第18話

 正平が諏訪町にある自分の家(朝美の家)に、帰ってきたのは午後の二時頃だった。ちなみに本日は日下診療所が祭りのために休診日になっていた。入院患者も一人いたが、外泊を許可され、今頃、祭りを楽しんでいるだろう。この正平の家は昭和十六年に新築された家で、正平が朝美と所帯を持ったときに建てられたものだった。家は諏訪町の外れに構えられていた。正平の本家は新宮町というところに構えられており、新宮町とは江戸末期に蛭子神の分霊を招いて祀っていた。諏訪様を戴く諏訪町からは四町内ほど隔てたところにあり、新山喜助村長も、この新宮町に住んでいる。正平はそこから分家を建てたことになる。

 正平は玄関のドアを思い切り開いた。立て付けが多少悪かった玄関はガタピシと音を立てた。朝美は〈お客さんかしら〉。思い、廊下を歩き、玄関に出た。すると記憶に焼き付いて離れない大男の後ろ姿がそこにはあった。正平は玄関に腰を下ろし、「帰ったぞ、朝美。返事もしないで何をしてるんだ?」。靴を脱ぎながら言った。朝美は「はい!」。上ずった声で叫んでしまった。「お帰りなさいませ、旦那様」。言った。あまりもの唐突なでき事に、朝美は思考が追い付かなかった。結果として、朝美は女中をしていたときの癖で、声に出したのはあまりに間抜けな「お帰りなさいませ、旦那様」。だった。

 こうして夫婦は三年の歳月を経て再会を果たした。まず視覚から衝撃が走った。正平はほとんど乞食と見紛うほどの汚らしいタンクトップを着て、首にタオルを巻いていた。作業用のズボンを穿き、ブーツだけは革の立派なものだった。正平は玄関でそのブーツを脱ぎ捨てると、朝美を前にした。正平の顔は痩せこけていて、記憶の正平とどうも一致しなかった。

その後に強烈な匂いを覚えた。どうやら正平から漂ってきているらしい。鯨油のようなこってりとした魚の生臭い匂いと、男の匂いとが、混然として朝美の鼻を突いた。朝美は思わず「う」と言って、しかめ面をした。朝美のその表情に気付いた正平は、「朝美、風呂を沸かせてくれないか。もう何日も風呂に入っていないんだ」。苦笑して言った。その声が余りにも懐かしく、底響き、男らしく、悪びれた様子もなく、朝美は涙が流れそうになった。

 正平が風呂に入っている間に、朝美は正平の着ていた服をつまむと(それは触るのも憚られるほどのボロだった)、生ごみでも扱うように処分した。それから正平の着替えには国民服を用意した。

 服を処分してしまうと、朝美は恐ろしいほどの焦燥感に見舞われた。敗戦からわずか二週間ほどでまさか正平が戻ってくるなんてことは、朝美も「彼」も予想していなかった。朝美は狼狽を極めた。すぐに服をお腹周りのゆったりとした洋服に着替え、ブラウスを着て、お腹が少しでも膨らんでいることを隠そうとした。正平の座る位置と、自分の座る位置を確認し、どの角度で座れば座卓の影になって、お腹が見えないようになるのかを計算した。漬物(よし乃婆からお裾分けしてもらった漬物だった)とお茶を用意しようとしたが、朝美は手元が狂って正平の湯飲み茶わんを割ってしまった。朝美は自分が置かれている立場に愕然としていた。もうダメだわ。私の短い人生。もう終わり。朝美は覚悟をさえ決めた。

 やがて正平が風呂から上がった。しゃぼんのいい匂いがした。正平は居間で朝美の計算した座席に腰を落ち着けた。正平は「すっかり女の匂いになってしまったなぁ」と嘆息し、言った。朝美は首を傾げ、「何が?」。尋ねた。正平は「家の匂いさ。女の匂いしかしないんだよ」。答えた。すると正平は唯一の持ち物であった、麻袋をおもむろに開いた。その中から真珠のヘアピンと、螺鈿(らでん)の簪(かんざし)を取り出した。それを朝美に押し付けるように渡すと、正平は少しはにかみ「ちょっと飾ってみてくれないか?」。言った。朝美は洋服を着ていたので、真珠のヘアピンで髪を留めた。正平は「良かった、似合っているぞ、朝美」と言って笑った。朝美の胸はずきんと痛んだ。正平の荷物は他に着替え(もちろんボロだった)と、ほとんど飲み干されたウォッカの小瓶と、満州での日々を認(したた)めた日記しかなかった。まさに身一つで帰ってきたような有り様だった。

 正平は茶を一口すすると「酒はないのか?」と朝美に尋ねた。朝美は「ええ、お酒は用意しております」。言った。諏訪町の住人ならば、祭りのときに酒を用意しておくのは常識だった。若衆が訪れたら、それを飲んで精を出してもらうのだった。朝美は徳利と猪口を用意した。彼女は「熱燗がいいですか? お冷のままでいいですか?」。尋ねると、正平は「冷でいい」と言う。正平は漬物を肴に飲み始めた。彼は「この漬物、うまいな」。言った。朝美は「よし乃さんからお裾分けしてもらったものなのよ」と言った。すると正平は口汚く「あの婆さん、まだ生きているのか?」。怪訝な顔をした。朝美は表情を曇らせ、「ご健勝にお過ごしなさっていらっしゃいますわ」と答えた。

 正平は一頻り酒を飲むと(三合くらいは飲んだ)、日下診療所へ挨拶しに行こうと言った。朝美は天の助けを予感したのであった。正平は元から口数が多い方ではないが、いつになく口数が多かった。自分がどうやって満州から帰ってきたのか、この三年間に起こったことなどを話した。

「朝美は明日からまた仕事だろう?」正平は尋ねた。

 朝美が「ええ」と言うと、「俺はしばらく大人しくして、それから漁に出ようと思っている」。言った。「俺の輪宝丸は巌の爺さんが管理してくれていたんだろう?」。正平に問われたので、朝美は再び「ええ」と言った。「あのクソじじぃに借りを作ったのは癪だが、今は、ときがときだ。仕方がねぇ。診療所の次には爺さんの家に行くぞ」。決めてしまった。朝美は「本家には寄らなくてもいいのですか?」。尋ねると、「俺があの兄貴と語り合う言葉は何もない」と正平は不機嫌そうに一言怒鳴った。正平の兄である坂内盛寛は、正平が徴兵に漏れたとき、激しく彼を非難した。「非国民だ」と。正平の生きている価値ですらも否定した。もちろん日本に不要の「クズ」呼ばわりした。本来ならば正平の船である「輪宝丸」は正平不在の間、盛寛が管理するべきだった(盛寛も漁師だった)。しかし盛寛はそれを放棄し、見兼ねた巌老人が「輪宝丸」の管理をしてくれた。巌と正平は極めて仲が悪かったが、それでも巌老人は正平が日本に帰ってくることを信じたし、ことあるごとに正平の船を気にしていた。朝美が正平の子を出産し、その子が亡くなったときも、盛寛は葬式に参列しただけで、結局、何もすることはなかった。本家の代表である彼は本来ならば親戚をまとめあげるのが筋だっただろう。しかし実際には、その役目を大久保遼介がすべて仕切り、亭主役まで勤めてくれた。正平は盛寛のことをやはり長兄だし、彼の顔を立てるように努めたが、盛寛の方が正平をとことん嫌った。この辺は人間の極めて人間らしい、感情の問題なので、一朝一夕のうちに関係を改善させる術はなかった。むしろ悪化の一途を辿り、正平ももはや盛寛と口を利くのすら避けるようになった。

 正平は子どもの頃から利発で、大胆で、勇気もあり、喧嘩にはめっぽう強かった。それに比べると兄の盛寛は決してできが悪いわけではないのだが、弟と比べられると見劣りがした。その弟に対してのコンプレックスが彼の性格を歪めた。盛寛は町内に住んでいた幼馴染の恵子という女性に心を惹かれていた。しかし恵子の選んだ男性は盛寛ではなく、正平の方だった(ちなみに盛寛と正平は年子だった)。この「女」に、言うなれば白黒の優劣をはっきり付けられ、それに敗北した盛寛は、一層、激しい劣等感の塊となり、これが決定的な決裂を産んだ。もっとも正平は恵子という女性と結婚したのではなく、朝美と結婚したのは我々も知っている。

正平の坂内家は代々漁業を生業としていた。この村の「坂内」と名の付く家のほとんどが盛寛の坂内家を大本家としていた(もっともそれほど多くはない)。由緒正しい家柄ではなかったものの、菩提寺になっている正泉寺という寺には坂内家の家系図があり、古い記録によれば、江戸時代末期くらいからの家系図が脈々と記されていた。

日下家に着くと、幸作と茶子は不在にしていたが、理子と良太郎が留守宅を預かっていた。その五分もしないうちに、幸作と茶子が帰宅し、物語の舞台は、日下家へと戻る。



 正平は幸作や良太郎に自分が新潟に帰ってきた経緯を述べると、一呼吸置いた。時間を確認すると五時を回っていた。正平が「今日はお邪魔になりました」と丁寧に頭を下げた。そしてのっそりと立ち上がると玄関へ向かって歩いた。すると良太郎が「君は今後、何をするのだね」。尋ねた。「漁師をします。それに朝美を……」。正平は口を濁しはにかんだ。良太郎は目尻を細くし、「困ったことがあったら何でも遠慮なく言ってくれて構わんのだよ」。言った。正平は玄関を出るとき、「ありがとうございます」と再び頭を下げた。

 正平は俄囃子の聞こえる方へと歩いた。やがて人垣(五十人くらいいた)が見え、その中心に極めて派手な俄があり、曲に合わせて芸者が舞っていた。はぁあ、どっこいしょう、どっこいしょう! 正平もしばらくその芸者の姿に魅入っていた。曲が終わるのを待ち、正平は朝美の姿を探した。朝美を見つけた頃には次の曲が始まろうとしていた。正平は朝美の隣りに立ち、次の曲も聴いた。それが終わると、俄の親方が、「ご町内の皆さま、楽しんでいただけたでしょうか?」。言って、俄囃子と太鼓の音を響かせ、男衆たちが俄を引っ張り始めた。正平は朝美に「これから巌じじぃの家へ向かうぞ」。声をかけた。朝美は理子と茶子に「失礼いたしますわ」。言って、正平と一緒に、巌老人の家がある四宮町(田中町の隣り町内である)に向かった。

正平はその途上、村の鮮魚商である魚松(松さんが経営している店だ)へ行った。松さんはすこぶる機嫌が悪かった。しかし正平の姿を認めると、「おい、お前、正平じゃねぇか」と言って、驚きに目を見開かせた。「お前、いつ帰ってきたんだよ?」松さんが尋ねたが、正平は「さぁね」と言って肩透かしを食らわせた。そんな正平の様子に松さんは懐かしそうに目を細めた。

「ところで松さん」と正平が言った。「何か変わった魚、入荷してないかい?」

「それならこいつはどうだ」

 松さんは丸々と太ったコブダイを指して言った。

「ほう、こいつは珍しいな」正平は身を乗り出した。

「そりゃあお前、ぷりぷりしていてうまいぞ」

「いくらだい?」

「ちょいと値が張るが、俺とお前の仲だ、おまけしといてやるよ」

「ところで、正平」と松さんは続けて言った。「うちのバカせがれを見かけてないか?」

「見かけてないな。雄一がどうかしたのかい?」

「いや、知らないならいいぜ」

 正平は魚松でコブダイを買い求めた。漁師の家に魚を持って行くのには多少の抵抗を感じたが、このコブダイならば巌老人も呻るにちがいない。正平は松さんに木箱の中に氷を張って、そこにコブダイを詰めて包装してもらった。

 巌老人の家へ着くと、玄関先で「ごめんください」。正平が言った。すると巌老人の奥方が留守宅を預かっていた。巌老人は祭りなので当然、家を空けていた。今頃、諏訪様で飲めや、唄えやの、どんちゃん騒ぎの真最中だろう。これは正平には好都合だった。もしも巌老人と顔を合わせるなら、否が応でも罵り合いが始まりそうな予感がしていたのだから。奥方は正平に家の中へ入ることを勧めたが、正平は「玄関先で失礼かとは存じますが、私が満州に滞在期間中、船を巌サンが管理してくれていたと聞き及びました、感謝しても感謝しきれません。ここにコブダイを持って参りました。是非とも巌サンの酒の肴にでもしてもらえたら幸いです」。丁重に頭を下げて、朝美に持たせていた、コブダイを差し出した。

「まぁ、気を遣わせちゃってごめんなさいね」巌老人の奥方は言った。「こんな珍しい魚、よく見付けられましたね。これから三枚に卸して、お刺身にでもしようかしら。正平さんも家へ上がって食べて行ってくださいな」

 正平は「申し訳ないですが」と言って遠慮した。「これからまだ寄るところもあるので、本日はこれにて失礼いたします」。

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