第23話



「担げ、この馬鹿野郎ども!」

 そこに巌老人の姿があった。さすがにこの歳で神輿は担いでいなかったものの、神輿を叱咤激励していた。男たちが神輿を取り巻いていた。男たちは入れ替わり、立ち代わりしながら諏訪様の頂を目指す。激しい揉み合いの中で、最初から最後までぶっ続けで神輿を担げるような男はいない。果てしない揉み合いがあるからだ。実は神輿を担ぐということは、強烈な臭いとの闘いでもあった。皆が浴びるほどに酒を飲んで、身体中からアルコールの匂いが立ち上る。これが強烈に臭い。その臭いだけでも充分に酔えるほど凄まじい。中には酒を頭から浴びている者もいるほどだった。そこにさらに強烈な汗の臭いが加わる。男たちは密着しながら神輿を担ぐ。神輿を「担いで」いるくらいだから、脇は全開だ。臭いもまた絶好調になる。もしも近くに腋臭(わきが)の男がいようものなら、これは悪夢以外の何物でもない。さらに踏ん張り過ぎて、糞が一本もので丸々出てしまう男もいた。その生温かな瘴気(しょうき)がむらむらと立ち上ってきて、鼻に入り、口に入り、目にしみる。

 神輿から弾き飛ばされた男がいた。「爆弾」との異名を持つ、渡辺宗樹だった。彼は二十七歳の青年で、正平のことを兄貴のように慕っていることは既に述べている。彼の穴を狙って、数人の若衆が一斉に神輿に飛び付いた。神輿は均衡を崩し、ぐらりとよろけた。宗樹の右肩には神輿を長年担いだ証であるタコができていた。それが破裂して血が流れていた。観客の一人が、宗樹に酒を差し出した。宗樹はそれをひったくって口に含むと、傷口に吹っかけて、残りの酒を一気に飲み干し、再び神輿に飛び付いた。宗樹は村の男衆を殴り飛ばしたり、蹴り飛ばしたりしながら、神輿にとにかく触れようとする。神輿に触れているだけでも、御利益があると信じられている。これが彼の男に見せる「根性」というものだった。

 市川弥助も神輿の揉み合いの中枢で男を見せていた。彼は神輿のほとんど真下で神輿を支えている恰好だった。神輿の直下は最も危険が伴う。重量も神輿の真下に一番、負荷がかかる。ちょっと異常な筋力だった。彼の市川家は農業を本業としているが、村で武講館を構えている。弥助も幼い頃から柔術で鍛えた鋼の肉体を持っていた。弥助のその肉体は腕も脚も、筋肉でぱんぱんに張っていて、はち切れてしまいそうだった。

 もう一人、神輿から引っ張り出された男がいた。飯尾秀太だった。彼も二十七歳の青年で、昼間は宗樹と茶子と酒の飲み比べをして、目を開けたまま失神していた男である。その後、彼は意識を取り戻し(幸作たちが社を辞したニ十分後だった)、再びちびりちびりと酒を始めていた。彼はほとんど憔悴し、華奢な身体は今にも折れてしまいそうだった。彼は神輿の端を申し訳ないくらい担いでいたのだが、体格にも、体力にも恵まれず、ほとんど神輿にぶら下がるような恰好だった。ついにその繊維質で貧弱な筋肉に限界が訪れて、足がもつれ、転倒しそうになったところを、数人の男衆に辛うじて引っ張り出された。秀太はがくりと膝が折れた。

 すると秀太は何かに激しく打ち据えられた。

 そこには何と日下の大ばば様が仁王立ちしていたのだった。ばば様は幸作からもらった杖で、秀太を二発、三発としたたかに打った。神輿を取り巻いていた観客は唖然としながら、我が目を疑っていた。得体の知れない老婆に若者が杖でぶたれているのである。

「この子悪党が!」ばば様はつんざくように喚いた。

「何をするんです、日下のばば様!」

「こんな時間までほっつき歩きおって、何をしているのか心配になって、のこのこ出てきてみたら、このザマさね!」ばば様は再び秀太を打った。「お前のおとっつぁんが、こんなザマぁ見たら、死んでも死にきれねぇだろうよ!」

「何か、勘違いなさっている」秀太は頭を守りながら叫んだ。

「ほら、立て、立てるか、この放蕩息子め! どら息子め!」

 秀太はとてつもない恐怖に駆られた。

「お前のおとっつぁんはね、そりゃあ祭りと言ったら、華を咲かせたもんだよ。それが何だい! お前のその体たらくは! おとっつぁんにあたしゃ、申し開きができないよ!」

「僕は飯尾です! 飯尾秀太ですよ!」

「お前に本当の祭りってもんを見せてやるからね! よぉく見ておくんだよ!」するとばば様はぶるぶると神経質に震え出した。「女のあたしがからだを張ろうって言うんだ! この意味が分かるか? どら息子め!」

 老婆はそう叫ぶと、神輿の前にぶるぶる歩み出て、杖を投げ捨てた。

「まさか、あの婆さん担ぐ気か?」観客が恐ろしいほどの悲鳴を上げた。

 すると巌老人が「そこをどけ! 日下の死に損ないめ!」。叫んだ。

「死に損ないとは何さね、あたしゃ死んでもここからどかないよ! ああ、おとっつぁん、あたしに力を貸してくだせぇまし! おとっつぁん、今、行くからねぇ!」

 すると老婆はこの世のものとは思えぬ悲鳴をあげながら、神輿に突っ込んでいった。

「このくそばばぁ」

 巌老人も叫ぶと、ばば様に体当たりした。巌老人とばば様は揉み合って転倒した。

「おとっつぁん! おとっつぁん!」ばば様は虚言(うわごと)をぶつぶつ言い、念仏まで唱え始めた。

 そこへ良太郎の弟の秀幸が人混みを掻き分けて、ばば様を担ぎ上げた。秀幸は「申し訳ありません」。ぺこぺこ頭を下げて、顔面から火が出るようだった。

 ばば様は失神しかけていたが、秀幸に担がれると、「なんだい、お前、女の本懐を邪魔しようって言うのかい、このひとでなしめ」。凄まじい悪態を付き始めた。老婆は遂に泣き始めたが、泣きたいのはむしろ秀幸の方だった。

 そのまま老婆は秀幸に担がれて、諏訪町の人混みの中に吸い込まれ、闇夜に消えた。

 巌老人は「くたばりやがれ」。つぶやいてむくりと起き上がると、再び神輿を叱咤し始めた。神輿は勢いを保ちながら、いよいよ諏訪様の麓まで迫り、一の鳥居のところまで進んでいた。それは朱色の鳥居だった。雑踏は忙しなく蠢いていた。神輿の動きに合わせて、打ち寄せたり、引いたりしていた。満ち引きを繰り返すうちに折よく、茶子と理子は神輿を見物する観客の最前列に出ることができた。茶子と理子の前で神輿は暴れ狂っていた。巌老人は神輿を叱咤し、すでに声が裏返ったりひっくり返ったりしていた。しかしとにかく何かを叫んでいた。神輿が大きく均衡を崩し、茶子と理子に襲いかかってきた。すぐに観客は散り散りになった。巌老人が「担げ、大馬鹿野郎ども!」。絶叫すると、神輿は踏ん張って、諏訪様の急坂目がけて突進していった。

弥助がぬらりと神輿の中から出てきた。息は乱れていた。観客が弥助に酒を差し出していた。弥助はそれを飲んだ。体中から汗が噴き出し、脚のすねからも汗が滴っていた。

 弥助の眼はかっと見開き、吊り上がっていた。次は何処の機会で神輿を担ごうか狙っていた。すると弥助の目に理子の姿が止まった。すると理子はいきなりふらりと頭が振れ、そして倒れた。茶子が驚いて理子を支えた。驚いた弥助もすぐに理子のもとへ走った。

「理子ちゃん、どうしたんだい!」

 すると茶子が「何処か横になれる場所を!」と叫んだ。すぐそばに二の社が構えられており、茶子は弥助にそこへ理子を連れて行って、横にしてあげてください、と指示を出し、彼女はすぐに診療所へ走った。



 茶子が診療所に駆け込んだとき、幸作は一人の男を触診していた。

「捻挫ですね。全治は二週間と言ったところでしょう」

 この男は神輿を担いでいるときに、足を挫いてしまい、ひょこひょこと歩きながら診療所を訪れていた、まぁ祭りではこんな急患は珍しくなかった。

 幸作は「二週間分の湿布を処方しますから、経過を診てください」。言うと、診察室の扉をノックする音が聞こえた。三回。とんとんとん、と。幸作が「どうぞ」。言うと、茶子が診察室に入ってきた。男の姿を認めて、彼に対して軽く一礼した。幸作は怪訝な顔をして「どうしました、茶子さん?」と尋ねた。すると茶子は「理子さんが倒れました。意識はありません」と要件を的確に言った。続いて「脈拍、心音は異常がないように思われます。理子さんは二の御社で横になられていると思います」と言った。幸作は不意に厳しい表情を作り、「分かりました」と言い、「茶子さんはタライの中に湯を沸かせておいてください。場合によっては風呂も必要になるかもしれませんので沸かせておいてください。それからよし乃婆を呼んできてください。できるならば父さんと、遼介義兄さんも」。幸作は指示を出し、すぐに鞄の中に薬剤を詰め込むと、診療所を出て行った。

 幸作が諏訪町に着くと凄まじい人混みだった。彼は「急患です、道を開けてください」。叫びながら、二の社にようやく辿り着いた(神輿は二の社の近くで揉み合っていた)。二の社に飛び込むと、理子が仰向けで寝かされていた。一升瓶にタオルを巻き付けたものが、枕として宛がわれていた。もう一人、二の社には患者がいた。新山喜助村長である。喜助に付き添っていた若衆が、「若先生、村長が急性アルコール中毒でぶっ倒れたんだ。さっきまで吐いていたけれど、今はどんどん顔が青白くなってる」。言った。幸作は喜助のもとへ小走りで進み出ると、瞳孔を確認した。対光反射を診て、瞳孔が大きくなったり、小さくなったりするのを確認した。幸作は「このまま、水を飲ませ続けてください。吐瀉物が気管支を塞がないように注意してください。できるなら横臥させてください。とにかくアルコールを吐き出させてください」。指示した。すると新山喜助の奥方である美代子(みよこ)さんが社に入ってきた。美代子さんは喜助が倒れたと聞くと、何度か社と自宅を行き来し、彼の看病に当たっていた。美代子さんはこのとき、着替えやタオルを何枚も持って社に戻ってきたのだった。美代子は幸作に対して一礼した。幸作も礼を返すと、それから理子の診察に移った。幸作は理子の浴衣の裾をまくり上げ、脚を触診した。こんなに浮腫んでいる。子癇発作だ! 幸作は持ってきた薬剤の中から、ジアゼパムを取り出し、理子の腕に静注した。「弥助さん、担架を作りたいのですが、ここにあるものだけで作れますか?」。幸作は尋ねた。社のすぐ下に外された戸板が収納されてあることを弥助は思い出した。弥助はすぐにそれを引っ張り出した。幸作は「なるべく揺らさないように」と指示を与えると、その戸板の上に理子をそっと乗せた。「これから診療所の方に運びます」。幸作は言うと、弥助が指揮を執って、二人の男衆が戸板を持ち上げて、担いだ。それでは皆さんよろしくお願いします。「おいよい!」。



 諏訪町を離れると人は一気に疎らになった。幸作たちは理子を担いで、診療所までゆっくりと揺らさないように、でも素早く、診療所を目指した。やがて診療所が見えると、そこに一人の人影が窺えた。影は吸い込まれるように日下診療所の中に消えた。影はよし乃婆だった。よし乃は腰が曲がっているというより、背中が湾曲していた。

 茶子は幸作に指示されたようにタライに湯を張って、薪を焼べて風呂に湯を沸かした。その後、隣宅のよし乃の家に飛び込んだ。玄関は静まり返り、茶子が「よし乃お婆さん、こんばんは!」声を張り上げた。すると住宅の闇から、よし乃が浮かび上がるように姿を見せた。よし乃婆は茶子から事情を聴くと、理子がどうやら大変らしい。「お婆ちゃんは診療所で理子さんが運ばれてくるのを、待っていてもらえないでしょうか」。茶子が指示を出すと、よし乃は寝巻きから、浴衣に着替えて、診療所に赴いた。それから茶子は良太郎と遼介を探すために、往来の辻へ飛び出たのだった。良太郎が何処の居酒屋で飲んでいるのかなんて見当もつかなかった。茶子が記憶している限り、良太郎は一度も飲みに出た記憶がなかった。茶子は途方に暮れて、町の居酒屋を一軒一軒見て回った。

 その頃、幸作たちは理子を担いで診療所に雪崩れ込んだ。診察室の扉を開け、診察台に理子を移し替えた。幸作が「皆さんは遠慮してください」と言うと、弥助と他の二人の男衆は待合室に腰を下ろした。

 診察室には幸作、よし乃婆がいて、それと理子が横になっていた。幸作は理子の容態をよし乃に詳しく説明した。そして「子癇発作に間違いはないでしょう」と彼の所見を述べた。幸作は「先ほど、ジアゼパムを投与し、これから硫酸マグネシウムを投与し、経過を診ようと思っています。よし乃婆の見解は如何ですか?」。尋ねた。よし乃は理子の脇に座り、彼女の腹を撫でていた。「残念だよう」とよし乃は言った。「ややは諦めるしかないのう。母体がもたないもの。婆がもっと早くに気付いて、芍薬(しゃくやく)を飲ませておけば、こんなことにはならなかったのにのう」。幸作は「やはり帝王切開で胎児を取り出すしか方法はありませんか?」。言った。この時代に未熟児で胎児を取り出すということは、即ちその胎児の死を意味していた。幸作の顔に苦渋の色が浮かんだ。

 そこへ良太郎が帰ってきて、診察室のドアを開けた。良太郎は、「事情は茶子くんから聴いた」と言った。幸作は「失礼ですが、父さん、姉さんは子癇です。どうして今まで気付かなかったんです。少なくとも蛋白尿と、高血圧の症状は出ていたはずでしょう?」。問い詰めた。良太郎は顔色を曇らせ、「何とか出産まで漕ぎ付けたかった。フェニトインを投与していたのだよ」。答えた。幸作も良太郎を責めるのは筋違いだということは分かっていた。何故なら、彼も良太郎と同じ立場に立たせられていたら、同じような選択をしていたのにちがいなかった。良太郎もまた苦々しい顔をしていた。

 そのときふと理子の意識が戻った。



     

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