第19話
正平はその後、港へ向かった。自分の船を確認するためである。港には大漁旗やら、日章旗が掲げてある、華美な船がずらりと並んでいた。本日の午前中には豊漁祭が行われていたからだ。港には卸売市場が構えられていて、そこが本日の豊漁祭の宴会場となっていた。宴会場では五十人近くの漁師たちがどんちゃん騒ぎをしていた。海はたそがれの太陽を飲み込もうとしていて、強烈な橙に染まっていた。波の満ち引きがいちいち揺れた。正平は宴会場を挨拶も何もなく無視してやり過ごし、港に停泊する自分の船「輪宝丸」を探した。船は港の端に侘しくロープでつながれていた。船は波の満ち引きに合わせて上下に揺れていた。正平は自分の船まで小走りで駆け寄ると、船にひょいと飛び乗った。機関室を覗いてみる。蒸気機関だ。さすが巌老人が管理していただけあって、今すぐにでも遠洋航海にも耐えられるだろう。船は通常、二、三ヶ月もすれば、船底に牡蠣殻(貝殻)が付着して、船の運航能力に支障をきたすようになるのだが、それも全く見受けられなかった。正平はこのときばかりは、巌老人に心底から感謝を捧げた。
夕日が船と正平のシルエットを一体にして鮮やかに映し出していた。朝美はそれを見上げる。強烈に眩しかった。何故だか分からない、何故だかは分からないけれども、朝美は微笑が漏れていた。「朝美」と正平は言った。「俺は海に帰ってきたぞ」。朝美は「おかえりなさい」とすっかり言ってしまった。それは正平の胸の深いところまですっと届くような淀みのない声だった。正平は「待たせたな」と言って、遥か沖の方角を見つめた。
すると立ち小便をしに海まで出てきた男が正平の姿を認めた。
「おい、お前!」と男は言った。「正平じゃないか。坂内正平じゃないか!」
正平は「ああ」と一言し、朝美を連れて港から帰ろうとした。男は焦って小便を早く済ませると、「お前、満州だろう? どうしてこんなところに?」とズボンのジッパーを慌てて上げながら言った。正平は「さぁね、行くぞ、朝美」と言って帰路に就こうとした。ところが男が「お前も一杯、飲んで行けよ」と親しげに言って、正平を呼び止めた。しかし正平は「いや、俺はいい。これから寄るところもあるしな」と足を止めずに、不愛想に言った。男は「相変わらずつれないな」とぼやいた。男はあくせくと正平の後ろに付きまとい、「お前、漁協長には感謝すれよ。片手間でできる仕事じゃねぇんだ」。言ったが、正平はそのまま足を止めずに「じゃあな」。言うと港を後にした。
正平は港から出ると、大久保遼介の家に寄るという。遼介は正平が留守の間、朝美の後見人のような立場に立たされていた。随分と世話になった人物だ。正平と遼介は国民学校が同じだったという以外、一切つながりがなかった。しかし彼らは昔から馬が合い、ほとんど親友だった。遼介は昔から頭が切れたし、正平は喧嘩にめっぽう強かった。そんな二人はまず学校中のやさくれた者を惹き付けた。もちろん年頃の女からもモテた。
遼介が悪戯を企画立案し、正平はそれを実行に移していた。遼介の考える悪戯の数々は正平の胸にときめくものばかりだった。
ある日、自分たちで作った弓矢と槍を携えて、遠く村の郊外にある山に分け入って、狩りの真似事をした。そこで正平はうり坊を仕留め、それを皆で猪鍋にして食べた。素晴らしく美味だった。味をしめた正平たちは、それからも何度か山に分け入っていた。ところがその日(秋晴れのした日だった)、山に分け入ると大きな熊に遭遇してしまった。正平は「おいクマ公!」とぶるぶる震える指で、熊をずばり指さした。遼介は「アホ! 呼ぶな! ばか、食われるぞ」。叫んだ。熊は極めて鈍感に正平の方を振り返った。すると正平は「俺さまが退治してやる! 観念しろ」。稲妻のように叫んだが、ほとんどちびっていた。周りにいた子どもたちも例外なくちびっていて、正平の襟首腕を掴まえると、全速力で逃げた。こうして命辛々村に帰還を果たした正平は、「あのクマ公、命拾いしやがった」と言い放った。
また佐渡まで遠泳して誰が一番、根性があるのか競うことになった。そんなとき、サメに襲われないために、自分の背丈の三倍くらいはあるふんどしを腰に巻き付けて泳ぐ。ところがこれが足に絡まってまことに泳ぎ難い。果たして彼らは溺れた。救命班という少年たち(遼介と二、三人いた)が港にあるうらびれたボートをかっぱらって、正平たちの後を追っていた。一人、また一人と脱落者が出る中で、正平は「漁師のせがれが溺れていたんじゃ洒落にならねぇな」。強がって佐渡を目指していた。しかしいよいよ正平にも疲れが見え始めて、ふんどしが足に絡まるというアクシデントが発生した。正平はようやく溺れた。遼介は溺れている正平を見て、笑い転げた。正平の死に物狂いの顔が可笑しくて堪らなかったのである。あるいは人間は死に物狂いのときに、とんでもない滑稽を生み出すことがあるのだ。正平はボートで救われると、「危うく溺れるところだったぜ」。粋がった。溺れたではないか。
正平は村の荒くれ者どもを集めてその頂点に君臨した。村の郊外にある廃屋が彼らの駐屯地だった。「今度は大人を相手に戦争だ!」。言い始めたのは正平少年だった。その相手に選ばれたのは村の交番に常駐している河田(かわだ)重治(しげはる)巡査だった。当時の警察は国家権力であり、「怖い警察」としての一面を持っていた。遼介は廃屋の床を剥がし、子どもたちに落とし穴を掘らせた。そこにはまると、上から石が落ちてくるという大かかりな仕かけまで考えた。しかし正平はそれだけに飽き足らずに、そこに肥溜めから汲んできた糞尿を敷き詰めるという下(げ)衆(す)なアイディアに夢中になった。その日は正平が交番に行くと、河田重治巡査がのんびりと一人でお茶を喫していた。何気ない昼時だった。正平はまたもや下衆なことをして、河田重治巡査を激昂させることに成功した。そして河田重治巡査は、村の郊外にある基地に誘き寄せられ、そこで落とし穴に見事にはまった。正平たちは文字通り、地に落ちた国家権力を見て笑い転げたが、河田重治巡査はこのときの子どもたちの嘲笑を思い出すと、腸(はらわた)が煮えくり返るほどの怒りに捉われた。正平はその後、親と共に交番に呼び出され、こってり灸を据えられたというが、意に介するような素振りは見せなかった。
この頃から、河田重治巡査は正平のことを目の敵にするようになった。「あいつはロクな大人にならんよ」。言っていた。不意に癇癪玉を炸裂させることが多くなったのもこの頃からである。河田重治巡査は、現在、村の交番で巡査部長の閑職に就いていた。正平が徴兵から漏れ、満州に行くことになったとき河田重治巡査部長は「ざまぁみやがれ、これで我が村も平穏になる」。言ったが、その眼は何処となく淋しそうだった。
正平と遼介の友情は、国民学校を卒業した後も途切れることなく続いた。遼介は村の中学校に進学し、そこを卒業すると、東京の大学に進学することになった。正平はその間、家の漁師の仕事を手伝いながらも、陸軍の士官学校に入校するために、勉強にも勤しんでいた。しかし彼が士官学校に入校できなかったことを我々は知っている。
遼介は東京から帰ると、再び正平との腐れ縁を始めた。遼介はすぐに理子と結婚することになったが、理子の知り合いというのが、旧姓「柿崎」朝美だった。理子と朝美は女学校時代の友人であった。そこで遼介が正平を朝美に紹介して、理子は朝美を正平に紹介し、結婚する運びとなった。やがて正平の非国民扱いが激しくなると、遼介は正平に「満蒙開拓団」の情報を提供した。遼介は「日本が勝てば、お前はこの日本にいる場所はない、日本が負ければ、お前は日本に帰ってこられる」。言った。遼介の言葉通り、日本は敗戦し、正平は日本の土を再び踏むことになった。
正平は人混みで溢れる諏訪町を下り、大久保遼介の家に向かった。正平は後ろ指を指された。「坂内正平だ」。「正平さんだ」。正平に声をかけるような勇気ある者はいなかったが、正平の帰還は村に衝撃をもたらせた。
諏訪様の杜の麓に遼介の大久保家は構えられている。門を入り、庭園を歩き、住宅の玄関で「ごめんください」。正平は言った。トヨがまず応接してくれた。トヨは「あら? 正平さん?」と鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。正平は「おばさん、ご無沙汰しております」。言った。
その声を聞き付けて、部屋の奥から遼介も姿を現せた。遼介は朝から祭りの頭屋に駆り出されていたが、トヨの言伝を預かり、ちょうど帰宅していた。遼介は「正平!」と叫んだ。「お前、いつ帰ってきたんだ?」。遼介は尋ねた。正平は「さっきさ」と答えた。正平と朝美はすぐに茶の間に通された。トヨが気を利かせて酒を用意した。正平は酒を飲みながら自分が帰ってきた経緯をすっかり話した。日本の酒は水みたいなものだな。正平はドブのような味がするウォッカと比べた。「清酒」という言葉が生まれた背景に正平は妙に納得してしまった。正平は語っている間に、三合くらい酒をご馳走になった。
「それで、満州から脱出してきたのか?」遼介は高笑いした。
正平は「満蒙開拓団だった日本人はシベリアに送られると聞いている」と言った。
ソ連は日本の将校を「合法的」に捕虜とし、シベリアへ抑留したと主張した。シベリアでの強制労働は過酷を極め、近代史では最もひどい奴隷的な扱いを日本人は受けた。その過酷な労働の中で、犠牲者は四万人を超える夥しいものとなった。帰国事業が始まったとき、日本人の身柄が日本政府に伝えられ、その数は四十七万人を数えた。その約8%が没したシベリア抑留がどれだけ過酷なものだったのか窺い知れる。後年になってロシア大統領エリツィンはこのときのシベリア抑留に謝罪の意を表している。
正平が「あの戦争は、近現代史に刻まれる最大の汚点になった。特に米国の犯した罪は重い。歴史に永久に刻まれる」と言った。遼介は「特殊爆弾のことか?」と言った。続けて「しかし連合国軍は馬鹿じゃあない。産業がほとんどない日本を植民地化したところで、何の意味もないのさ」。連合国軍としては日本を穏便な形で占領し、牙を完全に抜こうとしている。もしも植民地化し、独立戦争でも仕かけられたら、困るのはむしろ連合国軍の方だった。
「日本は立ち上がるだけさ」と遼介は言った。「江戸の何もないところから、近代史を作り上げた歴史が日本にはある。それと同じさ。何もないところから今度は現代史を作るんだ。日本人はやり遂げるよ」
「俺が」と正平が口を開いた。「満州で経験したのは、日本人はゴキブリ並みにしぶといということだよ。何があっても生き延びて、次から次へと繁殖する」
遼介はちらと時計に目を留めた。時間は夕方の六時半を示していた。そろそろ休憩も終わりにして、祭りの頭屋に顔を出さなければならなかった。もう少しで神輿はこの諏訪町に姿を現せ、猛烈な勢いで暴れ狂うのである。
「今年の祭りは人手不足なんだ」遼介が言った。
正平は分かっていると言ったように頷いた。
「お前が祭りに参加してくれるなら、こちらとしてもありがたいんだが」
遼介は言ったが、正平は苦笑で返して、首を横に振った。
「悪いがそろそろ祭りに行かなければならん」と遼介は言った。
「悪いな、酒までご馳走になってしまって」
遼介は「ほう、お前も人並みな礼儀を身に着けたんだな」。襖の把手に手をかけて言った。すると正平は「祭りと言えば、巌のクソじじぃは達者か?」。尋ねた。「ああ」と遼介は答えた。「漁協長はいつもご機嫌さ」。言った。
正平と朝美も遼介と共に大久保家を出た。遼介は御鎮守様の杜へと向かったが、坂内宅があるのは、同じ諏訪町でも逆方向だ。
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