第22話



日下家はしんとしていた。良太郎は近所の服部(はっとり)さんという男と町に飲みに出ていた。服部さんは良太郎の数少ない友人の一人で、彼も大久保正毅同様、村議会議員を務めていた。村の区画整備や、道路の舗装など、実務的な政治を得意としており、村人からの信頼も篤い議員だった。

幸作と茶子は縁側に並んで腰かけていた。時計は八時を指している。初秋の風に茶子の髪はそよがれた。茶子は幸作に団扇を使ってくれている。いい妻だなと思う。茶の間では理子が座卓に頬杖をついて、うとうとしていた。ふと庭先を一匹の野良猫が横切った。この村はやたらと猫が多い。今や村民よりも猫の方が多いとまで揶揄されるようになった。漁師も雑魚が獲れると猫の餌にする。なんでもその昔、ねずみやら、リスやらの齧歯類が大量繁殖して、村の農作物は深刻な被害を受けたのだそうだ。そこで当時の村人は猫の移民政策を打ち出した。すると農作物被害は激減し、村の平和は保たれたのだという。このときの功績を讃えられて、村の何処かには猫神様という祠(ほこら)が建てられ祀られている。その祠には今でも耆(き)徳(とく)な爺さんが毎日、鰹節(かつおぶし)を備えているのだった。



 幸作と茶子の出会いは遡ること二十数年前になる。良太郎と茶子の父は医科専門学校時代に机を並べた学友であり、親友でもあった。卒業後、良太郎はすぐに日下診療所で働き始め、妻を娶った。そして理子と、幸作を授かった。他方、茶子の父は地元の佐渡に帰り、様々な経緯から酒の蔵元(花村酒造)を継ぐことになり、所帯を持ち二男一女を授かった。その娘は「茶子」と名付けられた。良太郎と茶子の父の間で、もしも二人の間に男女の子を授かったならば、娶わせようという約束が交わされていた。理子を茶子の兄のもとに嫁がせようという話もあったが、幼かった理子が佐渡ヶ島を病的に怖がったため、成長を待つことになった。その一方で、幸作と茶子を娶わせようという、話も進んでいた。忙しい良太郎のために、茶子の父が佐渡から村に遊山しにきて、幸作と茶子は対面した。幸作は大人しく礼儀正しい子どもだった。茶子は父の影に隠れて、幸作をちらちら窺っていた。茶子はレースの白いワンピースに、麦藁帽を被っていた。まるで西洋人形のようだった。

 幸作と茶子が知り合いになり、五年が過ぎた頃、その秋の日も茶子の父は茶子と一緒に日下家へ遊びに来ていた。幸作は茶子を誘って、諏訪様の杜に深く分け入り、アケビやらザクロなどの秋の味覚を採取して楽しんだ。夕方になり、俄雨に遭遇した。彼らはひとまず杜の中腹にせり出している巨岩の下に隠れて、座りながら雨宿りをした。この巨岩はアメフラシ岩と呼ばれていて、その岩に上から水を灌(そそ)ぐと、雨が降るという伝承のある奇岩だった。幸作は茶子に「寒くありませんか?」。柔らかく尋ねた。茶子は「少し寒うございます」と答えた。幸作は上着を脱ぎ、茶子の肩からかけてあげた。幸作は肌寒かったが、それを茶子に悟られないようにして、口をぐっと結んだ。すると茶子は「ねぇ、幸作さん」と幸作の袖を引いた。「キッスしましょうか」。え? 幸作はぎくりとした。「どうして?」と少年は目を大きくして言った。茶子は頬に靨を作り、「わたくしたちは許嫁でしょう?」。平然と答えた。幸作は慌てて、「だからって!」と叫んだ。茶子は「アメリカでは大人も子どももみんな挨拶の代わりにキッスするんですって」。にこりと微笑した。ここは日本ですよ。「さぁ、目をお瞑りになって」。茶子が言うと幸作はぎゅっと目を瞑った。茶子の顔が少しずつ近付いてくるのが分かる。唇と唇が一瞬だけ触れ合ってゆっくり離れた。茶子が「なんてこともなかったでしょう?」。尋ねたが、幸作は顔を真っ赤にして、身体が火照っていた。幸作は感じていた肌寒さが何処かへ吹き飛んでいた。茶子は始終、静かに微笑っていた。



 茶子はあのときと同じように靨を作り微笑を浮かべていた。酒が出ていた。今日は茶子も飲んでいる。幸作と茶子はお互いに徳利を傾け合いながら、酒を楽しんでいた。

 外から恐らく祭り帰りの親子の声が聞こえてきた。「お祭り、楽しかったね」。子どもの弾むような声がした。母親と思しき声は、「ええ、また来年も一緒にお祭りに行きましょうね」。まるで笑顔が浮かんで見えるようなやり取りが聞こえてきたのだった。

 幸作は目を細めた。幸作は茶子の猪口に酒を注いで、「きっと、こうして何年も続いて行くんでしょうね」。言った。何のことかしら? 茶子は少し首を傾げた。幸作は「祭りのことですよ」と言った。「きっと日本がどんな国難に見舞われても、祭りだけは永久に続いてゆきます。久遠の古より、未来永劫に渡って。この国から祭りが失われた、まさにそのときこそ日本の本当の亡国になるのではないでしょうか」。幸作は続けて、「少し思い出話をします」。言った。

 幸作は子どもの頃から様々な神様が大活躍する、記紀神話を読むのが大好きだった。その叙事詩の中には様々なアドベンチャーがあり、ロマンスがあり、ファンタジーがあった。

 創世の神々の神話から、不思議な国生みの物語は幸作の知的好奇心を刺激した。それから伊弉諾(いざなぎ)が伊弉冉(いざなみ)を連れ戻すべく、黄泉下りする物語は幸作に黄泉の国への恐怖と勇気を奮い立たせてくれた。伊弉諾が禊を行い、三貴子(あしはらのうずのみこ)の誕生を祝福した。そして天照大御神の岩戸隠れ神話から八雲立つ。幸作が胸を躍らせる幻想的で冒険的な夢に満ち溢れていた。


八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


 物語は天孫降臨へと続く。八重(やえ)事代(ことしろ)主(ぬしの)神(かみ)との機智ある問答と、この村の御鎮守である、建御名方神と武(たけ)甕(みか)槌(づちの)神(かみ)の息を呑む力比べ。黄泉の国の最高神となった、大国主(おおくにぬし)神(のかみ)の英断。いよいよ天孫である瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)がこの日本国に足を張り、芦原中国の歴史を刻む。木花之佐久夜毗売(このはなのさくやびめ)の妖艶な美しさに幸作はうっとりした。

 様々な神々が颯爽と活躍し、それらの神々は日本の各地に土着して、その地域の縣(あがた)の祖先神となる。日本人のルーツを考えるとき、この神話時代まで遡り、日本人は誰しも八百万と言われている、何かしらの神を祖先に持っている。その祖霊神信仰の頂点に君臨するのが天皇家なのである。

 幸作は「子どもの頃、私の胸はそれらの物語に溢れ、胸がいっぱいになりました」と言った。「そして思うのです。日本は泰平の眠りから覚め、開国したことは、本当に日本の幸福だったのかということを」。アメリカの初代総領事ハリスは、回顧録の中で日本人のことをこう述べている。「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ富者も貧者もいない。これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるのか、どうか、疑念を感じることがある」。

 幸作は「日本はこれからどのような道を辿るのか、それは分かりません」。言った。すると茶子が「もう過去には戻れませんね」。つぶやいた。「ええ」と幸作は思わし気に首肯した。「だから私たちは、より良い明日を築き、子々孫々のために用意する義務があります。それがこれからの日本人に科せられた課題であり、その祭祀こそが日本の最大の国防なのです」。

 幸作が言うと、後ろから「幸ちゃんは真面目過ぎるのよね」と理子が話に入ってきた。理子は「茶子さんが、退屈しているじゃない?」。言うと、幸作は苦笑した。続けて、理子は「茶子さん、これから二人でお祭りでも見物に行かないかしら?」。尋ねると、茶子は「ええ……でも……」と言葉を濁した。幸作は「私のことなら気にしないでください。お二人で祭りを見物しに行ってください」。言った。服部さんが良太郎を酒に誘ったとき、幸作は「私が今日は診療所を離れませんので、父さんも気兼ねなく飲んでいらしてください」と言っていた。良太郎は「そうする」と言って、外出した。なので、幸作は留守番ということになる。茶子と理子はさっそく出かけるための準備に取りかかった。茶子は浴衣の襟元を正し、藍色の巾着を取り出して、手にぶら下げた。理子は白い浴衣に緋色の巾着をぶら下げた。白い浴衣と緋色の巾着の相性は良く、理子に抜群に似合っていた。



 理子と茶子は諏訪町を訪れていた。すでに星がちかちかと瞬いていた。ちょうど諏訪町の入り口に神輿が訪れ、社から出てきた若衆に神輿が受け継がれるところだった。これから激しい揉み合いが始まるのである。神輿を取り巻いていた男衆の中から一際、大きな男が理子と茶子に話しかけてきた。

「やぁ、理子ちゃん。茶子さん。二人で祭りを見物ですか?」

「あら、やっちゃん、こんばんは」理子が気さくに挨拶した。

 声の主は市川弥助だった。昨日、弥助は松さんと雄一の喧嘩を止めた後、松さんと一緒に安居酒屋の奥へ消えた。松さんは飲んでいる最中も、元気がなく、帰る頃には悪い酒になっていた。その日は弥助が松さんを家まで送ったものだが、やはり松さんは元気がなかった。そこで心配した弥助は本日も魚松を尋ね、松さんが魚松の仕事を畳むと、再び弥助と一緒に安居酒屋で酒を飲んでいた。松さんはそのうち正体もなく酔っ払い、呂律が回らなくなっていた。

「あのバカ、昨日から家に戻ってないんだ」松さんは言った。

「雄一のやつには、俺からも叱っといてやるからよう」

「俺はよう、メリケン野郎を三枚に卸してやるんだ」松さんはもはや話があちらこちらに飛んでいたし、支離滅裂だった。

「そうだ、松さん」弥助は激しく同調した。「やつらに大根おろしを付けてメリケンに追い返してしまえばいいんだ」

「俺は何があってもメリケン野郎には、この村に一歩たりとて踏み込ませねぇぞ」

 この村にアメリカ人はやってくるのだろうか? 恐らくこないだろう。

「いいか、弥助。メリケン野郎の身体は魚が腐ったようにぷんぷん臭うっていうぜ」

「本当か、松さん! 気持ち悪いやつらだなぁ」

「日本にぴかどんなんか撃ち落としやがって、メリケンこそ日本に土下座して謝るべきなんだよ」

「そうだよな、松さん。松さんの言う通りだ。あいつら、ひどいことしたものな。ちくしょう、何でそんなことに気付かなかったんだろう」

「弥助、お前はバカ野郎よ」

 その言葉を最後に松さんは机に突っ伏し眠りに落ちた。机から猪口が転がり落ちた。

 弥助はそれから居酒屋の店主のオヤジと酒を飲んでいた。やがて店主が、「弥助、そろそろ神輿の時間だぜ」。促した。諏訪町に神輿がくる時間帯になっていた。弥助は「オヤジ、勘定は松さんのところに送り付けてくれ!」。言って居酒屋を飛び出した。



「ほら、やっちゃん、豆絞りが、豆絞りになっていないじゃない」理子はそう言うと、弥助の豆絞りひったくった。「あら、汚い。手拭いにでも使ったんでしょう」

 理子はぶつくさ言いながら、弥助の豆絞りを綺麗に絞ってあげた。

「理子ちゃんにかかっちゃあ、俺も形無しだぜ」

「冗談言ってないで、お神輿を担ぎなさいよ」

 茶子が「お子さんたちはどうされたんです?」。弥助に尋ねた。彼は「あのガキんちょどもは、父ちゃんが神輿、担ぐ姿を楽しみにしているんです。全く誰に似たんだか?」。肩を竦めると、理子が「じゃあ、早くお神輿、担ぎなさいよ」。弥助を急かした。

 この村の神輿は全国でも稀な八角神輿である。その神輿は諏訪町の入り口のところで激しく揉み合いをしていた。そこは人垣の上にさらに人垣ができているようだった。神輿が左右にぐらっとよろけると、磁石の同極のように人々もざざっと道を開ける。神輿が暴れれば暴れるほどより強い神徳を発揮すると信じられている。俗に「暴れ神輿」という。神輿が暴れれば暴れるほど、人々の歓声も、叫びも、悲鳴も、何もかもをごちゃ混ぜにして渦巻いて行く。神が歓んでいる。神が揺れている。あるいは何もかもが揺れていた。鈴縄がけたたましく鳴り響き、神が渡御していることを告げていた。金の装飾が光の尾を引きながら乱れていた。乱れている。鈴が、鳳凰が、欄干が。神が歓べば、人々もそれを寿いだ。熱気が巨大な柱の塊となって立ち上っていた。花火が夜空に大輪の花を咲かせた。八角神輿の全貌が闇夜を切り裂いた。次々と花火が打ち上がってゆく。

 神の道を開けろ! 神の営みを邪魔するな! 神の陶酔を妨げるな!



     

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