第20話
正平が家に帰ろうとしたところ、屋台の物陰に隠れるように一人の少年の姿を認めた。少年は何か陰気臭い顔をして、たこ焼きの屋台に影を潜めていた。正平は彼の姿を何となしに目で追っていた。するとたこ焼き屋のオヤジが屋台を離れた隙をついて少年は屋台に飛び込み、でき上がったたこ焼きをかっぱらった。おもむろにたこ焼きのパックを開けると、彼は貪るようにたこ焼きを口に詰め込んだ。正平は彼の顔を見ると、殴られて顔がぱんぱんに膨らんでいるのに気が付いた。恐らく昨日、もしくは今日に殴られたのにちがいないと思われた。
少年は間違いない、魚松のせがれ、雄一だ。
正平は「雄一」と声をかけた。雄一はびくりとして咄嗟に「僕は悪くない!」と叫んだ。正平は「盗みが悪いってんじゃねぇ」。言った。雄一は「正平さん」とつぶやいた。その声からは驚きと安堵のようなものが感じられた。彼らは何度か面識があった。鮮魚商「魚松」は正平が漁師をしていた頃の卸先だったのだ。雄一は正平の顔を忘れようにも、忘れられない。正平は眼帯をいつも巻いていたし、特徴的な顔、あるいは体格をしているので、間違えようがなかった。正平は「腹が減っているのか?」。尋ねてやった。すると雄一は恥ずかしげに頷いた。正平は屋台で売られていた中振りの鯵を二尾買い求めた。そして雄一を家に連れてゆき(玄関はやはり立て付けが悪くがたぴし音を鳴らした)、正平は台所に立つと柳刃包丁を手にして、鯵を一匹はさばいて刺身にし、もう一匹は叩いて茶漬けにして、雄一の前に差し出した。正平は「食え」と無骨に言った。雄一はごくりと生唾を飲み込むと、それらをひどく焦って食い始めた。正平は呆れて「お前、そんなに腹が減っていたのか?」。聞いてやると、雄一は無言のまま目の前の飯にしか興味がないように刺身をつまみ、叩きを白飯に混ぜると、腹に掻き込んだ。やがてそれらを食い終えると雄一は箸を置き「ごちそうさまでした」。何処となくばつが悪そうに言った。正平は朝美に酒を用意させた。そして雄一の前にもコップを置き、「飲め」と言った。
正平は「何で、盗みなんかやったんだ?」。聞いてやった。雄一は少し迷い、酒を口に含むと、「たこ焼き屋のオヤジが憎かったからです」。答えた。正平は鼻を一つ鳴らせると、「オヤジが憎かったから盗んだのか?」と尋ねた。すると雄一は「腹も減っていたからです」と赤面して答えた。ほう? こいつは何日も家出でもしていたのか? 正平は思ったが、口には出さなかった。その代り、「いつからだ? いつから食ってないんだ?」。聞いてやった。すると雄一は「昨日の昼から」とつぶやいた。正平は「一日や二日、食わなくても人間は死にはしない」と言った。松さんが俺に雄一のことを尋ねたのは、この家出のことを言っていやがるな。思った。正平は正直に「松さんがお前のことを、気にかけてたぜ。あんまり親に心配をかけるな」。とても言えた義理ではなかったが口にすると、雄一は「放っておいてください」。眉間に皺を寄せて、非難の色が混ざった声を発した。正平は「松さんとケンカしたな?」。尋ねてやった。雄一は黙って頷いた。松さんは理由もなく人を殴るような男じゃない。正平は理由を尋ねた。
雄一は松さんとケンカした経緯を語り始めた。雄一は酒を飲めるくちだった。
「日本は戦犯を決めて処罰しなければなりません」と雄一は答えた。「あの戦争で多くの日本人がお亡くなりになられました。戦争は国家ぐるみの犯罪行為です。ならば、それに伴う犯人が確実にこの日本の何処かにいるはずなんです。東条英機……、この人の罪は免れないでしょうね。この日本を戦争へと駆り立てた。そんな人間はもっといて、裁きの場に立たせ、そして断罪され、その罪を贖うべきなんです。天文学にも値する多くの日本人が犠牲になられたことは、死をもっても贖えるものではありません。しかしそれでも、それだからこそ戦犯を決めて処罰しなければならないんだ」
「戦争は国益と国益との対立で起こる武力衝突だ」
「しかし」と雄一は声を荒げた。「あの戦争にどんな国益があったというのです? 日本人は食料もなく、深刻に飢えていた。なのに、アジアの各地域にインフラを施して、税金を湯水のように注いだ」
「戦犯を処罰しても、死んだやつらは帰ってこない。それに彼らの魂は戦犯の処罰など、本当に望んでいると思うのか?」
「遺族のためですよ。遺族のやり場のない怒りは今、虚空を彷徨っている。だから具体的であり現実的であり、物質的な、怒りと悲しみをぶつけるに値する、そう人間の顔と表情が必要になるんです。それが即ち戦犯なんです」
「日本人が日本人を憎んでどうする。憎むべきはアメリカだ」
「その通りですよ。しかし戦争には敗れた。日本が正当な弁論を立てても、所詮、アメリカが正しい。勝てば官軍なのですから」
「いずれ価値観は覆るぞ」正平は言った。「いくら戦争の名のもとにだとしても、アメリカによる大量殺戮が行われたのは事実だ。事実は事実として歴史に残る。遠い将来になるかもしれないが、広島と長崎に米国大統領が訪れて、謝罪をする日がくるかもしれない。特殊爆弾の使用は歴史に刻まれる最大の汚点となる。米国民は特殊爆弾の使用を恥じるときがくる。米国民は自分の子どもや孫に、『我々はかつて特殊爆弾を使って日本という国にある二つの都市を消滅させた』と胸を張って言えるだろうか。少なくとも胸を張って言えることじゃないだろう。恥だからだ。人間は恥辱に耐えることができない」
「じゃあ、米国民はどうなるって言うんです? あの戦争で多くの米国民も野垂れ死んだ」
「悼むのは賞賛すべきアメリカ兵ではない。日本人の遺骨を敵地に晒したままにせず、家族の下へ持ち帰った、多くの日本の将官たちだ」
「それは一部です。多くの日本の将兵は今も敵地に残され、無残な最期を見ている。身体にはウジが湧き、獣どもの餌となり、白骨を晒している。美化して茶化さないでください」
「知ったことを」正平は吐き捨てた。「お前に何が分かる?」
「ほら、次は暴力だ!」
「お前のような奸黠(かんかつ)なガキだけが罪を逃れようとするな。お前も戦争を動かす歯車の一つであったことを忘れるんじゃない」
「僕たちは戦争を主導したのではない。使役されたんですよ」
「だから俺たちは全員が戦争の被害者であり、全員が戦争犯罪者なんだ」
「僕たちが……戦犯?」雄一はつぶやいた。「違う、違う、違う、そんな論法は認められませんよ、第一、飛躍し過ぎているし、理に適っていない」
雄一は頭が良かった。もちろん知的感性もあった。
すると正平は雄一の頭にがつんと大きな拳固をくれた。
「目を覚ませ雄一」と正平は言った。「百人殺すも、二百人殺すも、同じ『殺し』だ。しかし百人殺すのと、二百人殺すのは、同じ『犯罪』じゃあない。だけれどどちらの犯人も同じ刑罰である『絞首刑』が適用される。最後に人間のもとに残るのは、結局その命だけだから、それを以て償わなくてはならない。本土決戦が現実のものとなったとき、俺たちは武器を持ち、米兵を殺したかもしれない。つまり戦犯になる可能性は充分にあったんだ。それが戦争に敗れたとたんに、態度を豹変させて、被害者の面(つら)をしやがる。お前は何かの新聞やら雑誌でも読んで、それを受け売りしているだけじゃあないのか? 俺は日本に居場所がなかった。だから満州に行かざるを得なかった。『日本は戦争に負ける』とほざいたからだ。それは知っているな?」
せがれは黙っていた。
「俺は日本に帰ってきて、長崎を見た。長崎、知っているな?」正平は続けた。「戦争は、政治、軍事、外交、調略、諜報、生産力、民間力、色んなものが複雑に何重にも絡まり合った、高度な武力衝突だ。近代の戦争は不幸にも総力戦だ。日本では『国民皆兵』と呼んだ。しかし、そうはならなかった。本当に一瞬の運命の交錯で、日本があそこで敗れずに、戦争が継続されていたら、次々と主要都市に特殊爆弾が落とされ、日本本土は神州日本から、不毛な死の丘へと変貌し、女、子ども、年寄り、全員が火の玉と化すことになっただろう。沖縄での戦闘のようにな。そんな戦闘員たちをゲリラと呼ぶ。遊撃隊のことだ。遊撃隊と民間人の区別は極めて分からない。その結果、アメリカ兵は目に見える沖縄人を全員、……殺し尽くした」
そこまで話すと正平は大きく深呼吸した。
「お前は」と正平はそして続けた。「同じ日本人として悔しくはないか? 理論や、論法や、法律や、善悪の問題じゃない。お前の心で考えろ。魂に尋ねてみろ。同じ日本人の血が流れ、婦女子は無理やり暴行され、防空壕の中を火炎放射器で蒸し焼きにされる。隠れていることを悟られないために、母親が自分の産んだ赤ん坊の首を絞め、泣かないようにして涙ながらに殺してしまう。そして特殊爆弾を使い、日本人は人間としてこの世に残ることすらも許されなかった。俺は長崎を目にしたとき、血涙が流れるかと思った。目を覚ませ雄一。善悪だけが人間の感情じゃない。正義と悪でこの世界は割り切られない。ましてや人間の感情は極めて不条理だ。特に戦争なんてものは、様々な事情が絡まり合って勃発する多面的なものなんだ。戦犯を決めて処罰したところで、日本人の心は慰撫されないんだよ」
日本は1951年、サンフランシスコ講和条約に調印し、同52年に施行されると、独立国として世界の表舞台に復帰することになるが、そこで民間から不当な東京裁判(極東国際軍事裁判)における激しい批判が沸き起こった。GHQは占領政策中に厳しいプレスコードを敷いていた。GHQの不利になる言論、論説のすべては認められなかった。そこで後世の学者は当時の残存されている資料を読み、占領政策中、アメリカに対する批判は起こらなかった、などと勘違いしてしまうという滑稽すら起こるようになった。独立国に復帰し言論の自由を得たマスコミ、あるいは良識ある民間人は、まずラダ・ビノート・パール判事が「東京裁判の影響は原爆の被害よりも甚大である」と嘆いた、その東京裁判の判決を不当とし、戦犯と断罪された人々の名誉回復を求める声が世論を席巻したのである。それは署名運動となり、四千万もの署名が集まったという。日本の人口は八千万人ほどであった。この署名運動の凄まじさが理解できるだろう。そしてそれは日本にはまだ四千万人の戦犯を不服とする良識が残されていたことを意味する。後世の日本内外を問わない法学者は誰もが、東京裁判は誤審であったとしているのが世界の常識なのだ。日本人はまずその「誤審」を覆すために立ち上がった。署名運動は政府を動かし、1953年八月三日の衆院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致を以て採択され、国内法のもとでは戦犯を犯罪者と見做さないという基準が打ち出され、A・B・C級戦犯とされた人々は1958年五月三十日までに全員が釈放された。
署名運動に名を連ねなかった四千万人とは、戦争の真実を知らない若者(彼らが習った教科書はGHQ指導のもと、墨塗りされ、戦争の矛盾をまざまざと体感した世代だ)や、台頭する共産勢力に迎合する人々や、反日家の知識人たちであった。
「雄一」と正平は澄んだ声で言った。優しさみたいなものが滲み出ていた。「俺たちはお前たちよりも先に死んでしまう。後はお前たちの世代にこの国の将来を任せるしかない。どうか、義(ただ)しい方向へ導いてくれ」
雄一は何かを分かったような気持になった。それはとても大切なものだった。まだ頭の中がぐちゃぐちゃしていて、整理を付けることはできなかったものの(正平の拳骨は鉛のように重かった)、雄一は知性の盲目から目覚めようとしていた。
正平は「松さんにはちゃんと謝れ、何があっても謝れ」。言った。しかし雄一は「なんであんなやつに」。吐き捨てた。正平は「松さんは苦しい中でお前を中学にまで出してやったんだ。それを『あんなやつ』なんて言うものじゃねぇ」と言った。続けて「もしも謝っても松さんがヘソを曲げているようなら、俺に言いにこい。俺が松さんを殴ってやるからよう。俺はヘソを曲げて意地を貫くよりも、潔く謝る勇気の方が大切だと思うぜ」。微笑して付け足すように正平は言った。
朝美は、正平さんも何処か変わったのね。思いながら話を聴き取っていた。
このときの正平と雄一の会話は、雄一の生涯を大きく変えることになった。雄一は四年間、魚屋で働き金を貯蓄し、その後、新潟市の大学に進学した。大学を卒業すると、雄一は地元に戻り新制中学の歴史教師となった。そこで教科書に刷り込まれている歴史観に雄一は愕然とした。日本がアジアを植民地体制から解放し、インフラを施し、近代化に一役買ったことが、すっかり掻き消され、侵略したことになっていた。南京大虐殺の内容など、本当にひどいものだった。日本人は二十万人を超える中国人を虐殺したとされていた。嘘だ! 雄一は嘆いた。それだけの人間を殺したのなら、その死体処理はどうしていたと言うのだ。広大な死体の埋立て地があったという痕跡もなければ、死体焼却施設があったという跡地もない。肝心な戸籍も中国人はろくに持っていなかった。歴史はすっかり歪曲され、教科書自体が、自虐史観のバイブルのようになっていることに雄一は驚いた。雄一は同じ歴史を受け持つ先輩教師に「こんな偏狭的な視点で描かれた、でたらめな歴史観を子どもたちに教えてもいいのでしょうか?」と尋ねた。すると先輩教師は「松沢先生、歴史は過去にあったことじゃなくて、現在、作られているものなのだよ」と言った。雄一はくそったれ! こいつは歴史教師の風上にも置けないやつだ! 思い、しかし口には出さず言葉を呑み、怒りに打ち震えた。彼は歴史のクラスを受け持つと、その教え子たちには、教育勅語を読ませ、彼らの知的感性に訴えた。マッカーサー発言が公になると、必ずその内容と真意と東京裁判の不当性を彼らに講義した。自虐史観にしても一貫して否定的な立場を取り、学校側は彼の教育方針に是正勧告まで出したが、雄一は頑なに愛国心を説いた。
雄一は教師になってからも、「後はお前たちの世代にこの国の将来を任せるしかない。どうか、義(ただ)しい方向へ導いてくれ」という正平の言葉を忘れることができなかった。そして「日本人は皆、被害者であり、戦犯である」ことも。
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