第21話 第五章 神輿
物語は大きく前後する。
大久保正毅は幸作夫妻が大久保家を辞した後、書斎に籠った。書斎は六畳の部屋で書棚に本が並び(珍しい古書もあった)、畳の上に絨毯が敷かれ、机と椅子が設えられていた。正毅は椅子の背もたれに身体を預け、何か考え事をしていた。机の上には一度読んだ哲学書が開かれていた。正毅はそれをしばらく読んでいたのだが、内容が半分も頭の中に入っていないことに気付き、忌々しい気分になっていた。正毅は椅子から大儀そうに腰を上げると、書棚から小説をつまみ出し、それに目を通していた。しかしそれも長続きせずに三十分ほどで、机の上に放り投げた。「ふん、くだらん」と正毅は独りつぶやいた。外から祭りの笛の音が届いてくる。喧(やかま)しくて仕方がなかった。やがて遼介が家に帰ってきたことを音で悟ったが、正毅は彼と顔を合わせることはなかった。正毅はもう一度、書棚に眼を泳がせると、ふと古事記に目が留まった。「一芝居、打ってやろうじゃないか」。正毅は再び独りつぶやいて、ステッキを取ると玄関に向かって歩いた。トヨにも行き先を告げずに、正毅は玄関を出るとその足で、諏訪様の社に向かった。もちろん御神体が安置されている一の社ではなく、村の主だった連中が寄り合いをしている、丘の麓にある二の社の方へ向かった。
太陽は傾きかけ、その斜陽は朱色の鳥居を鮮明に映えさせた。その鳥居をくぐったすぐ先に二の社は構えられている。
この村の諏訪様の歴史は古く、詳しい文献は残っていないものの(文禄時代に火事があり古い文献が焼失したことがあった)、どうやら鎌倉時代の末期頃にはすでに諏訪様が勧請されていたと伝わっている。
社は襖が外され、周囲に紅白の幔幕が垂らされていた。正毅は外から中の様子を窺った。正毅は社の中でバカ騒ぎしている連中が猿の群れに見えた。その群れをしげしげと見つめていると、一匹の猿が、「大久保さん」と声をかけてきた。今年の頭屋頭を務める六十代の者だった。正毅は猿が喋ったことに驚きでもしたような顔をしたが、その表情はすぐに彼らを蔑視した。正毅はこのとき暗緑色の着物を着用していた。茶袢纏は羽織っていなかった。「わしは足が悪いんでね」。誰にともなく正毅が言うと、二匹の若い猿が正毅の手を取って社に上がる手助けをした。正毅は改めて社の中を見渡した。一番奥の上座に腰を落ち着けているのが新山喜助村長だ。喜助は正毅に毒虫でも見るような視線を投げ付けた。正毅はその視線をいなし、喜助に一瞥くれると、「わしは足が悪いんでね」と再び言って、下座に腰を落ち着けた。下座に席を与えられている若衆は少なからず正毅を畏れた。あの日露戦争の豪傑が、近くに座っているのである。
思えば、正毅が祭りの寄り合いに顔を見せるのはずいぶんと久しかった。正毅は無論、神輿など担ぐつもりは毛頭ないし、この場に姿を見せておきながら、茶袢纏の着用すら認められなかった。正毅の近くに座る若者は狼狽していた。正毅にも酒を用意しようとしたが、まだうら若い彼らが果たして正毅のような大物に酌をしていいのかすらも分からなかったのである。正毅は「ここは無礼講だろう」。言った。茶碗を差し出し隣りに座っていた若手の一人に「根本くん、わしに酒を注いでもらえないかね」と実に気さくそうに話しかけた。指名された根本(ねもと)くん(二十代後半だったが徴兵に取られることはなかった)は恐縮しながら、正毅の茶碗に酒を注いだ。正毅はそれを一口で飲み干した。
「おう、こら、正毅」と言ったのは(言えたのは)磯崎巌老人だった。「何しにここにきやがった! 祭りに水でも差しにきたのか! そうはさせねぇぞ。お前が神輿を担げないのは分かっているが、茶袢纏はどうした? それくらい着てくるのが礼儀ってもんだろうが、このバカが!」
「ずいぶんな挨拶じゃありませんか、巌サン」正毅は顔色を変えずに言った。「わしに他意はありませんよ。久し振りに村の者と酒を存分に飲み交わしたくてね」
正毅は再び根本くんに茶碗を差し出し、彼の酌を受けた。それもまた一口に飲み干した。若衆から「おー」と感嘆の声が漏れた。さすが日露戦争の豪傑だ。新山喜助は露骨に不快な顔をし、日本酒をちびりと引っかけた。
「大久保さん」と新山喜助は言った。「今日は婦人会の会合には顔を出さなくてもいいのかね? 大久保さんは婦人に取り分け人気があってね」
正毅は一時、婦人参政権の擁護者で、婦人会で講演し啓蒙活動を行っていたことがある。
「ないよりは、あった方がいいですな」正毅は言った。「そう言う新山サンも、芸者にはなかなか人気があるそうじゃないですか。お盛んでよろしいですな」
正毅はちくりとやり返した。喜助は祭りの擁護者で、遼介が口にしていた、「寄付金を半ば横領」し、その金で「芸者旅行」にまで加わっていた。
巌老人が「おい、お前ら!」と怒鳴った。「バカが一匹、迷い込んだだけで何を恐縮したような顔をしてやがる!」。すると六十がらみの頭屋頭が正毅に寄り、「大久保さん、ここは村長と漁協長の顔を立ててやってはくれないでしょうかね」。言った。正毅は彼に冷ややかな視線を浴びせ、「わしに察しろと言うのかね?」。尋ねた。それを聞いて気を良くした喜助は「伝統を乱さないようにしようじゃないか」と大きな態度に出た。
「伝統ねぇ」正毅はつぶやくように言った。「この村には伝統という美名に寄生して、因習を頑なに守ろうとしている寄生虫がいると窺ったんだが」
声は底響き、誰の耳にも聞こえた。会場はこの招かれざる客のために騒然となった。
「正毅、てめぇ」巌老人が叫んだ。
「騒ぐな!」
正毅は稲妻が轟くように一喝した。すると会場は打って変わったように静まり返った。静寂が谺(こだま)となったようだった。
「有史以来」と正毅は語り始めた。「未曽有の国難に見舞われている時期に、この村は祭りに現を抜かしておる。神州日本? 実にくだらんな。我々が旅順で死にもの狂いで戦っていたとき、日本の八百万の神サマは休暇を取って道後温泉に湯治に出かけていたそうだよ。結果、旅順は日本人の血を飽きるほどに吸った。かと思えば次は敗戦の国難の時期に、祭りを催してもらってどんちゃん騒ぎか。まったくもって日本の神々と言うのはおめでたい連中じゃあないか」
「正毅、てめぇというやつは」巌老人が呻くように言った。
「だいたい、お前たちは神なぞ信じてはいないでしょうが?」
言われた村の男衆は一斉に視線を床に落とした。この場にいる大概の者たちは、しきたりだとか付き合いだとか、中には酒を浴びるほど飲めるから祭りに参加しているという者ばかりだった。信仰心? そんなものはなくても、祭りは娯楽なんだよ。楽しいから参加している、それじゃあダメなのか。
ふと正毅は巌老人と目が合った。巌老人は正毅を噛み付かんばかりに睨んでいた。彼は神を信じている。――と言ったら間違いになるかもしれない。神の在不在を問うことなど、西洋的な発想であり、愚問でしかない。巌老人からすれば、神は「ある」のだ。川のさやかな流れに、日本海の荒ぶる猛々しさに、小麦色に項垂れる稲の中に、風にそよぐ葦(あし)の中に、健やかに育つ子どもの中に。
「信心無き者が祭りを有り難がってどうする? え? 新山サン」
正毅は不敵な笑みを浮かべて言った。喜助の顔は真っ青になった。誰も正毅に意見できないことに喜助は少なからず動揺を覚えていた。彼はまたしても心のデリケートな病気を発症しそうだった。
「祭り本来の意義は薄れ、気狂(きちが)いじみた連中が乱痴気騒ぎ、え? 新山サン」
「おい、喜助」と巌老人が言った。「お前、顔が真っ青だぞ」
「形ばかりの祭りを催して、伝統だと嘯(うそぶ)く。え? 新山サン」
喜助はついに神経質に震え始めた。
「ところで」と正毅は続けた。「平安貴族たちは、歌を編んで荒ぶる神々を慰撫している限り、世は泰平だと思い込んでいた。ところが刀伊の乱が起こり、世は乱れた。それでも彼らは歌を詠み続けたという。まったくもってこの国の連中とはおめでたいものよ。え? 新山サン」
「正毅! てめぇというやつは!」ついに巌老人が吼えた。
「まさか新山サンもこれが政だとは思っていないでしょう? 片腹痛いじゃありませんか。え? 新山サン」
巌老人は咄嗟に腰を浮かせ、正毅に飛びかかった。しかしすぐに近くにいた男衆に両腕を押さえられた。巌老人は自分を制止した男衆を一発ずつ殴り飛ばして、正毅に飛び付くと、彼の左頬に強烈な拳をめり込ませた。若衆が一斉に立ち上がり、巌老人に折り重なるように押さえつけた。巌老人は凄まじい悪態を付き始めた。
殴られた正毅は動揺することもなく、「これも祭りの一興でしょう」。言って、不敵な笑みをこぼした。六十絡みの頭屋頭は「大久保さん、頼む!」と頭を下げた。「頼むから、この場から出て行ってくれ!」。哀願するように言った。
「もちろん出て行こう」と正毅は言った。「こんな場所にいても私には何一つ意味もなければ得もない」
しかし正毅は腰を上げようとしなかった。
正毅は「この村の御鎮守であるタケミナカタ神は天津神のタケミカヅチ神に『力比べ』で敗れて諏訪大社にその霊を『封じ込められた』ことは知っているでしょう?」。涼やかな顔で言った。
頭屋頭が「頼むから出て行ってくれ、大久保さん!」。もう一度言った。
正毅は意に介するような素振りも見せず、「その力比べとは『戦争』だったのにちがいないんだよ。土着していた国津神はアマテラスの一族、天津神によって淘汰されたのにちがいないのだよ」。続けた。
「貴様、何が言いたいんだ!」巌老人は吼えた。
「殺されたのにちがいないのだよ。タケミナカタ神もヤエコトシロヌシ神も、そしてオオクニヌシ神も」
その会場にいた全員がぎくりとさせられた。
「出雲大社の注連飾りは通常と逆の方向で結われている。柏手も四回打つ。つまりそこを参拝するものはオオクニヌシに死の呪いをかけているのだよ。そして出雲大社の本殿には、オオクニヌシの神霊は、海の方角を向き、参拝者と対面しない形になっている。オオクニヌシはあるいはこの日本の何処かで捕縛され、『出雲』という土地で刑戮され、『出雲』という土地に幽閉された可能性が非常に高いのだよ」
巌老人が「貴様の与太話に付き合っている暇はねぇんだ」。言った。
「おや? 巌サンはこの神社の祭りが、何故暴れるのか考えたことはないのか?」
巌老人は正毅を睨み付けた。その様子を受けて、正毅は「荒ぶる心を慰撫するために暴れているんですよ」。言った。「この一事から見ても、国譲り神話なんて、欺瞞に満ち溢れている。そこでは呪詛が行われ、力比べが行わられ、黄泉の国の最高神の位が与えられ、淘汰されたのにちがいなんだよ。アマテラスの子孫は、多くの国津神の怨嗟の上に成り立った政権なのだよ」。正毅はこめかみを指で押さえ「あるいは呪われた」と言った。「そしてオオクニヌシ、ヤエコトシロヌシ、タケミナカタを信仰するのは、即ちアマテラスの子孫への反逆を意味するのだ。お前たちはそれを分かっているのか?」。
日本には怨霊信仰というものがあり、怨霊神と化したものを厚く奉ることによって、その霊は御霊となり国家の繁栄の守護神になってくれると信じられていた。
喜助の動揺はもはや極限に達していた。彼は真っ青な顔で、神経質に震え、口の端に泡を吐いていた。自分が尽力して漕ぎ付けた祭りの席で、このような醜態が巻き起こり、古式はとことん破られ、最悪の雰囲気と化してしまった。ここで神様に強烈な詫びを入れなければ、本気でこの年は村に何かしらの、とんでもない厄災が降りかかるような予感に、背筋が凍った。
喜助は近くにあった一升瓶をおもむろに掴んだ。その一升瓶の中にはまだ酒が六合くらい残っていた。すると喜助は「ああ、神様、これでお許しを!」。喉が破裂するほどに絶叫すると、その一升瓶を口に運び、おもむろに直角に立てて一気に喉に流し込んだ。喜助は一升瓶をすとんと落とした。すると喜助はそのまま白目を剥いて、まさに魂が抜けたかのように後ろに向かって卒倒した。驚いた若衆たちが喜助を一斉に取り囲んだ。そして恐る恐る喜助の顔を覗き込んだ。すると喜助は泡を吐きながら、まるで噴水のように嘔吐していた。彼の股間がじわりと濡れた。喜助は失禁していたのだ。
そこへ外から歓声が沸き起こった。
一人の男衆が、社に飛び込んできた。「神輿がやってきたぞ!」。叫んだ。
巌老人はむくりと起き上がると、「喜助が男を見せたんだ。おめぇら出陣じゃあ」。絶叫した。
めでたいものは 大根種
花が咲きそろうて 実のやれば
俵 重なる
御門の上のうぐいすが これの旦那様
知行 増せ増せと さやずる
八幡の杜に 宿とれば
宵にゃ鐘が鳴る 夜明けにゃ 杜の巣鴉
歌うと彼らは一斉に鬨声をあげ、社を飛び出して行った。
正毅は喜助を見下ろし、鼻を鳴らせると社から静かに出て行った。
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