもみなかった。口元に微笑が浮かんだ。このまま家を出てしまえば、後はもう「失踪」するだけだ。次にこの家に足を踏み入れるとき、わたくしは綺麗な体になっている。朝美は「あなた、戦争中には牛肉なんて、絶対に食べられなかったものなのよ。楽しみにしていてくださいね」。ほとんど踊り出さんばかりの声で言った。すると正平が思わし気に「店は閉まっているぞ」。言った。「っ!」。朝美の笑顔は一瞬にして凍り付いた。店は閉まっている――。朝美は奈落の底に転がり落ちてゆく気分をまざまざと体感した。

 朝美は深い――底の見えない絶望を抱き、茶の間にすとんと腰が落ちた。

 正平は独身の頃、漁師仲間を誘って大判振る舞いをして酒を飲み、どんちゃん騒ぎをすることが大好きだった。趣味と呼べるようなものはそれしかなかった。しかし朝美と結婚してからは、彼は家計の一切のやり繰りを朝美に任せることになった(彼は自分が貯蓄できる人間だとは思っていなかった)。漁師仲間を相手に大判振る舞いすることも、どんちゃん騒ぎをすることもめっきり少なくなり、その代り、彼は朝美と晩酌することを楽しみとするようになった。

 朝美は青白い顔をして座卓の計算された角度に腰を下ろしていた。それはお腹が見えなくなる角度だった。すると正平が「なぁ、朝美、いつもしてくれたように、酌をしてくれないか?」と言った。朝美はびくりとし、身震いした。正平の隣りに鈍感に腰を下ろした。心の中の拳をぐっと握り締めた。朝美は正平の丼(どんぶり)に酒を注いだ(正平は晩酌をするときは決まって丼を用いた)。正平は「お前も少し、飲めよ」。言った。朝美は「明日は仕事がありますし、だから少しだけ」と言って、猪口を用意した。

 それから二人は晩酌しながら、飯を食べた。もちろん正平は三合以上飲んだ。飯を食い終ると、朝美はのろのろと後片付けを始めた。それが終わるとまた二人で晩酌した。

「朝美、色々とすまんかったなぁ」正平は朝美の猪口に酒を注ぎながら言った。

「謝らないでください……。あなたはあなたらしく生きているだけですもの」

「もうお前の傍を離れない」

 正平はそう言うと、朝美の肩をぐっと引き付けた。(来た!)。朝美は心の中で悶絶した。正平は朝美の視線を真っ直ぐに捉えた。朝美の眼は泳いでいた。身体がこわばって、のけ反っている。直視に耐えられなかった。正平は朝美の顎をくっと持ち上げた。正平の唇が、朝美の唇にねばついた。(唇までならまだ大丈夫……)。朝美は死刑台に上るときのような気持を味わった。朝美は恐ろしく焦っていた。

「いけない、誰かくるわ」朝美は深く吐息を漏らした。「今日はお祭りよ、まだ十時前じゃない。若衆が家にくるかもしれないじゃない。お酒の用意をしないと」

 正平は何も言わずに、朝美の乳房をまさぐっていた。

「あなた、ダメなの」朝美は言った。「わたくし、今日はダメな日なの。この意味、分かるわよね?」

 どんな嘘を吐いても、裸になることだけは避けなければならない。朝美は嘘を吐くことにまったく罪悪感を覚えなかった。不倫をしたという圧倒的な罪悪感に勝る、罪悪感はなかった。

 正平は「血が怖くて、女が抱けるかよ」。言った。

 すると朝美は突然、「紳士です!」とぴしゃりと叫んだ。正平は「紳士?」と首を傾げた。正平の手は朝美のブラウスを脱がそうとしている。朝美は無我夢中で「あなた、女性には優しく接するものよ」。言った。

「あなたには紳士になってほしいのよ」と朝美は正平の太い腕を取って言った。「カレーニンのような紳士です。カレーニン、知ってますか? 妻の不倫を赦した寛大な人です。ああ、そこはダメなのに……、紳士になってください。あなたの息遣い、まるで獣よ。ああ、ダメだって言っているでしょう。女性を優しく導いてくれるような紳士に。もしも今、突然、若衆が入ってきて、わたくしとあなたが裸だったらどう思いますか? きっとお酒どころか息を呑むわよ。わたくしはもう恥ずかしくて、失踪します。はい、失踪です。今日、このとき、今を以て、野蛮な坂内正平は死にます。そして紳士として生まれ変わるのです。あなたにはこれから村の人とも仲良くしていただかなければなりませんし、……だから、そこは、ダメ。また満州に行ったときのような悔しさを味わってほしくないのです。だから紳士じゃないとダメなの。村の社交界にも頻繁にお顔を出してほしいですし、わたくしに恥をかかせないでください。だから紳士なのです」

 村の社交界。もちろんそんなものはなかった。あるのは井戸端会議と、寄り合いのどんちゃん騒ぎだけだった。

「あなたは、上背も高いですし、燕尾服の似合う素敵な紳士になってくれます」朝美はもはや窒息しそうだった。自分でも恐ろしく愚かしいことを言っているのが分かった。自分で言ってはみたものの、どう考えても正平と燕尾服は結び付かなかった。「若衆が入ってきますわ。ダメよ。ほら、外の歓声が聞こえる。今頃、お神輿は諏訪様の急坂を上っている最中かしら? そうだ、お神輿を観に行きましょう。そうしましょう」

「巌のクソじじぃがいるからヤダ」

「今日はお祭りよ。血を見てはいけない日なのよ。わたくしは、今日、ダメな日なんです。あなた野獣じゃない。わたくしは野獣となんかしたくありませんわ。だから紳士になってください、野獣じゃダメ、絶対にダメ、ッメ!」

 朝美は無我夢中で喋り続け、この「ッメ」を最後に叫ぶと、口をつぐんだ。しかし正平は朝美の身体を激しく求めていた。朝美は悶え、手を振り解こうとすると、正平の手を引っ掻いてしまった。正平は「それくらい活きがいい方がいい」と逆に情欲に火が点いた。正平は朝美の乳をまさぐりながらその手が、いよいよ下に降りて行った。

そのとき「!」。正平の右拳が、朝美の左頬にのめり込んだ。その衝撃は凄まじく、どうやら朝美の口の中をすっぱりと割り、鼻血も出てしまったようだ。唇もぱっくり割れたようだった。朝美は畳に蹲(うずくま)り、呻き声が漏れた。口から大量の血が滴り落ちた。すぐに口に手を添えると、指の隙間を縫って血が滴ってきた。朝美はすぐに立ち上がると、玄関に向かって逃げなければならなかった。しかし正平が朝美の頭髪を鷲掴んだ。朝美は声が出なかった。声が出るような痛みではなかったからだ。正平は髪を掴んだまま朝美を引き寄せた。そして今度は朝美の鼻面に拳を打ち込んだ。朝美の両の鼻の穴から血がとめどなく流れ出し、飛び散った。朝美は吹っ飛び、勢いよく尻もちをついた。

正平の形相はただ怒っていただけ(そんなように見えた)で、それ以外の何の感情も感じ取られなかった。口元はきつく結ばれているようでもあり、口角が少し上がり微笑しているようにも見えた。正平は根からの暴力狂なのだ。すると朝美の眼は座卓の傍にあった一升瓶を認めた。朝美は四つん這いになって、一升瓶を慌てて握り締めた。人間が野獣に対抗するには武器を持たなければならなかった。朝美はその一升瓶で正平の眼帯をしていない方の右目を狙って振りぬいた。狙いは外れて、正平の右目の上、右の額に一升瓶は直撃した。

一升瓶は鈍い音を発して割れた。すると酒が正平の右目を濡らした。一時、正平は目が眩んだ。朝美は割れた一升瓶を放り投げた。すると正平の右腕が朝美の右腕を掴んだ。朝美は正平の腕を思い切り引っ掻き、その腕を振り解いた。そして襖を開け放ち、玄関に向かって遁走した。朝美には何も分からなかったが、とにかく玄関まで走った。ハンカチを取り出すとそれで鼻と口を押さえた。朝美は呼吸が上手にできなかった。助けを求めたかったが、それは即ち不倫の露見を意味していた。そして、その不倫の相手は誰だったのか、ということになるのかもしれなかった。だから助けは求められなかった。あるいは「彼」ならばこの救いのない状況を打破する、「何か」をしてくれるのかも分からなかった。

朝美は玄関を飛び出した。諏訪町の沿道には提灯がずらりと立てられていた。その灯りが朝美の目に飛び込んできた。朝美は眩暈を覚えた。諏訪町は人混みに満ちていた。しかし朝美はそれら全員の人が敵かのように目に映った。身柄を正平に引き渡されたら殺されてしまう。それに、この状況を上手に説明できるとは思えなかったし、説明している時間もなかった。朝美はひと気のない方向へ向かって走った。

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