第15話
幸作と茶子は挨拶回りの最後によし乃婆の家に寄ることにした。よし乃婆とは昨日、交流があり、改めて挨拶するほどではなかったが、幸作はよし乃婆とゆったりとした時間を過ごすことを望んだ。そうすることが幸作にとって本当の帰郷だった。よし乃は昔から幸作(もっとも他の子どもも)を無条件で可愛がってくれた。幸作が物心つく前に、彼の母親は結核によって亡くなり、幸作にはよし乃の存在が、もっとも母親に近しい存在だった。
よし乃の家は日溜まりの中にまるで取り残されたかのように構えられていた。庭の隅には大きな桜の木が伸びていて、茂った緑からゆらゆらとし太陽の雫が降り注いでいるのだった。見るからにあばら家で台風でも直撃したら、倒壊してしまうのではないか? と思われた。幸作が玄関で「ごめんください」と声をかけると、よし乃が家奥から静かに玄関まで歩いてきた。よし乃は「おやまぁ。若先生に茶子さん」と言って、快く出迎えてくれた。よし乃によって幸作と茶子は居間に通された。そこは四畳ほどの部屋だったが、縁側と庭に面していて、少なからず開放感があった。神棚の脇には天皇陛下の肖像がかけられてあり、部屋の一隅に質素な仏壇が構えられていた。そこにどんな仏が眠っているのかは、様々な噂があったが、幸作と茶子には分からなかった。幸作と茶子はそこに線香をあげ、お祈りした。
よし乃が生まれた年は嘉永六年、日本ではいわゆる黒船が来航した年に当たる。
泰平のねむりをさますじやうきせん
たった四はいで夜もねられず
江戸の街に何処からともなくこんな落書きが流布された。「じやうきせん」とは高級茶のことである。「上喜撰」という。それを「蒸気船」とかけている。
この「黒船来航」という一大事件から、日本は幕末の混乱史が幕を開ける。攘夷論「夷敵(外国人)は打ち攘(はら)うべし」が沸騰し、尊王、開国、佐幕、入り乱れての大混乱に陥った。
よし乃はそんな混乱史の中で幼少期を過ごした。彼女は箱根で生まれた。旅(はた)籠(ご)で産声を上げ旅籠で育てられた。母は宿場女郎で、父は誰か分からなかった。宿場女郎とは宿場町が抱える、飯盛り女のことで、風呂食事を世話してくれる女のことだ。そして彼女たちは旅人に性交も提供した。この時代の旅人は九割までが男性であった。往時の日本人は性交を衣食住と同じように考えていた。つまりそれはごく自然な営みであると。古事記の中にも神々が性交に愉悦する姿が官能的に描かれており、原日本人の性交に関する価値観が少なからず窺われる。豊穣祭の中でも一風変わった風俗を持っている地域があり、その祭りの中で顔も素性も分からない男女が性交をするという。農耕民族である日本人にとって、農業とは身近なものであり、同時に尊い営みであった。農業は種を蒔くところから始まるため、人間が種を蒔く行為もまた豊穣を祈願する一種の神事なのであった。この祭りは身分を問わなかったため、普段は決して情事に及ぶことができない身分の男女が性交をするというロマンスがあった。
やがてよし乃が十五歳になるかならないかのときに、戊辰戦争が勃発した。日本は内乱のため、荒れに荒れた。幕府軍は箱根の険を頼りに、防衛線を張ったが、錦の御旗を持つ官軍の前に大きな抵抗も見せることなく(小競り合いはあった)、江戸に退却を始めた。よし乃もこのときの戦禍を肌身で感じ、官軍と共に江戸表に上った。江戸は少なくとも、よし乃が見た限り、決戦の雰囲気が濃厚だった。百万人規模の人口を抱えていた大江戸も、各藩邸や武家屋敷から、武士や士卒が大挙して国元へ帰ってしまったため、かつて「喧嘩と火事は江戸の華」と謳われた情緒はなく、閑散とした様子だった。江戸の街はこれによって、深刻な経済不況に陥ったほどである。よし乃は江戸へ出てきて、すぐにある旅籠屋で働き始めた。
慶応四年四月、江戸城は無血開城を選択した。官軍はただちに江戸を占拠し、中央集権的な臨時政府を立ち上げるに至った。この新政府を支持したのはイギリスであり、旧幕府軍を日本政権として支持していたのはロシアやフランスだった。官軍が江戸の街に雪崩れ込んでくると、たちまち旅籠はめまぐるしいばかりの忙しさになった。旅籠に入りきらない士卒は民家の一隅を借り受けて、宿とした者もいたくらいだから、このときの混乱が窺えるだろう。
折しもよし乃の働く旅籠を宿とした武士がいた。彼は名を浜崎(はまざき)能村(のむら)といった。長州の出で彼は馬廻組の子として生まれた、上級武士だった。目元が涼しく、静かな微笑を浮かべる顔が良く似合った。能村はよし乃の六歳年上だったが、よし乃は能村に惹かれた。よし乃と能村の物語は、あるいは一つの完成された愛の物語であるが、この物語とは全く別の物語であり、互換性はない。旅籠屋は大体、女性の手しかないので、力仕事もすべて女性が行っていた。
その日は良く晴れた爽やかな日で、青空が何処までも突き抜けていた。雲雀(ひばり)が歌を囀(さえず)り、温かな日溜まりにふっと吸い込まれた。よし乃は庭に出て、薪割りをしていた。すると能村が縁側に腰かけ微笑しながらよし乃の薪を割る姿を眺めている。よし乃は「殿方ならば、手伝ってくれても良いではありませんか」。不満を口にした。しかし能村は「それは君の仕事であって、私の仕事ではない」。偏屈なことを言った。よし乃は裾をまくり上げ、肉付いたおみあしを丸出しにして薪割りに精を出していた。能村はいつまでもそれを微笑しながら見ていた。
四月も暮れに差しかかり、いよいよ暖かくなり始めた頃、よし乃は能村に誘われて浅草寺にお参りに行った。能村は観音様(聖観世音菩薩)に向かって、ずいぶん長いお祈りを捧げていた。その帰り途に、茶屋に寄って、端午用の三色団子と、ほうじ茶を喫した。能村は決して口数が多い男ではないが、ほうじ茶を飲みながら、「茶と真心は熱いものに限る」。言って、それから「近々、私は越後に向かうことになるであろう」と言った。よし乃は「え?」と鈍感につぶやいた。いつかはこんな日が訪れると分かってはいたものの、あまりに唐突で早過ぎる。まだ能村が旅籠を宿として一ヶ月しか経っていなかった。よし乃は不躾なほど能村の顔を見つめていた。能村は「よし乃よ、越後とは、どのような土地であるか知っておるか?」。尋ねた。よし乃は少し考え、「大変、寒う土地であると伺っております」と答えた。能村は「ふむ」と鼻を一つ、二つ、鳴らせると、「越後の長岡藩と戦をする。河合殿は頭の働く男だ。河合殿の指導の下、わずかな期間に長岡藩の軍政を刷新し、アームストロング砲とガトリング銃を手に入れおった。この戦は戊申の分水嶺となる激しい戦が予期されるのじゃ」。言った。能村は「おなごの君にこのようなことを言っても詮無いこと。しかし私は近々、越後に出向く。今日は君と浅草参りができて良かったぞ」。言った。するとよし乃は急に立ち上がり、能村の手を引くと、浅草寺に取って返した。「あなた様は薄情者でございますけれど、わたくしはそうではありません」。言った。そして浅草寺で御守りを買い求め、能村に祈りを込め、「どうか、ご無事で」。言って手渡した。
能村は五月、旅籠を引き払い、行軍に加わった。六月になり、七月になった。その間、よし乃はずっと不安に悩まされていた。瓦版(かわらばん)の隅から隅に目を通し、長岡戦争の情報を集めた。長岡藩の藩主(榊原家)は政治、軍事の一切を家老の河合継之(かわいつぎの)助(すけ)という男に任せ、河合指揮のもと、長岡藩は長岡城を官軍に占領されたが、それを再奪還することに成功し、いよいよ戦は激しさを増していると聞く。特にガトリング銃は、この戦争で凄まじい火力を発揮した。
そんな折によし乃は夢を見た。能村が夢に出てきて、ひょっこりと旅籠に顔を見せ、そして「よし乃よ、去らばじゃ」と言って別れてゆく物語風の夢だった。よし乃はその夢を見た早朝、旅籠屋に暇を出し、越後に赴いた。
まず初めに小千谷という土地へ向かった。そこでは北越戦争(長岡戦争)の実質上の降伏勧告が行われた土地で、その勧告を承服しかねるとした長岡藩は戦争へと転がり落ちた。小千谷では能村に関する消息を聴くことができなかった。よし乃はさらに前戦地となっている長岡藩郊外の十日町という地を訪れた。十日町から長岡の町並みが霞んで見え、ところどころから噴煙が立ち上っていた。火薬の臭いが十日町まで漂って届いていた。もう七月だというのに、重い噴煙が長岡の町並みの頭上に圧するようにかかっていた。そこでよし乃は能村の消息を知ることとなった。能村と同じ長州藩の馬廻役から情報を聴くことができた。すると能村は負傷し、越後は高田藩郊外の村で手当てを受けていると聴かされた。
よし乃はすぐにその村へと向かった。村は小さな集落だったが、村人に能村のことを尋ねると、「ああ、長州様の浜崎能村様でございますね。この村には続々と負傷者が運ばれてきております」と言って、能村が手当てを受けている民家まで案内してくれた。その家こそ、現在の浜崎よし乃の家だった。よし乃はそこで能村と再会を果たした。すぐ隣りには日下療養所という高田藩お抱えの典医をしているという、日下家の小さな屋敷が構えられていた。当時の日下家の当主は日下典随(くさかてんずい)(幸太郎)という人だったが、よし乃は典随から能村の容態を窺った。すると典随は「能村様の心の臓に弾が入っておる。これを取り出せばたちまち大出血を起こし、快復は絶望的じゃ。しかもその弾はいつ心膜を破るとも限らぬ。能村様はもういつ亡くなられてもおかしくはない」という所見を述べた。能村は二発の銃弾をその身に受けていた。肩に当たった銃弾は貫通したと言うが、胸に当たった銃弾は、心膜でぴたりと停止し、能村の身体の中に残り、心筋運動の妨げになっている。能村が手当てを受けていた家には老婆が一人だけで住んでいて、この老婆が能村の世話をしていた。老婆は温厚で、人好きが良く、人情家だった。よし乃はこの老婆に頼み込んで、この家で能村の世話をすることに決めた。老婆は快諾してくれた。よし乃は宿場女郎の子であったが、老婆には何処ぞの武家の娘だと思われていた。能村は肩から胸にかけて包帯を巻いていたが、よし乃はそれを清潔な包帯に毎日、替えた。肩の傷は膿んでいた。能村は眠っている時間が長かった。それは安らかな寝顔だった。起きても、顔色を苦痛に歪ませることはなかった。
よし乃は典随から、滋養強壮と名の付く漢方薬を何処かから調達してきて、それを煎じて能村に飲ませた。能村の咀嚼力が弱かったときには毎日、粥を作った。しかし能村はよし乃を早く江戸に帰らせたかった。自分のような男と一緒にいても、この娘は幸せになれないことを痛いほど知っていた。能村はわざとよし乃に冷たくあたることもあった。能村の包帯をよし乃が替えているとき、能村は不意に「いつか君に話したことがあったな。薪割りは君の仕事であると。私の仕事は戦に赴くことじゃ。そこで斬られるならば本望というもの。しかし私が死ぬのは、戦場(いくさば)であって、このように床の上で死を前にしていることを恥じておる。まことに無念じゃ」と胸の内を吐露してくれた。それから数日後に能村はよし乃に婚儀を挙げるように提案した。よし乃は涙ながらにこくりと頷き、能村の胸に額をぴたりと寄せ付けた。能村は「私は国元に父上と母上を残してきた。書状を書き送っておいたから、私にもしものことがあったときは便宜を図ってくれよう」と言った。「私が死ねば、いくらか金になる」。能村は冗談めかして言ったが、よし乃は堰を切ったように泣き出してしまった。
婚儀の日に能村は紋付き袴を着用し、よし乃も典随の計らいで、婚礼衣装を身にまとっていた。この婚儀に参加していたのは、老婆と典随だけであった。典随が同席したのは、能村とよし乃が確かに婚儀を挙げたことを証明するためにこの席に就いた。能村は静かに微笑していた。その一ヶ月と二週間後に能村は亡くなった。
しのびなききみを残していくさばへ
越後のそらはけふもしのつく
能村の辞世の句であった。
やがて時代は明治になっていた。明治元年はまだ戊申の戦の火種があちらこちらで燻っていた。戦が終結すれば、治世が始まり、失業軍人たちの一掃が始まる。
よし乃は老婆と共に、能村が亡くなった家で、明るく強く生きていた。新生日本政府から能村が遺してくれた軍人恩給がよし乃の手に渡された。当面の生活に困らない額だった。その頃、廃藩置県によって、高田藩は解体され、日下典随は村で隠居生活を送っていた。入欧政策により、医学は歴史的岐路を迎えていた。漢方医学が少しずつ、でも着実に、巷から忘れられようとしているのだった。そこで典随はよし乃に、日下家が培った漢方医学を叩き込んだ。漢方薬の処方箋もすべてよし乃に譲った。よし乃は聡明で、朝は講義を受け、昼はやぶに分け入った。手に入らない漢方薬などは、自分(老婆)の家で畑を設けて栽培する取り組みをした。典随はよし乃が軍人恩給で生活している間に、この村で生きられるように途を付けてくれたのだった。
よし乃はその後、再婚することはなく、能村との思い出が詰まったこの家で、ずっと暮らしている。
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