第13話
親戚の家も知人の家もほとんどが留守宅だった。幸作と茶子は諏訪町にある大久保家を訪ねることにした。諏訪様の杜の麓に構える広大な屋敷だ。
諏訪町は人混みで溢れ返っていた。諏訪町を貫くようにまっすぐな沿道が伸びている。その沿道の両端には三十を超える露店がひしめき合っていた。食物を扱う店がほとんどだったものの、くじ引きや、射的、金魚すくいや、ヨーヨー釣りなどの露店も見受けられ、子どもたちはそれらの露店で、屈託なくはしゃいでいた。幸作はそんな風景を眺めながら、沿道を諏訪様の杜の方へ歩いていた。
大久保家はさすがに名家の家柄(いわゆる豪農組であった)らしく、門構えも仰々しい立派なものだった。門は開け放たれ、しばらく庭園を歩くと、立派な屋敷が構えられている。屋敷の扉を開けると、すぐに玄関になっていて、幸作は「ごめんください」と声をかけた。すると屋敷の奥から堂々とした体躯を持った白髪の男が現れた。彼は杖をつきながら玄関に出て、幸作たちを迎えた。その男こそ遼介の父であり、現在村議会議員も務めている、大久保家第十一代当主、大久保正毅であった。彼は白髪をポマードで固めてオールバックにしていた。白い髭が整然と生え揃っていた。如何にも威厳に満ちた堂々たる大丈夫だった。
幸作と茶子は正毅の案内に従い、居間へ通された。居間は十六畳の和室だった。畳の落ち着いた香りが漂っていた。その部屋の隣りには、床の間があり、仏壇が設けられ、盆栽や掛け軸、あるいは壺などの骨董品が飾られていた。正毅は幸作と茶子に座布団を勧めると、彼自身は座椅子の上にどかりと腰を落ち着けた。
幸作は「昨日、帰って参りましたが、挨拶が遅れたご無礼をお許しください」。丁重に言って、無礼を詫びた。すると正毅は「君が無事に戻られたのならば、それでいいじゃないか」と言って、笑った。笑うと目尻に皺(しわ)が走るのが、魅力的だった。彼は左足に障害を抱えていた。しかし歩けないほどではなく、杖さえ使えば弥彦山にだって登れる。
正毅は若かりし頃、日露戦争において一個小隊を預かる少尉として旅順攻略戦に加わっていた。そのときに流れ弾が彼の左足を撃ち抜いた。それ以来、彼の左足には多少の障害が残ったのである。正毅が日露戦争に赴いたことは、当時、村中の話題をかっさらった。当時、戦争に兵卒として駆り出されるのは、農家の次男坊や三男坊がほとんどだった。西南戦争のとき、旧薩摩藩士たちは、鎮台兵(日本陸軍の前身)のことを農民の寄せ集めとして、鼻で笑っていたくらいだ。そんな事情の中で、正毅は士官学校を出て、尉官を授かり、出兵した。彼の父母は無論、正毅の出兵に激しく反対した。正毅には大久保家を継いでもらわなければならない。しかし正毅は「有史以来、未曽有の国難に遭っております」。言って、決意を表明した。この戦争に出兵することが、彼の人生の中でどんなに大きな経験になるのかを、正毅は計算を張り巡らせていた。
彼が村に戻ってきたのは旅順陥落から一ヶ月後のことであった。彼は足を負傷し、帰ってきたので村人をあっと驚かせた。やがて日露戦争、勝利の報が流れると、大久保家に足を運ぶ村人は後を絶たなかった。正毅から日露戦争(旅順攻略作戦)の、『神話』を聴きに訪れるのである。彼らはあるいは難攻不落の旅順要塞がどのようにして日本人の血を吸ったのか、どのようにして陥落したのかを正毅から聴いて、その凄まじさに思いを馳せた。
正毅は如何にも退役軍人らしい体つきをしていた。それは現在も昔も変わらなかった。
彼は煙管(きせる)を取り出すと、それに煙草の葉を詰めて燻らせ始めた。「君が帰ってくれて何よりだ」と彼は言った。「これで日下先生もいつでも引退できる」。正毅は茶子に眼をやり、「君が不在の間、茶子さんはずっと寂しそうだったよ」。何処かで聞いたようなことを言った。幸作は「はい、家内には寂しい思いをさせてしまいました」と答えた。
すると理子が茶を運んで居間に入ってきた。幸作は「姉さん、こちらにいらしてたんですか?」。驚いた。理子は「ええ、ここはわたくしの家だもの」。言った。理子は姑のトヨが旅行で不在にするところを狙って、大久保家へ帰っていたのだ。
「君はどうして軍医に志願したのだね?」正毅は幸作に尋ねた。
幸作は「信じたからです」と答えた。「しかし……」。
正毅は「ほう? 信じた? 何を信じたのだね?」。尋ねたが、幸作の返事を待つことはなく、「君が信じたものは嘘でも実でもない」と言った。「しかし、この国に実際に生きている人々だ。日本は敗れた。しかしこの先、何が変わると言うのかね? この村は中央から遠く離れた鄙びた田舎に過ぎないよ。村民の生計もほとんどが農業と漁業で成り立っている。日本が敗れたからと言って、それは何も変わることがないのだよ。人々は魚を獲り、穂をしごいて生活する。そこには社稷(しゃしょく)があるのだから、日本は滅びることはないのだよ。春になれば桜花が咲き誇り、そして冬になれば、すべての汚点を雪(すす)ぐように真っ白な雪が、村の色を奪い、塗り替えてくれる。そんな日本人の心情は戦争に敗れたからと言って、何人たりとも侵すことはできないのだよ。米国も日本を研究すれば、この国土の豊かさを知り、美しさを羨み、偉大な道義国家であることを、すべからく知るようになるだろう。日本人の心情を変えることは誰にもできないのだよ」。正毅はそう言うと、目尻に皺を走らせた。煙管から煙を吐き出し、灰を皿の中に落とした。
「日本には武士道がありますから!」と理子は突発的に言った。
明治維新によって、日本は世界の檜舞台へといきなり躍り出た。国際社会の中で、日本は右も左も分からぬまま、ステップを踏んだ。ロシア皇帝ニコライ二世は、公文書簡にまで日本人を「マカーキー(猿)」と呼んで憚らなかった。日露戦争は有色人種である日本人が、白人社会というあまりにも強大な化け物と、初めて血みどろの戦争をした物語であった。
「わたくしはね」と理子は言った。「新渡戸稲造さんの本を読んだことがあるのよ」
理子は新渡戸の著作である『武士道』を辞書で索引しながらすべて英文で読んだ。和訳にこだわらなかったのは、新渡戸の雰囲気を壊したくなかったのである。
その明治時代、日本の精神文化は新渡戸の著作『武士道』や、ラフカディオ・ハーンの評論文『神国日本』などによって、広く世界に知られることになった。
理子が「幸ちゃんはこの著作を読んだことないの?」。尋ねた。幸作は「ええ」と一言した。すると理子は「幸ちゃんも少しは新渡戸さんを見習いなさいよ」。言った。「この著作はね、冒頭部分にすべてが集約されているの。いい? 『武士道は日本の象徴である桜花に勝るとも劣らない、日本の土壌に固有の華である』。日本の精神文化を桜の花に喩えるなんて、こんな喩えを思い付くなんて、私、鳥肌が立ちました。ええ。立ちましたとも。ここに着目しなくてはダメなの。『固有の華である』、この『華』という字、『花』ではなくて『華』よ。これには『華やかな』っていう意味があって、英文にすると――」。
理子はいよいよ気持ちよくなって喋り倒した。するとその瞬間、襖(ふすま)が開け放たれた。そこにはトヨが立っていた。
「お義母さん!」理子は叫んだ。
一斉に彼女に視線が集まった。トヨは悠然と居間を覗き回した。「あら、理子さん、帰っていらしたの?」。トヨは言った。理子は「はい」と飛び上がらんばかりの、上ずった声で返事をした。正毅が「お前、還暦の記念旅行はどうした?」。尋ねた。トヨは「ええ、中止にさせて頂きました。せっかく幸作さんが戻られたのに、旅行に行くことはできませんもの。先ほどまで泉さんのお宅で、お茶をいただいておりましたの」。言った。続けて、幸作に顔を向け、「幸作さん」とトヨは言った。「無事なようでようございました。挨拶が遅れた非礼をお許ししてくださいね」。言った。幸作も「おばさん、ご無沙汰しております。家内共々お世話になっています」と言って頭を下げた。
理子は混乱していた。いるはずがないものがいるのである。彼女の脳裏に過去の嫁いびりの数々が去来し、鳥肌が立った。ええ。立ちましたとも。理子はほとんど反射的に腰を浮かせた。「お義母さん、今、お茶を煎れてきますね」。言って、そそくさと台所へと立った。トヨは「ふん」と鼻を一つ鳴らせると、座布団を用意し、そこに正座した。
やがて理子が茶を運んできた。理子は茶を煎れている間、この修羅場から逃れる策を、ほとんど死にもの狂いで考えていた。そしてすぐに思い至った。実家で良太郎が一人で留守を預かっていることを。「今、父がですね――」。理子は言った。しかし、それよりも素早くトヨが「あら理子さん、今日は久し振りに会えたんだから、この家に泊って行ってくださいな。大久保家の家庭の味も懐かしいでしょう?」。反応した。理子はぶるりと身震いを覚えた。〈泊って行けってどういうことかしら?〉。理子は恐ろしく深く、考え込んだ。〈まさか今日一日でこれまでお家のことを疎かにしていたことを詰られるんじゃないでしょうね? 冗談じゃないわ! 早くこのバカげた場から逃げ出さないと、とんでもない不幸が起こりそうだわ。恐ろしい。想像するだけで恐ろしいわ! 茶子さん、あなたならお義母さんがどんなにか姑息な手段で私を苦しめてきたかを、知っているはずよ。さぁ、何か言ってちょうだい。『理子さんは、お身体の加減が、あまりよろしくないので』と〉。理子は強烈に願った。
茶子が「あのう」と口を開いた。理子は〈言ってやって、私の守護天使さま〉。茶子を拝めんばかりに思った。
「今日はもうそろそろご無沙汰させていただかないと申し訳ないですわ」
「っ! あれまぁ!」理子は絶叫した。
すると幸作が「そうですね」と続いた。「今日は祭りですし、父さんに留守を預かってもらうのは忍びないですから」。言った。続けて幸作は理子に「今日は大久保さんの家で休養するのもよろしいんじゃないでしょうか?」と余計な一言を口走った。「今から里帰り出産なんて、ナンセンスですよ」。
「幸ちゃん!」理子は幸作を睨んだ。「もっとゆっくりして行けばいいのに……」
理子はつぶやいていた。〈このまま二人を帰してしまったら、まずいわ。何がナンセンスよ。お義母さんの餌食になるようなものだわ。エサ。恐ろしい。それにしても、この二人、殺人的に察しが悪いわね〉。理子は恐ろしく深く考え込んだ。それは底の見えない井戸の中に放り込まれ、窒息してしまうようなものだった。すると理子は軽い眩暈(めまい)を覚えた。まさにそのとき、理子は電撃的な霊感にずどんと打たれた。〈ああ、諏訪様に願かけた甲斐があったというものだわ〉。理子は「幸ちゃん」と言った。「実は近頃、眩暈を覚えることがあるの。貧血……かしら? でもわたくしはこれまで貧血の症状なんてなかったし、最近、足も浮腫(むく)んでいるのよ」。まさに起死回生のアイディアだった。あの幸作ならば、「少し心配ですね。診療所の方で一度、詳しい検査をしてみましょう」って言うに決まっている。
すると幸作は思わし気な顔をすると、理子の足を触診した。「今は、そんなに浮腫んではいないようですね」。言った。「念のために、診療所で検査をしてみましょう。よし乃婆の意見も聴いてみたいですし」。理子は「大袈裟なものじゃないわ」と言って満面の笑みを浮かべた。(やっぱり!)。これで、私は日下のお家に帰れるのよ。
トヨは何処か苦々しい顔をして笑っていた。トヨは「あら」と口にし。「理子さん、今日は大久保家でお身体を労わるのもよろしいんじゃないかしら?」。言った。
理子は再びぶるぶる震えた。〈いたわる? いたぶる、の間違いじゃないかしら〉。理子は震えあがり「私もそうしたいのですけれども、検査がありますので」。言った。
そんな水面下の攻防が続いているとも知らず、幸作と茶子はゆっくりと席を立った。すると正毅が「幸作くんに実はお願いがあるのだよ」と相談を持ちかけた。「本日は諏訪様の入り口にある、社で村の主だった連中がバカ騒ぎをしておるのだよ。もしも時間に都合がつくようなら、その寄り合いに少し顔を出してくれないかな。君の帰郷を皆に報せるいい機会にもなると思うんだが」。幸作は少し考えてから、「そうですね」と言った。「あまり時間がないので私が行っても、興覚めになるかもしれませんが、顔を出してみましょう」。正毅は「そうかい」と無邪気に喜んだ。「この酒は神前に供えてくれたまえ」。正毅はそう言うと、熨(の)しのついた一升瓶を幸作に握らせた。
この時代、軍人畑から政治家や、教職者に転身することは珍しくなかった。代表的なものを挙げると、秋山(あきやま)好古(よしふる)は大将予備役となっていたが、その座を蹴って、故郷の愛媛県、松山中学の校長に就任し、晩年を送っている。また戦争を主導した東条(とうじょう)英機(ひでき)も関東軍の参謀長から、陸相、内相を兼任していた。
従って、正毅からすればその寄り合いに幸作を送り込むことは立派な政略だった。分も悪くない。幸作は陸軍中尉だし、彼は村民からも慕われている。寄り合いに正毅不在でも、正毅を彷彿とさせることができるはずだった。
すると今度はトヨが幸作を呼び止めた。トヨは「幸作さん、遼介さんを見かけたら一度、家に戻ってくるように伝えていただけませんか? 何しろ最近の遼介さんは体調が優れないみたいなのです。あそこにいたらぽっくり死んでしまうまでお酒を飲まされるそうじゃないですか」。恐ろしげに言った。幸作は昨日の遼介の悪い咳を思い出していた。「分かりました。そのように伝えておきます」。言って玄関を出た。理子は意気揚々と、日下家へ先に帰って行った。
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