第17話 第四章 坂内正平

 幸作と茶子がよし乃婆の家を辞したのは午後の四時を大きく回っていた。晩夏の日差しは衰えを見せていた。まだ蒸し暑かったが、秋の風が何処かから届いた。海の臭いも漂っていた。本日は漁に出る船もなく、日本海はなだらかな水平線を描いていた。相変わらず、村のいたるところで祭り囃子が聞こえてきた。

自宅に帰ると、玄関に二組の靴が並べられていた。客が来ているらしいことを悟った。玄関から入り短い廊下を進むと、居間がある。日下宅の居間は田舎間で八畳の広さだった。そこに大男があぐらをかき、隣りに肉付きの良い女が正座していた。

「ちょうど良かった」と良太郎が言った。「坂内くんの旦那さんがつい先刻、満州から戻られたそうだ。我が家にも寄ってくれたのだよ」

 大男はなるほど正平だった。朝美はその隣りで遠慮するみたいに正座していた。

 理子がちょうど茶を運んできた。理子は素晴らしき大久保家から脱走して、日下宅まで逃げ帰っていた。見たところ正平も朝美もつい先ほど、日下宅に足を運んだようだった。正平は左目に取り換えられたばかりの真っ白な眼帯をしていた。無精髭が生え揃い、黒光りするほど日焼けしていたが、目と歯が真っ白だった。彼は国民服を着用していた。

 幸作が「正平さん、無事でいらしたんですね!」。叫んだ。正平は「若先生こそ無事で何よりだ」と言って無骨に笑った。幸作が「でも、どうやって日本に?」。尋ねた。

「ソ連が満州国の国境を侵したと知ったのは、八月十日の真っ昼間だった」正平は言った。

 ソ連は日本と結んでいた日ソ中立条約を出し抜けに無視して、第二次世界大戦への参戦、満州への侵攻を開始したのは八月九日未明だった。実際に対日参戦したのは八月に入ってからだったが、去る六ヶ月前の二月にルーズベルト、チャーチル、スターリンはヤルタにおいて会談の席を設け、ソ連は対日参戦の秘密協定を結んでいる。ソ連が八月を待ったのは、恐らくアメリカの原爆開発の成功を待ったのだと思われる。

 正平は「報せを聞いた後、俺はすぐに満州を脱出して、朝鮮へ行った」と語った。当時の朝鮮は日韓併合によって日本領となっており、正平は外蒙古に出るよりは、迂回してでも朝鮮へ身を隠した方が安全だと思ったのである。正平は朝鮮において漁船をかっぱらった。港に停泊している漁船の中でも、古く、値打ちがないようなボロ船を選び、なおかつ日本までの操舵が可能な船を選りすぐって、かっぱらった。正平は「満州国の圓(えん)なんて紙屑も同然さ。俺たちは紙屑を稼ぐために炭鉱であくせく穴を掘っていたのさ。バカらしいだろう」。肩を竦めた。

 それから正平が長崎の平戸まで、ボロ舟に乗って帰ってきたのは八月十五日の午前中のことであった。奇しくも正平は日本が滅びた、その日に帰還を果たしたのである。そのボロ舟で新潟の直(なお)江津(えつ)まで航海しようと思っていたが、船は長崎にやっと辿り着いたと同時に海の藻屑と化した。八月十五日正午、玉音放送が流れ、正平もそれを港で聞いた。正平はぶるぶる震え、怒りを露わにした。あれだけ多くの日本人の犠牲が敗戦によって報われなくなってしまったのである。正平は大東亜戦争の狼煙が上がった瞬間から、一貫して日本の勝ち目なしを、宣言していた。パールハーバー作戦が1941年十二月八日(ハルノートが突き付けられたのは同年、十一月二十六日のことである。パールハーバー攻撃はまさに電撃作戦だった)に成功したとの報を聞かされた国民たちは、やはり日本国は最強の国家であり、誰もが戦勝を確信へと変えた。当然、正平は異端者として激しく排斥され、ついに満州に赴くことになった。日本は言霊の国であるとした説を唱える識者がいる。言霊とは言ったことが現実に呼応し、言葉通りの結果を招き寄せるという宗教的、あるいは呪術的な信仰に近いものである。なので、言霊信仰が脈々と息衝いている日本では間違っても、「敗戦」、あるいは、「勝ち目なし」、「負けを取る」などと口に(言葉に)してはならなかった。そこで当時の日本において、言葉狩りがされた。日本国内から英語が締め出されたのである。例えば野球のホームランを「本塁打」と呼び、投手、捕手、内野手、外野手……と日本語が振られた。煙草も「チェリー」が「桜(櫻)」に、「ゴールデンバット」が「金鵄(きんし)」などと日本語が振り当てられた。そんな中で、「日本は負ける」と憚らずに発言した、正平の神経の図太さは窺い知れるであろう。

 後に平成の世になり「憲法九条では国民及び国家は守れない」、「超法規的手段を取らざるを得ない」と発言した、防衛相大臣が更迭された。言霊の国とはそういうところなのだ。

 正平は長崎に辿り着いてから、恐ろしい好奇心に駆られた。正平は原爆が炸裂した長崎市街を見てみたいという強烈な願望に捉われた。長崎本線という鉄道が長崎市まで伸びていたが、鉄道は長崎市の手前で封鎖されていた。正平はそこでも混乱を装いつつ、無銭乗車をし、それから自転車をかっぱらい、長崎市街を目指した。異様な雰囲気は、市街地に近付けば近付くほどにその異様さを増していった。まず何処が市街の中心部なのか分からなかった。建物という建物が吹き飛んで、まるで荒涼とした風の吹き抜ける砂漠みたいだった。目を瞠ったのは河川敷での惨状だった。三川川、大井田川、中島川、何処の河川も死体が折り重なるように、朽ち果て、河原、あるいは川中に放置されていた。その死体の山は夥(おびただ)しく、人間の腐敗によって川の水も腐るという有り様だった。正平はそこら中から聞こえる怨嗟と呻き声の中をさまよった。身体が焼けただれた人々の群れを見た。まだ嫁入り前の生娘(きむすめ)が、見るもおぞましき形相に変貌していた。肉が吹き飛んで骨が見えている人々も嫌というほど見た。あるいは原爆の閃光を浴びて、目玉が溶けてしまい、目のあったところが空洞化している人々も嫌というほど見た。皮膚が瘢痕拘(はんこんこう)縮(しゅく)を起こし、どろりと身体からぶら下がり、それを引きずって歩く人々も決して珍しい光景ではなかった。

「では、正平さんは長崎を見てきたんですか?」幸作が尋ねた。「口に出すのも憚れる惨状だと言うのに、広島と長崎の風説は頻りとこちらまで届いています」

「特殊爆弾にやられるとな、人間は人間ではなくなる。人間に近いものになる」

「そんな言い方をなさると、被爆者の方々には気の毒ですわ」茶子が言った。

「本当のことを言ってるんだ」と正平は真面目に答えた。「そんな残酷な側面を歴史の闇に葬り、歴史を歪曲する方が、よほど広島県民と長崎県民に失礼じゃないのか? 事実は事実としてときに冷厳に振り返ることが大切なんだ。もう特殊爆弾は使用してはならないという、教訓が詰まった都市として、子々孫々(ししそんそん)に至るまで語り継がれるべき事件じゃないのか?」

「俺は日本が負ければいいと考えていた」正平は続けて語り始めた。「日本が負ければ、俺は日本に帰ってこれるとばかり考えていた。そうしてこの三年間もの間、憎しみに心を炙りながら過ごしてきた。不幸な日々だったよ。人を――国を信じないで何を信じる? 日本は確かに不幸だった。しかし人を――国を信じられず、ひたすら憎悪に駆られ続けた三年間もの俺の心はもっと不幸だった」

 正平はそこまで話すと思わし気な顔をした。

 すると開け放たれた窓の隙間から、俄囃子が忍び込んできた。理子が「茶子さんと、朝美さん、一緒に俄を見物に行きましょうよ。男性のお話は暇ですもの」。誘った。どうやら町内に俄が訪れたようだった。笛と太鼓の陽気な音色が踊り込んでくる。「――ご町内の皆さまお待たせいたしました――」と俄の親方らしき人の声が聞こえた。彼女たちは頷き、家を出て行った。茶子は「失礼しますわ」と言った。「今年の芸者さんは誰がきているのかしら?」。理子の声が聞こえてくる。

理子たちが誘い合わせて家から出ると、正平は「だからと言って、俺は米国を赦すことはできない」。続けた。「戦争という名の影に隠れた、無差別大量殺人は、決して赦されるべきではない。憎しむということが不幸なことは重々承知している。しかし、それでももしも米国の犯した罪がキリストの血で贖われているのだとしたら、俺はキリストをも憎む。人々の罪を背負い、磔刑(たっけい)にされた? 冗談じゃない。長崎の人々は罪もないのに、地獄の業火でその身を焼かれ、人であることすらも奪われたんだ!」。

「憎むべきは戦争です」と幸作は言った。

「ああ、そうさ。広島も長崎も戦争の犠牲者だった」正平は言った。「しかしそれで割り切れるのか? 俺はそこまで人間ができちゃあいない。若先生、あんたは満州で俺にこう言った。『日本は負けません』と。今でもそう考えているのか?」

「はい」

「戦争が終わったのにか?」

「まだ、戦争は続いています」

「なんてこった、戦争に狂っている人間がこんな僻地にもいやがる」

 幸作は何かを言おうとして言葉を呑んだ。日本はアジア各地に眠る資源を求め、帝国主義的野心に因って、戦線を拡大していったのか? 否。確かにそんな政治的、あるいは経済的側面もあっただろう。しかし日本が夢見たのは、あくまで大東亜共栄圏の夢だった。もしかすると見果てぬ夢だったかもしれない。その戦争目的が達成されるまで日本の戦いは続くのである。

 1950年、つまり東京裁判の結審から二年後、マッカーサーはトルーマンと会談し、言った。「東京裁判は誤りだった」と。彼は「日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島にひしめいているのだということを理解していただかなければなりません。その半数近くが農業人口で、後の半分が工業生産に従事していました。潜在的に日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けているよりも、働き、生産しているときの方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでも良いようなものを発見していたのです」。言った。これこそ日本人が国家に従事していた証だった。日本人は子どもを育て上げるように、国家を育て上げた。それは親にも等しき愛情だった。そしてマッカーサーは続けた。「これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要であったことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんどないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない。その他、実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もしもこれらの原料の供給が断ち切られたなら、一千万から一千二百万人の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」。

要するにマッカーサーは、日本が自存自衛のために戦争に突入した、と言っているのである。しかし違う。マッカーサーも重要なことを見落としている。日本はアジアの解放、独立、大東亜共栄圏を夢見て戦ったのである。日本の夢見た大東亜共栄圏とは、アジアを独立解放し、即ち関税を撤廃した自由貿易のできる、アメリカ、ソ連、ヨーロッパに次ぐ第四勢力の構築にこそ、その目論見があった。なので、日本は国際連盟で、全世界における人種差別の完全廃止、「世界人権宣言」の嚆矢となる発議をし、先進国から否決され、国連からの脱退、孤立を深めた。

「キリストは」と正平が言った。「一つだけ偉大な思想を後世に遺した。人間は平等であり、人権を有している、と。日本はキリスト教圏の国じゃない。アメリカは日本人を人間だと思っていない。猿の群れに、特殊爆弾を使用しても、心は痛まない。日本人にも人権などという発想がないから、特高は政治犯や思想犯に対して、ずいぶんひどい拷問を繰り出したそうじゃないか。日本人が神を畏れているのならば、こんなことにはならなかったはずなんだ。しかし日本の神は、その存在のせいで、日本の百姓を滅ぼしてしまうところだったんだ。現人神なんて祭祀は、これこそまさに非人道的じゃないか」

 正平は歪んだ顔をしてふと押し黙った。

「それこそ人道的です」と幸作はしばらく間を置き答えた。「日本人は、日本人が信じるべき神のために武器を持ち、立ち上がりました。家畜が神のために自らの命を差し出すことは有り得るでしょうか? 日本人は信じるべきもののために命を懸けて戦い抜きました。それは人間だからこそ成し得た、最も人間らしい戦いだったのではないのかと私は考えています。我々は心に一つでも信じ抜けるものを持っているでしょうか。人間は心に信じるべきものを一つでも持っているとき、無限の力の源になるのです」

「俺と、若先生の間には、水と油ほどの隔たりがあるようだな……」

 正平はふと押し黙った。

「ところで」と幸作が言った。「正平さんはどうやって長崎から新潟まで帰ってきたんですか?」

「それはな――」と正平は言い、語り始めた。

 正平がボロ舟に乗って、朝鮮から日本の平戸に辿り着いたのは十五日の午前中だった。それから長崎の惨状に二日間触れることになった。それから再び平戸に戻ってきた正平は、そこで一人の漁師と知り合いになった。その漁師は名を前崎(まえさき)一味(いちみ)といった。五十代後半で、坊主頭の、はち切れんばかりの肉体を持っていた巨漢だった。前崎は正平の身の上の事情を詳しく聴いてくれた。彼は極めて人情家だったのである。正平からは「俺を雇ってくれ」と言うのは言い難いことだったろう。何故なら正平は長くても二週間、働けるか、働けないかの立場に立たされていたのだから。そんな事情をまるで察するように、前崎は正平を呼び出すと、「数日間でもいいから俺の漁船で働いてくれや。お前なんかが漁船に乗り込んだとて、大漁になることはねぇと思うが、漁が暇なときに、できるなら新潟まで船を出してやるからよう」と言ってくれた。正平は感極まった。「一味のおやじさん、済まねぇ、そしてありがとう」。かくして正平は前崎の船に雇われて、漁をしながら新潟まで帰ってきたのであった。その日数に十二日間を費やした。

 正平は「一味のおやじさん、このご恩は一生忘れねぇ」。言った。たった数日間、一緒の船に乗り込んだだけで、彼らは家族に近い絆を築いていた。正平は涙を迸らせ、前崎の船が遠く長崎に帰るところを船影が見えなくなるまで、名残惜しい瞳で見送った。

 一味のおやじさんを訪ねて、もう一度、長崎を訪れる。正平は心に誓った。

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